長屋王の変

運命の日

 基親王が夭逝した半年後の二月十一日早朝、長屋王の邸宅は兵に囲まれていた。

 子虫の知らせで、長屋王は慌てて寝所を出て、庭に面した廊下に立ち、白壁を凝視した。物音はしないが、膨大な量の殺気が塀の向こうから屋敷に流れ込んできている。

 屋敷の庭では家人たちが数人ずつ不安そうに固まっていた。厩では五、六人の男たちが立ち話をし、厨の戸口では、女たちがじっと門の方を見ている。馬が大きな声で鳴いた。

 長屋王は深呼吸した。朝の清浄な空気と一緒に殺気が体の中に入ってくる。眠気は完全に飛んでいった。

「兵を率いているのは誰だ」

「大屋根に登って見ましたが分かりませんでした。下人たちに顔見知りの兵がいたら聞くように命じています」

「都でみだりに兵を動かしたら謀反と見なされるのに、いったい誰が何の目的で兵を動員しているのか」

「兵の数からすると、五衛府のすべての兵が出ているようです。屋敷に押し入ってくるのでしょうか」

 子虫の不安そうな声は消えていった。

 五衛府のすべてが出てきているということは、授刀舎人事じゆとうとねりじの新田部親王が率いているのか。いや、兵を動かすことは国家の大事だから、朝議で諮り天皇の裁可を得なければならない。新田部親王が五衛府の長であっても、舎人親王が知太政官事ちだじようかんじであっても、左大臣の私が承諾しなければ兵は動かせない。

 舎人親王と新田部親王が結託した? いや、二人だけでは不可能だ。

 天皇ならば左大臣を飛び越して兵を動かせるが……

 聖武天皇が私に兵を差し向けるとは思えない。私は聖武天皇が皇太子時代からずっと天皇のために働いてきた。天皇に政を教え、天皇に代わって政を司ってきた。感謝されることはあっても、兵を向けられることなどありえない。

 気が弱い聖武天皇が兵を動かすような大胆なことができるとは思われないが、私を飛び越して兵を動かすことができるのは天皇だけだ。

「考えていても分からない。門に出て責任者に問い質してくれる」

 長屋王が着替えをしていると、息子の膳夫王、葛木王、鉤取王がそろって来た。吉備内親王も着替えを済ませて、不安そうな声で「あなた」と聞いてくる。

 成人している膳夫王は泰然としているが、下の二人の子供はおびえている。十歳に満たない鉤取王は吉備内親王を見つけると駆け寄って腕に抱きついた。

「心配することはない。すぐに片付けてやる」

 縁側を降りて、子虫が持ってきた下駄を履くと、丈部路石勝はせつかべみちのいわかつが走り寄ってきた。

「舎人親王様、新田部親王様、多治比池守たじひのいけもり様、藤原武智麻呂様、小野牛養おのうまかい様、巨勢宿奈麻呂こせすくなまろ様が正門にお越しです。皆様、鎧甲を着て太刀を佩いていらっしゃいます」

 冷気が長屋王の体を縛る。

「何の目的で来たというのだ」

「長屋王様を質すとおっしゃっています」

 左大臣である自分を格下の者が質すだと? 寝言は寝て言うものだ。だが、今日の騒動の犯人が見えてきた。

 舎人親王と新田部親王が聖武天皇に何かを吹き込んで、自分を陥れようとしている。

「小野と巨勢は五衛府の長官かみであるから付き添って来たのであろう。舎人親王、新田部親王、多治比、藤原を居間に通してくれ」

「鎧甲を用意しますので、長屋王様もお召しください」

「不要だ。このままで会おう」

「ですが…… せめて太刀を佩いてください」

 石勝は太刀を差し出してきた。

「平服で会おう。武具を身にまとって会ったら、奴らは謀反だと騒ぎ立てるだろう」

「長屋王様が謀反ですか?」

「左大臣である私が謀反とは笑わせてくれる。謀反は八虐の筆頭に記されている大罪で、刑は死罪。大臣や公卿であっても減刑されないし恩赦もない。奴らは私を殺すつもりできている」

 吉備内親王が小さな声で「あなた……」とささやき、子虫や石勝は不安そうな目で見つめてくる。

「心配ない。奴らに、左大臣の権威を見せつけてやる。奴らが何を言ってくるのか逆に問い質し、誣告の罪で全員の官位を剥奪し流罪にしてやる」

 子虫は一礼して正門へ走っていった。

 長屋王はゆっくりと本宅へ向かう。

 掃き清められ、砂利が敷かれた庭は、下駄で踏みしめるとギシギシと音を立てる。

 強い風が、池に波を立てた。

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