長屋王の変

 屋敷の奥の部屋では吉備内親王と三人の子供が不安そうに待っていた。長屋王は下女たちに手伝ってもらい着替えを始めた。

 吉備内親王は不安そうな顔で「あなた……」と聞いてくる。鉤取王は母親の衣の裾をしっかりと握り、葛木王は落ち着きなくあたりを見渡していた。

 膳夫王は腕を組んで考えている。

「天武天皇は吉野から鈴鹿の関を抜けて美濃国へ行き兵を挙げました。我らもこの屋敷を抜け出して東国を拠点に舎人親王や新田部親王に反撃しましょう。当時、お祖父さまは十九歳でしたが、近江路で天武天皇軍を指揮し大活躍されたと聞いています。私も似たような年であれば、大活躍して見せましょう」

「膳夫の言うように東国へ向かうことは考えてみた。しかし、壬申の乱の再来は朝廷がもっとも恐れるところであって、天皇や太上天皇が不予になったり、代替わりするときは、不破、鈴鹿、愛発あらちの三関を閉鎖して、都から東国へ出られないようにすることが習いとなっている。舎人親王たちも固関こげんぐらいしているだろう。しかも、天武天皇は半年以上かけて河内国や美濃国の豪族を見方に引き入れ、近江朝内部も切り崩しにかかっていたし、兵を差し向けられる前に吉野を脱出した。今の我々のように、兵で囲まれていては抜け出ることも容易ではない。そもそも、屋敷には弓を引ける者、太刀を扱うことができる者は十人もいない。馬も数頭しかいない。囲みを突破して東へ向かうことなど不可能だ」

 膳夫王はうなってしまった。

「長屋王様、朝から気になっていることがあるのですが」

 部屋に入ってきた子虫は頭を下げて続ける。

「屋敷を包囲している兵が静かすぎるのです。四、五百人いるにもかかわらず鬨の声はおろか、大声を張り上げる者もいません。おそらく夜半に屋敷を包囲したのでしょうが、物音一つさせないので夜が明けるまで気づかなかったくらいです。静かすぎて不気味です」

 長屋王は部屋の明かり取りの窓から外の様子を覗いた。

 白い塀の向こうからは、ときおり馬の声がするだけで、物音一つ聞こえてこない。

 家人たちがおびえて息を潜めていることは理解できるが、兵の声がしないことは、子虫の言うようにおかしい。

 兵が出ていることを知られたくない?

 誰から?

「舎人親王は天皇の勅令で来たと言ったが、太上天皇様に会いたいと言ったら話をはぐらかした。太上天皇様は今回の出兵をご存じないのだ」

 丈部路石勝はせつかべみちのいわかつが下男、下女をつれて入ってきた。

「我々が屋敷内で騒ぎを起こしますので混乱に乗じてお逃げください。舎人の服を用意しました。長屋王様、お后様、皇子様方は着替えをし、お召しの衣を我らに貸してください。我らが着て囮になります」

 膳夫王と葛木王がすべて理解したという顔をして服を受け取った。

 石勝は「長屋王様もお早く」と急かす。

「私は正装をして正門から堂々と平城宮へ向かう」

「空の輿を我々で出しますから、長屋王様はお召し替えなさって裏門から出てください」

「あなた、体面を気にしている場合ではありません。石勝の言うとおりにしましょう」

「正門にて、左大臣の威厳で兵たちを睥睨する。その間にお前たちは宮中の元正太上天皇様の元へ駆け込め。聖武天皇は舎人親王たちにたぶらかされているから、間違っても天皇のところへ行ってはならない。太上天皇様に訳を話せば、兵を引くように詔を出してくださる」

 元正太上天皇は吉備内親王の同母姉あね。膳夫たちをかわいがってくださっているから、必ず保護してくださるはず。

「お父様は大丈夫でしょうか」

「正装した左大臣に刃を向けるやつなどいないから心配するな。輿に乗ったのでは誰だか分からないから堂々と歩いて正門から宮中へ向かおう」

「物置に火を付けることをお許しください。煙が立ち上がれば宮中の太上天皇様に気づいていただけると思います。火付けと同時に我々が屋敷の東門、南門、西門で大騒ぎをして兵の注意を引きます。その隙に、お后様と皇子様は西門から宮中へ向かってください」

「石勝らが起こす混乱に乗じて、鈴鹿王様、藤原長娥子ふじわらながこ様に使いを出してご助力いただいたらいかがでしょうか」

「石勝と子虫の提案を許す。盛大に煙を立てて騒いでくれ。宮中は屋敷から目と鼻の先にある。大騒ぎを起こせば太上天皇様が気づいてくださるだろう。藤原房前のところへも使いを出してくれ」

「藤原武智麻呂様が先ほどの審問に同行していらっしゃいました。武智麻呂様の弟様である房前様が力を貸してくださるでしょうか」

「今回の首謀者は舎人親王で、武智麻呂は嫌々引きずられてきたという感じだった。房前は太上天皇様が天皇のときに内臣として仕えることで出世してきた。太上天皇の意に背く事はしない。藤原四子といっても、官位官職が違い、それぞれ一家を構えていれば考え方が違うから一枚岩ではない」

「それでは、盛大に小屋を燃やします」

「資人たちに、一斉に門から出て兵の注意を引くよう申し伝えます。あわせて馬の上手な者を使いに出します」

 子虫と石勝は一礼して出て行った。

「お前たちも着替えたら西門へ急げ。私が正面で時間を稼いでいる間に元正太上天皇様のところに、なんとしてもたどり着け」

 吉備内親王と三人の子供たちは不安そうに見つめてくる。

「お母様を守ってくれ」

 鉤取王の頭をなでてやると、頬を引きつらせながら笑ってくれた。


 長屋王が着替えを済ませて「さて」と部屋を出ようとしたとき、部屋の外から金切り声が聞こえてきた。急いで廊下に出ると、鎧甲で身を固めた若者が、胴巻きを着け、短い槍を持った従者を二人連れて立っていた。金切り声を出した女は、腰を抜かしておびえている。

「お前は何者だ。名乗れ! 私を左大臣と知ってのことか」

「自ら名乗ってくれるとは探す手間が省けた。俺は藤原宇合ふじわらうまかいの長男、藤原広嗣ふじわらひろつぐ。天皇の命でお前を捕まえに来た。おとなしくしない場合は目にものを見せてやる」

 広嗣と名乗った武者は長屋王の一喝にもひるむことなく、不敵な笑いを浮かべて太刀を抜いた。

 銀色に光る刀身から殺気が上がっている。

 吉備内親王は声を出すことができずに立ちすくみ、鉤取王は母親の体に抱きついて震えている。

 宇合の長男というが会ったことはない。元服前のように見えるから無位の子供か。捕まえに来たなどと言っているが、太刀を抜き我々を殺そうという気合いが体からあふれ出ているではないか。

 長屋王はあたりを見渡した。

 丸腰で武器がない。廊下は袋小路で逃げ場がない。子虫も石勝もいない。絶体絶命だ。

 自分には武辺の心得がないから、刀があっても広嗣と名乗る若武者には勝てない。今の状況で勝機があるとすれば、ここが壁に囲まれた狭い廊下であることだ。広嗣を含めて三人いようとも、相手をするのは一人ですむし、狭すぎて太刀や槍を存分に振るうことができない。一か八かだが虎口を抜け出してやる。難局を切り抜けて舎人親王や関係した者たちを一網打尽にしてやる。

「膳夫は私と一緒に敵に飛びかかって奴らを押し倒す。葛木は母様と鈎取を連れてこの場を逃れよ」

 長屋王は膳夫の短い返事を聞くと、大きく息を吸い込んだ。

 長屋王は走り出して、左肩から広嗣にぶつかっていった。

 不意を突かれた広嗣は、長屋王に押し倒されたが、すぐに体勢を戻して長屋王に馬乗りになった。膳夫が大声を上げて広嗣に体当たりして、再び広嗣は廊下にたたきつけられた。

 長屋王は立ち上がると広嗣の顔を踏みつけた。広嗣の甲頭が床にたたきつけられてゴツンという大きな音を立てると同時に、腹部に激痛が走った。

 吉備内親王の叫び声が響く。

 長屋王は自分の腹に刺さった槍を両手でつかんだ。腹からは血が泉のようにあふれ出してきた。

 自分は殺されるような悪いことはしていない。代々の天皇を支え、国を安んじ、民のために尽くしてきた。道に外れるようなことも一切していない。何故に非道な目に遭わされるのか。

 せめて子供たちは…… 長屋王は腹から出た槍をつかんだまま倒れ込んだ。

 膳夫は広嗣に足蹴にされて廊下に倒れたところを、従者に槍で刺された。吉備は、両手を広げて葛木と鈎取を守ろうとしたが、広嗣に斬り倒された。鈎取は吉備にしがみついて泣き叫んでいるところを太刀で刺され、葛木は部屋へ逃げ込もうとして後ろから斬られて倒れた。

 長屋王は薄れゆく意識の中で、子供たちの名を呼ぼうとしたが、声は出なかった。

 五人の血が廊下を流れていった。


 石勝が起こした騒ぎで長屋王の屋敷周辺は騒然となり、子虫が物置につけた火は勢いよく燃え上がって白い煙を大量に上げた。

 騒ぎに気づいた元正太上天皇が、朝堂院で執務中の藤原房前を長屋王邸に向かわせたが、房前が長屋王邸についたときには、すでに長屋王たちは殺されていた。

 太上天皇は激怒し、聖武天皇、舎人親王以下を内裏に呼びつけて叱ったが、後の祭りだった。太上天皇は、長屋王と吉備内親王たちの死を悼み、長屋王らを生駒山に丁寧に葬るように命じ、長屋王邸で捕らえた者を全て赦免、長屋王の兄弟や残された子供たちには従来どおりの俸禄を認めた。

 さらに、長屋王の異母弟である鈴鹿王を昇叙し、舎人親王の役職である知太政官事を代行させ、「舎人親王が朝堂に参入する際に、官人は席を下りて敬意を表するにおよばない」という詔を出し、舎人親王から権力と権威を奪った。鈴鹿王は舎人親王が薨じると、正式に知太政官事に任命されることになる。

 房前は、天皇の体面を保つために、「長屋王は左道を学んで国家を傾けようとした。詰問したところ責を負って妻子共々自殺した」と発表した。

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