安積親王薨去

 難波宮(難波長柄豊崎宮なにわながらとよさきのみや)(大阪市中央区法円坂)は孝徳天皇が大化元年(六四五年)に築いた。六八六年に全焼し長い間捨てられていたが、聖武天皇が神亀三年(七二六年)、藤原宇合に命じて再建させていた。孝徳天皇の宮を前期難波宮、聖武天皇の宮を後期難波宮という。前期難波宮は掘立柱に茅葺であるが、後期難波宮は礎石建に瓦葺である。

 天平十六年(七四四年)も閏一月になり、冷たい風が体に当たるが、日差しが柔らかくなって春の息吹が感じられる。

 諸兄は、難波宮の渡り廊下で立ち止まって口ずさんだ。

  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

 昔の人が難波津の歌を詠んだ情景が目に浮かぶ。寒い冬を耐えていた梅の花が、春になったので難波津を埋めるように咲いている。難波宮の梅の花もじき満開になるだろう。宮の外の日だまりに蕗の薹を見つけた。下女に採るように命じたから、今晩はシジミの吸い物に蕗の薹の和え物が出るだろう。難波宮に来て、恭仁京よりも一足先に春の味覚を味わうことができる。魚や貝も新鮮なものが捕れることはうれしいが、山育ちの自分は、どうしても磯の匂いになじめない。

 藤原宇合様が指揮しただけあって、難波宮自身は王宮にふさわしい造りをしている。

 大きな礎石の上に立つ朱色の柱は揺るぎそうになく、瑠璃瓦は、王宮の威厳を出している。玉石が敷かれ掃き清められた中庭は、日の光を反射してまぶしい。漆喰の白い壁は、海や空の青と鮮やかな対比を成し、庭の梅の木は白い花をちらほらと咲かせている。

 しかし、上町台地は長細いだけで十条十坊の道を作るだけの土地はない。難波大道を朱雀大路と見なすことはできるが、儀礼の場として狭いことは否めない。都にするのならば、公卿百官の家を建てる場所も確保しなければならない。市場をどこに置くか等々、民部省や摂津職せつつしきに案を考えさせているが、問題は解決するはずがない。中務省に作らせた遷都の詔も天皇様に目を通していただかなければならない。

 海猫の群れが急に騒ぎ出したと思ったら、中庭を走りすぎようとする鈴鹿王が目に入ってきた。

 諸兄が大声で鈴鹿王を呼び止めると、鈴鹿王は諸兄のいる渡り廊下まで駆けてきた。

安積親王あさかしんのう様が薨去なさった」

 安積親王は、聖武天皇の第二妃である県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじの子供で十七歳になる。

 鈴鹿王は汗をにじませ、肩で息をしている。顔は引きつり、目はとがっていた。

「先日お会いしたときには元気だった。何があったのだ」

「足の病気で亡くなったという。平城京から難波宮へ来る途中で具合が悪くなって、平城京へ戻られたところで亡くなった」

「親王様に会ったときに、足は引きずられていなかった。血色も良く元気であられたのに急に亡くなるとは信じられない」

「儂のところの資人が早馬で知らせてくれたから間違いはない。儂は天皇様へ知らせる」

 鈴鹿王は諸兄の返事を聞く前に大極殿へ向かって走り出した。鈴鹿王が玉石を蹴るジャリジャリという音が響いてゆく。

 鈴鹿王殿の様子からして嘘やいい加減な知らせではない。突然の死は何か裏があるのか。元気だった安積親王様が事故ならばともかく、病気で死ぬということは考えにくいが、親王様を殺すという不逞の輩がいるとは思えない。皇太子が阿倍内親王様で、未婚だから、次の次の天皇が誰になるかは、大きな問題ではあるが、天皇になれない安積親王様を殺しても誰も得をしない。十七歳で成人していないから官位はもらっていないし、朝議にも出ていない。悪い噂も聞いたことがない。

 海猫の声はうるさいほどに大きい。

 聖武天皇が、安積親王様が亡くなられたということを聞いたらどうなるのか。基親王様が夭逝されたときは、三日以上食事をされなかった。殯儀もがりのぎのときには、人目をはばからず泣き出し、皇后様に支えられて退席したほどだった。感情の起伏が激しい天皇様がご子息の死を知ったらどうなるか。


 諸兄が天皇の部屋に入ったとき、聖武天皇は鈴鹿王と向き合って座っていた。

 部屋の中は明るく、白檀の良い香りが漂っていたが、空気はとても重かった。

 諸兄は一礼してから、鈴鹿王の隣に座る。

「お気を落としにならないでください」

「橘卿は、子供が死んでも気を落とすなと言うのか」

 聖武天皇の声は聞き取れないほど小さい。

 不用意な言葉で天皇様を傷つけてしまった。大失敗だ。元気を出していただきたいが、気むずかしいお方だけに、何と言って励まして良いかわからない。天皇様のことは鈴鹿王殿に任せておいて、自分は殯儀の準備に回れば良かった。

 聖武天皇は、うつむいていて顔を上げようとしない。涙を流しているらしい。

「安積は難波へ来る途中で具合が悪くなったという。難波宮へ遷ることは間違いであったのだろうか。天神あまつかみは罰として朕から子供を取り上げたのだろうか」

明神あきつかみである天皇様に罰を下す神などいません」

「では、なぜ安積は十七という若さで死んだのだ。朕に徳がないから、天災が起こり、子供が召されるのだ」

 気まずい沈黙が流れた。

 聖武天皇はうつむいたまま、小刻みに右手の人差し指を回している。

「亡くなった人を生き返らす術はありません。殯儀を行い、安積親王様が仏様の導きによって極楽へいけるようにお祈りしましょう」

 聖武天皇は顔を上げた。目が真っ赤に充血している。

「紫香楽の大仏は如何になっている」

「行基や大仏師らが頑張っております。巨大な物でありますので、いまだ土台の部分を造っています」

「安積が死んだのは、大仏に力を入れよという仏様の催促に違いない。朕が難波宮を都にするなどと言い出したから、仏様がお怒りなのだ。日本の都は仏様と一緒でなければならないと、仏様が朕に諭していらっしゃるのだ。難波宮を都とすることは間違いであった。朕は紫香楽宮を都とする」

 諸兄は鈴鹿王と顔を見合わせた。

 天皇様は子供の死に気が動転していらっしゃる。

 難波宮に都を遷すという詔を出す前に、紫香楽宮に遷都するとなれば、公卿百官の不満が爆発するかもしれない。安積親王様の薨去が仏罰だというのは、天皇様の思い込みに過ぎない。今度こそ諫止しなければならない。

「畏れながら申し上げます。難波宮に遷都するとおっしゃってから一ヶ月しか経っていません。何度も都を遷しては、百官や民が右往左往し、天下泰平、万民安楽という天皇様のお気持ちを実現させることができません。また、天皇様が都に腰を落ち着けられることで、人や物が都に集まり、国家は回ってゆきます。綸言汗の如しと申します。天皇様のお言葉に重みを持たせるためにも、遷都はできません」

「朕の言葉には重みがないのか」

「……いえ、そう言う訳ではありませんが」

「仏様が安積をして、難波宮へ遷るのは間違いであると教えてくださっているのだ。もう子供を失うことは嫌なのだ。過ちては改むるに憚ることなかれという。朕が初めて出した勅令を引っ込めたように、間違いは正さねばならない。朕は、紫香楽の大仏さえ完成すれば天下が良く治まると考える」

「大仏様は、きちんと造ります」

「橘卿は都に人や物が集まると言った。都を紫香楽に遷せば大仏様の造立も促進されるだろう」

「天皇大権の象徴である大楯、玉璽、駅鈴などをすでに難波宮に運び込んでいます」

「紫香楽宮へ持ってゆけばよい」

「太上天皇様はすでに難波宮に入られています。百官の多くも難波宮を目指しています」

「紫香楽宮へ向きを変えよ」

「恭仁京の造立、難波宮の改築に多くの費用をかけました。民の生活もぎりぎりになっているので、紫香楽宮を造る費用がありません」

「宮中の行事を質素におこない倹約に努めよ。足りなければ、諸国の正倉を開け。それでも足りなければ、皇族や高官の食封を減らして賄え」

「安積様の殯儀を行わねばなりません」

「遷都の差し障りとならない」

「難波宮を都にするという詔を、全国に配布する準備が整っています」

「紫香楽宮に書き直せ。橘卿は、ああ言えばこう言って朕の命令を実行しない気か」

「天下泰平、万民安楽を思えば、紫香楽宮に遷都することはできません」

 聖武天皇は、立ち上がり拳を握りしめながら大声を出した。

「もうよい! お前たちには頼まない。朕一人でも紫香楽へ行く。朕は紫香楽宮へ行かねばならないのだ。紫香楽で安積の冥福を祈るのだ」

 諸兄と鈴鹿王が思わず頭を下げているうちに、聖武天皇は部屋から出て行った。

 いつも天皇様は言うだけ言って出て行ってしまう。実務を行う我々のことなどお構いなしだ。

「橘殿ばかりに損な役割を押しつけて申し訳なかった。安積様の殯については、大市王おおいちおう紀飯麻呂きのいいまろを使って儂のほうで行っておこう」

「難波宮遷都の詔はどのように、取りはからおうか」

「正月に、公卿百官の全員に諮問するという前代未聞なことをやったうえで、ご自分の意見を通されたのだから、なかったことにすることはできまい。紫香楽宮へは行幸されると発表し、遷都の詔は貴殿が発布していただけまいか。天皇は一人ででも紫香楽宮へ行くとおっしゃったが、車駕や警護の用意もしなければならない。儂の方で手配しよう」

 聖武天皇様がいない難波宮で遷都の詔を読み上げる自分を想像すると滑稽でしかない。鈴鹿王には体良く嫌な仕事を押しつけられてしまった。

 天平十六年(七四四年)二月二十六日、橘諸兄は、聖武天皇が不在の難波宮で遷都の詔を代読したが、聖武天皇が紫香楽宮に遷ってしまったので、やむを得ず難波宮の整備を中止し、紫香楽宮に人や物を集めた。

 紫香楽宮のまわりの山を崩し木を倒して、官舎を作り始めたが、山に囲まれた場所に都を持ってくること無理なことは明らかだった。諸兄以下公卿百官は、恭仁京と紫香楽宮を行ったり来たりしながら仕事をすることになった。

 甲賀時の大仏造立は行基の貢献もあって順調に進み、天平十六年の末には仏像の体骨柱を建てるところまで進んだ。聖武天皇は大いに喜び、平城京から多くの僧を呼んで盛大に読経を行わせた。

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