第5話 鬼子の友 (いじめ)

僕、タクヤは今少年院の中で入所生活を送っている。罪は殺人。でも反省する気は毛頭ない。あの時はああするより他なかった。理不尽だ。悪いのはあいつらの方だ。なぜ、僕だけが罪を償わなければならないのか。警察も、裁判所も、法律も、何もかもが信用できない。このまま世間に出ても誰も同情なんてしてくれない。僕は、殺人犯という汚名を着せられたまま、一生寒風の吹く中を歩み続けることになるであろう。それでもいい。悔いはない。

僕に課されたある使命をまっとうするために、僕は生き続けてやる。生きて、生きて、生きまくり、本当は何があったのかを皆に語り伝えてやる。二度とこのような悲劇が起きないようにするために。それが僕に残された唯一の使命だ。なぜなら僕は鬼子の友だからである。


思い返せば3年前、僕はまだ中学2年生だった。小学校の時からの幼な友達、タケシ、ヒロト、ユウタの3人と楽しい中学校生活を送っていた。4人はいつも一緒の仲よし、休み時間には4人集まっておしゃべりもし、下校時には日が暮れるまでウロウロと道草もし、そして夜には同じ塾にも通っていた。

勉強の方はというと可もなく不可もなし、まあ世間で言うドングリの背比べ、テストの答案はいつもお互いに見せ合ったりして、ゲラゲラ笑っていた。特に非行に走るようなこともなし。毎日決められた時間に登校し、夕暮れ時には家に帰る。誰から見ても、ごくごく普通の仲のいい中学生4人組みだった。

そんな楽しい日々に転機が訪れたのは、中学2年の秋のことだった。それはどうということないほんの些細なことから始まった。授業中に誰でも一度や二度は経験したことのあるアレである。僕は、人目をはばかりながら、先生に向かってそっと手を上げた。

「せ、先生、ト、トイレに行っていいですか。」

ウソではない。本当にトイレに行きたかったのである。でも、先生の反応は微妙に違っていた。

「おい、横山、あれが目に入らないのか。」

先生は、教室の後ろの片隅に貼ってある紙を指さしながら、あきれ顔で答えた。そこには、「トイレは授業が始まる前に済ませしょう」という貼り紙が、赤いマジックで目立つように書いて貼ってあった。大切な授業の途中で退席するのは、先生や他の生徒の邪魔にもなるし、たとえ一瞬と言えども授業が中断するわけだから、確かに迷惑な行為ではある。

ただ、尿意は自然に起こるものであり、いくら注意をして授業の前にトイレに行っても、100%止められるというものでもない。こんな当たり前のことが、この学校のこの教室ではそのまま通用しなかった。

「横山、あと10分ほどだから何とか辛抱できないのか。」

イジメではない、体罰でもない。先生は、ごく普通に、ごく当たり前のことを言っただけだった。でも、僕の尿意はもう15分も前から始まっており、今まで相当に辛抱を重ねた上での挙手であった。

「せ、先生、やっぱ無理。」

僕は、足をよじらせながら訴えた。

「しようのない奴だな。いいから、早く行って来い。」

先生は、少し嘲笑交じりの声で許可を出してくれた。僕は、大慌てで席を立った。

その時である。僕は、クラスメイトのほんの微かな視線を感じた。直接見たわけではない。ほとんどの者は、全く意に関せずというような風で、教科書を見ているか、下を向いているかであった。特に笑い声が聞こえたわけでもない。でも、僕はなぜだか見えない視線を感じた。その視線は、冷たいそよ風のように、スーッと僕の背中から心臓のあたりを吹き抜けていった。

そして、休み時間が来て、いつものように4人組みが集まった。僕は少しだけ不安があった。授業中にトイレに行ったことで、3人の中の誰かが何か言うのではないかという一抹の不安である。でも、僕のそんな不安は全くの杞憂に終わった。タケシも、ユウタも、ヒロトも、まるで何事もなかったかのように、いつものようにおしゃべりに興じた。わずかに違ったのは、当の本人である自身の口数が他の3人よりちょっとだけ少なかったということぐらいである。


それから、1週間ほどは何事もなく過ぎた。僕が授業中にトイレに行ったことなどすっかり忘れ去られ、4人は普段と変わりなく過ごした。

そして、2週間後、次の異変が起きた。

「3時限目は数学のテストだからな。いいか、トイレは休み時間中に済ませておくように。」

担任の先生が教室の喧騒をさえぎるかのように大きな声で叫んだ。僕は、「トイレ」という言葉に一瞬嫌な予感を覚えた。忘れていたことが急に頭の中をよぎった。

でも大丈夫。この前は、休み時間にトイレに行かずに次の授業が始まってしまった。あれから注意して、休み時間には必ずトイレに行くように心掛けている。そのせいもあってか、あれからは一度も授業中にトイレには行っていない。

僕は、自信を持って数学のテストに臨んだはずだった。しかし…。

テストが始まって20分を過ぎる頃、3問目の問題に差し掛かった時であった。どこかで見たような問題だった。少し考えればすぐにでも分かりそうなものだったが、肝心の公式が出てこない。僕は少し焦りを感じた。

難しい問題だったらすぐにあきらめたのかもしれない。でも何となく解けそうな、でも糸口が見つからない、そんなもどかしい気分のするいやな問題だった。ふと時計を見ると、3問目を解き始めてもう5分が過ぎていた。このまま次の問題に進むべきか、それとも後少し3問目を粘るか。そんな意思決定ができないまま、さらに2分が経過し、僕の焦りの気持ちはさらに倍加した。

その時である。あれだけ自信を持って臨んだはずの股間に突然の違和感を感じ始めた。「やばい」と思ったのも束の間、尿意はドンドン増してゆく。落ち付け、膀胱の中にはわずかの尿しかないはずだ。これは気のせいだ。

しかし、意識すればするほど尿意は強くなってゆく。時計を見ると、まだテスト終了まで20分もあった。僕は、少し足をよじって尿意を消そうとしたが、逆効果だった。足を動かしたことで膀胱が刺激されたのか、尿意はさらに強くなった。

もうテストどころではない。僕は時計をにらみながら、あと16分、あと15分と残り時間を数えた。でも、とうとう辛抱できなくなり、あと10分というところで手を上げた。

「せ、先生。」

「おう、横山、どうした。」

先生は、切迫した僕の心の内などまったく見えないかのように、大きな声で反応した。僕は、どうするべきか逡巡した。この前のこともあり、「トイレ」の一言がなかなか言い出せなかった。

もぞもぞしていた僕の様子を見て、勘のいい先生はすぐに反応した。それも教室中に聞こえ渡るような大きな声で言った。

「横山、またか。休み時間に行っとけと言ったはずだぞ。忘れたのか。」

僕は、黙ったまま顔をゆがませた。でも、先生はすぐには「いいぞ」とは言わなかった

「横山なあ、これが本番だったら笑いごとで済まんぞ。」

先生は、僕の尿意などまるで眼中にないかのように説教を始めようとした。でも、もう10分以上も辛抱を続けてきた僕にとって、まさに一刻の猶予もなかった。僕は、じっと押し黙ったまま、額に脂汗を滲ませていた。もう駄目だ。僕は、先生の許可を得る余裕もなく大慌てで席を立つと、教室の扉に向かって一目散に駆け出した。

「おい、こら、待て。」

先生の怒鳴る声に交じって、今度はクスッというクラスメイトの笑う声がハッキリと僕の背中で聞こえた。

その日の昼休み。さすがに3人の態度は微妙に違っていた。どこがどうとはハッキリとは言えない。もし、僕が鈍感だったらまったく気付かずに終わっていたかもしれない。3人はいつもと同じように僕を受け入れ、そして、いつもと同じようにバカ話に興じていた。でも、僕にはわかった。3人が明らかに先程の出来事を気にしていると。僕に気を遣ってくれていたのか、敢えてアノ話はしなかったが、嫌な雰囲気が僕の周辺に漂っていた。

僕もあまり自分の恥部には触れられたくもなかったので黙っていた。しかし、それがいけなかった。あの時、恥ずかしがらずに勇気を出して例の話をしておけば、少なくともこれから起きる悲劇はなかったかもしれない。


それから2週間。僕の授業中トイレは相変わらず続いていた。少なくとも1日に1度は行くようになった。尿意は我慢すればするほどひどくなっているような気がした。でも、事が事だけに誰にも相談できずにいた。もう少し早く自分から親に話すか、あるいは先生が気を利かして親に相談してくれていたら、そしてしかるべく病院で治療を受けていたら簡単に治っていたかもしれない。

しかし、現実はそれとは反対の方向に進んでしまった。その日の2時限目は苦手な英語の時間だった。いつものように、先生は最前列の生徒から順番に立って教科書を読むように指示した。一人目は英語が得意なS子さん。スラスラと読んですぐに自分のパートを読み終えた。次がタケシだった。彼も得意げに大きな声で教科書を読んでゆく。

僕の前にはあと3人の生徒がいた。僕は、教科書を見ながら自分が当たりそうな箇所を目で追っていた。3番目の彼がこの辺まで、その次がここ…。予習はしていたつもりだが、英語が苦手な僕にとってはまさに一語一語の発音が苦痛以外の何物でもなかった。ようやく自分が当たりそうなパートが判明し、僕は静かに頭の中でその部分を唱え返し、心の準備を整えた。

その時である、想定外のことが起きた。3番目のM君が読むのに詰まってしまったのである。どうやら予習をして来なかったらしい。アーとかウーとか言っているうちに、しびれを切らせた先生は、M君をすっ飛ばしてその後ろへと順番を進めてしまった。僕は狼狽した。大慌てで、一つ前のセンテンスに目をやったが、時すでに遅し。僕の膀胱はみるみる緊張の度を増してしまった。これまでにない強い尿意。

しかし、無情にも順番は先へ進み、ついに僕のすぐ前列のK君が立った。もうダメだ。僕はそっと手を上げた。

「どうしたの、横山君。」

英語の先生は怪訝そうな顔で、教科書を読み始めようとしていたK君をさえぎった。

「せ、先生。ト、トイレ。」

クラスの生徒全員がまたかという表情で一斉に僕の方を振り向いた。しかし、先生の反応は冷たいものだった。それも仕方のない話であった。英語の時間にトイレに行くのは初めてであり、また恐らく担任の先生からも僕のトイレ癖については引継ぎの説明もなされていなかったのであろう。

「ダメ、横山君。順番、次でしょ。自分の番が済んでからにしなさい。」

先生は、冷たく言い放つと、K君に続けるよう指示した。仕方なく、僕は両足をギュッと締めて辛抱した。しかし、頼みのK君は何度も詰まりながら、間違えながら、なかなか自分のパートを終えられない。その間にも、僕の尿意はさらに強くなり、もう1分たりとも待てそうになくなった。

「じゃあ、次、横山君。」

確かに先生の声が僕の鼓膜に届いたような気がした。でも、緊張のあまり頭の中が真っ白になり何も聞こえない。心臓は早鐘のように脈打ち、呼吸も苦しくなった。いわゆるパニック障害というやつである。朦朧とする意識の中、かろうじて立ち上がったその瞬間に、ずっと締めていた股間の筋肉が思わず緩んだ。

「キャー」

何人かの女生徒から悲鳴が上がった。先生の目も点になった。漏れ出た液体がジワーッとズボンを染めてゆく。大した量ではなかったが、ズボンに大きな地図を描くには十分だった。

僕は、思わず駆け出した。恥ずかしさとパニックでもう何が何だか分からない。とにかくその場から一刻も早く逃げ出したかった。後ろを振り向きたくもなかった。教室の中は水を打ったように静まり返っていた。

トイレに駆け込んだ僕は、ぐっしょりと濡れたズボンを見つめながら茫然と立ちすくんだ。涙が止めどもなく溢れ、チャイムが鳴るまで両肩は小刻みに震え続けた。


その日の翌日、母親に付き添われて僕は初めて駅前の泌尿器科を受診した。僕の病名は「過活動膀胱症候群」。大して尿がたまっていないのに、極度に緊張したり、あるいはトイレのことばかり気にしたりしていると、どうしようもなく行きたくなってしまう病気だそうだ。特に身体的な病気というよりは、むしろ精神的な問題らしい。実際、トイレに行って用を足そうとしても、ほんの少しチョロリとしか出なかった。

とりあえず、不安や緊張を和らげる「抗不安薬」が処方され、しばらく様子を見るということになった。これでよくならない場合は、認知行動療法を併用するという。カウンセリング等により、尿意を催した際に、緊張を和らげ、尿意を意識の外に追いやる自律訓練をするのである。

これで、とりあえず不定期に僕を襲っていた尿意の原因がハッキリした。しかし、一旦友人たちとの間に入ってしまった亀裂は容易には元に戻らなかった。それどころか、その亀裂は、この後修復しがたいほどに開いてゆくことになる。

その日1日学校を休んだ僕は、2日目から登校した。わずか1日しか経っていないのに、なぜか教室がとてもよそよそしく感じ、初めて転校してきたような気分だった。クラスメイトの反応も微妙だった。恐らく事前に先生から言われていたのであろう、特にからかったり冷やかしたりする声も聞かれなかった。でも、何かが以前とは違っていた。クラスメイトが僕を見る目には、興味と畏怖の念が見て取れた。

中学生になって教室の中でお漏らしをした生徒、わずか1時間のトイレも辛抱できないだらしのない子、クラス全員の目にはそう書いてあった。僕は、そっと伏し目がちに自分の席に着くと黙って教科書を広げた。そして、何事もなく授業が開始された。

しかし、異変はその日の午後に目に見える形で起きた。

「悪いけど、今日は3人で帰る。」

タケシが済まなさそうに脇を向いた。ある程度覚悟はしていた僕は、敢えて理由も聞かなかった。そうであろう。授業中に衆目の前でズボンを濡らした恥ずかしい生徒が目の前にいる。そんな奴と肩を並べて歩くことなどできようはずもない。

仕方なく、僕は3人と少し離れて、トボトボと1人で下校した。薬を飲めばきっと僕のトイレ癖はすぐに治り、3人とも以前と変わらない関係が続く。僕は、自分にそう言い聞かせながら、長い、長い家路をゆっくりとたどった。

しかし、この時の僕はまだ事態の深刻さを十分に理解できていなかった。一度できてしまった溝はそう簡単には埋まらない。いやそれどころか、その溝はドンドンと広がりやがて埋めようのない濁流となってゆくのである。


2日目。薬のせいか朝から気分も爽やかで、授業中の尿意もすっかり消えた。やがて昼休みになり、僕は上機嫌でタケシ達3人のグループに入ろうとした。しかし…。

3人は、なぜかよそよそしく背を向けた。なぜ。3人はまだ昨日までのことを気に留めているのか。それだったらもう大丈夫。薬も飲んでいるし、気分もいい。もうあんなことは二度とは起こさない。でも、3人は僕にかかわろうとしなかった。

わけも分からないまま茫然としている僕の耳のそばで、ボソッとタケシの声がした。

「こっちへ来んなよ。タック。」

彼は確かにそう言った。間違いはない。彼は、「来るな」と言った。でもどうして。困惑の度を深める僕の脳ミソに、ユウタからさらに次の一撃が加えられた。

「おまえ、ホントに知らないのか。クラスの皆が何て言ってるのか。」

クラスの皆? それとこれとどう関係しているのか。

「な、何なんだよ。ハッキリ言えよ。ほら。」

僕は、焦るあまりタケシの二の腕を掴んで大きく揺さぶった。タケシは、そんな僕の手を振り払うと完全に背を向けてしまった。

そして、この後僕はついに恐ろしい最後の一言を聞いてしまった。絶対に聞いてはならない地獄劇の幕開けの台詞、その言葉は、僕の右隣にいたヒロトの口から発せられた。

「臭えんだよ。臭えーの。ションベン垂れには近づくなってさ。」

その一言で、僕の身体は石膏像のように固まっていった。全身が凝り固まって、少しでも身体を動かそうとすれば、ピシピシと音を立てて身体全体にひびが入りそうな、そんな気がした。

「悪いな、そういうことだから。」

タケシは少し済まなさそうにそう言うと、3人は僕から離れようとした。

「ま、待てよ。そんなはずはないさ。今日はズボンも新しいのに替えてきた。トイレだって、朝から1回行ったきりだ。」

僕は、追いすがるように、タケシの袖口に取りすがった。

「触るなってーの。皆が、見てるだろ。臭えーのが移るって言われるじゃん。」

タケシは僕の手を振り払うと、他の2人とともにあざ笑うかのようにその場を後にした。茫然と3人の背を見つめる自分。あれは何だったのか。昨日まで兄弟のように仲のよかった3人がなぜ。親友なんてウソばっかり、友達なんていうのは所詮調子のいい時だけのもの。わずかでも歯車がずれると、途端に時計の針は狂い出す。

この時の僕はまだそんなことを考える余裕があった。しかし、このちょっとした事件が、これから起こる地獄の惨劇のほんの序章に過ぎなかったのである。


それからの2週間は何事もなく過ぎた。僕の授業中のトイレも止まり、すべては何事もなく平常に戻りつつあるかのように見えた。まだクラスメイトとの関係は完全には元の状態まで戻ってはいなかったが、もう一ヶ月もすれば過去のこととして忘れ去られる、そんな予感がした。

しかし、僕のそんな期待は無残にも打ち砕かれることになる。

「せ、先生、ト、トイレ。」

その日の午後一番、5時限目の授業が始まって程なく、一人の生徒の手が挙がった。僕ではなかった。手を挙げたのはヒロトだった。

でも、どうも様子がおかしい。ヒロトは苦しそうにお腹を抱えていた。見る限り、ただの「小」ではなさそうであった。程なく僕のすぐ隣のM子さんも手を挙げた。それからも…。

結局、その日の午後、トイレに駆け込んだのは25人、うち15人が保健室に運ばれ、2人が入院した。集団食中毒であった。

翌日、保健所による詳細な調査の結果、原因は黄色ブドウ球菌と判明した。給食の残飯から菌が出たのである。ただ、他のクラスでの発症はなく、結局、僕のクラスで配膳の際に菌が混入した可能性が高いとの指摘になった。

幸い、僕には発症はなかった。しかし、これがいけなかった。そう、今にして思えば、僕も発症していればよかったのである。感染して、吐きまくり、下しまくって、入院でもしていればよかった。そうすれば、少しは皆の同情心が湧き、孤立していた僕の心を救ってくれていたかもしれない。

でも、現実は僕の思惑とは逆の方向に動いていた。何を隠そう、この僕が、そうこの僕が、昨日の給食当番だったのである。僕のせいじゃない。僕は、決められた通りにマスクもかけ、手も石鹸で何度も洗った。僕じゃない、僕じゃない、と叫び続けた。

でも、クラスメイトの視線は冷たかった。癒えかけた傷跡に雑菌が繁殖した泥を何度も何度も塗りたくられたような感じがした。ションベン垂らしの汚い子、臭い子、バイ菌だらけの子…、それ以上は説明の要もないだろう。

この日を境に、僕は鬼子の友となったのである。


クラスは2日間学級閉鎖となった。その間に教室内の消毒も行なわれたと後で聞いた。そして3日目に全員が登校した時には、クラスの雰囲気はさらに変わっていた。

それまでは、多少なりとも気を遣って少しは声をかけてくれる友達もいたが、この日を境に僕は完全に孤立した。皆と席を並べてはいるが、なぜか僕の周囲半径1メートルの空間だけは、周囲と空気の色が違って見えた。伝染病患者を隔離するかのように、目に見えないビニールシートで囲われている、そんな気がした。僕の傍を通るとき、誰もが少し避けるような仕草をしているようにも思えた。

何となく嫌な気分に包まれて緊張の時間を過ごしていた僕に、新たな刃が付きつけられた。隣の席のM子さんがうっかり消しゴムを落とし、それが僕の足元に転がってきたのである。僕は、何とはなしに拾い上げようとした。その時。

「触らないで、汚いから。」

教室中に響き渡るような声がした。M子さんは、ティッシュを握りしめた手で僕の手から消しゴムをむしり取ると、何度もティッシュで拭きながら、大慌てで教室の片隅に置かれていたゴミ箱に向かって走り出した。僕は、茫然として、たった今消しゴムが載っていた右手を見つめていた。クラス全員の視線が、僕とM子さんに向けられたが、すぐに何事もなかったかのように教科書を手にした。先生も何も言わなかった。

しかし、この一瞬の出来事、そうこの一瞬の出来事が僕を奈落の底に突き落とすことになるのである。別にM子さんを責めるつもりはない。実際は、クラスの全員が彼女と同じ気持ちだったのであろう。M子さんはたまたまそれを代弁してしまった。それだけのことである。

でも、その日の昼休み。かつての仲良し3人組が近寄って来た。

「おまえなあ、汚ねーから人の物に触るなよな。」

「そうそう、こちとらもエライ迷惑してんだよ。とんだトバッチリだぜ。」

タケシとヒロトが話しかけてきた。話しかけてきたというよりは、一方的に吐き捨てられたという感じであった。僕は、返す言葉もなく黙ったままうなだれた。戸惑いの方があまりに大きすぎて、言葉すら思い浮かばなかった。僕が、初めて「イジメ」を実感した瞬間だった。

もうすぐ5時限目の授業が始まろうとしていた。僕は、再び強い尿意を感じてトイレに駆け込んだ。情けない、やるせない、身の置き所がない。しかし、どんな言葉を並べてみても何の解決にもならなかった。僕は、パニックを抑えるための抗不安薬を2錠あおると、やっとの思いで午後の授業に出席した。薬のせいで、頭がボーっとして、授業の内容は半分も記憶に残っていなかった。


翌日、朝起きるのがとても辛かった。今日は学校に行けるだろうか。いっそのこと休んでしまいたいとも思った。でも僕の心の中に潜むもう一人の僕がそうはさせてくれなかった。

「タクヤ、大丈夫? 調子はどう。」

母が心配そうに問いかけてきた。多分、僕の顔に書いてあったのであろう。学校に行きたくないと。でも、実際の僕はというと、それとは逆のことをした。

「う、うん、べ、別に。薬も効いてるみたいだし。」

親に心配をかけたくないという気持ちと、何よりもそんなことぐらいで学校を休むのがしゃくだったからである。

「そ、そう。なら、いいんだけど。」

母もそれ以上は何も聞かなかった。僕は、イジメのことがバレるんじゃないかとヒヤヒヤしながら、不味い朝食のトーストを慌てて口の中にねじ込んだ。

登校の時間近づいてきた。僕は、ドクンドクンと脈打つ胸を押さえながら、また薬を2錠飲み込んだ。そして、眠気を吹き飛ばすかのようにわざと勢いよく家の玄関から駆け出した。

家から学校までは歩いて20分ほどの距離だった。学校が近付くにつれて、1人また1人と制服姿の登校生が増えてゆく。あと少しで校門というところで、後ろから声がした。

「何だ、おめえ、まだ懲りずに学校に来てんのか。そんな面下げて、よく来れるよなあ。」

「ホント。今日はおチンチンきれいに洗ってきたか。もうハラ痛はゴメンだからな。」

3人組だった。タケシが行く手を塞ぐように立って、両脇にヒロトとユウタが並んだ。僕がタケシを押しのけようとすると、タケシは思わず仰け反った。

「おっとー、やべえ。もうちょいでバイ菌がかばんに付くとこだったぜ。」

その時である。右隣にいたヒロトの足がひょいと動いたような気がした。ほんの一瞬のことでよく覚えていない。僕は何かにつまずいたかのように、前につんのめりになり、そのままその場にぺシャリとうつ伏せに倒れた。

「バーカ、マヌケ、トンマ…」

3人はせせら笑いながら校門の中へと走り去った。誰も助けてくれる者もいない、誰も声をかけてくれる者もいない、僕は1人で立ち上がると制服に付いたほこりを払った。倒れた時にすりむいたのか、膝頭に薄らと血が滲んでいた。


3人のイジメはその後も続いた。ただのイタズラと言ってしまえばそうも取れる、少し度が過ぎて暴力に当たると言えばそう取れもなくもない。でも、今の僕には判じ難いものがあった。誰かに相談しようにも、誰にどのように説明すればよいのかも分からなかった。

クラスの生徒も担任の先生も見て見ぬふりをしていた。厄介事には巻きこまれたくないとその顔には書いてあった。いや、それどころか、むしろ3人が僕をイジメるのを密かに楽しんでいるようにも見えた。この次は、どんなやり方で僕をいたぶるのか、それが見たくて。

今や、教室はイジメ劇場と化していた。主役がこの僕で、3人のイジメ師が次々と非情な責め苦を繰り出す、それが面白くて皆ウズウズして待っているように見えた。

僕は、以前テレビで見たホラー映画の1シーンを思い出していた。時は中世のヨーロッパ、魔女裁判で魔女に仕立て上げられた少女が公開処刑されるシーンであった。大勢の聴衆の前に引きずり出された少女、でも実際には彼女は魔女なんかではない、ごく普通の少女であった。邪悪な神父たちが彼女を陥れるため、いろいろと庶民を恐怖に陥れる謀り事をしていたのである。公共の飲み水にわざとペスト菌を投げ入れ、病気が蔓延したのを魔女の仕業だとした。

給食で食中毒が生じたのを、ションべン垂れの僕の仕業だと断じた3人組とどこか似ている、いや酷似している。

そして、神父たちは魔女をできるだけ残酷な方法で刑に処する必要があると断じた。聴衆もそれを望んでいた。普通の斬首刑では魔女に取りついたサタンは死なないと、こじつけの理由をつけ、少女を火あぶりの刑に処したのである。業火に焼かれて悲鳴を上げ、悶絶する少女、それを取り囲んでもっと燃やせと気勢を上げる聴衆たち。それはもう、公開処刑というよりは狂気のショーであった。

しかし、これは映画の世界だけの話ではない。これから、このイジメ劇場で行なわれる見世物も、次第にこの映画と同じように狂気の度を増してゆくことになる。


そんなことがしばらく続いていたある日のこと。

「おい、横山、ちょっと職員室まで来てくれ。」

先生から声がかかった。僕は少しだけ嫌な気持ちになった。生徒が職員室に呼ばれるなんていうのはどうせロクな話ではない。成績のことか、素行のことか、とにかく何でもいい、職員室は先生が生徒に苦言を言う場所である。

僕は、多分あの件だと思った。きっと誰かが先生に告げ口をしたに違いない。僕が黙ってやられているのを見かねた誰かが、先生に注進してくれたのかもしれない。でも、それは余計なお世話だ。あの件は、先生に知らせたくらいで終わるような問題ではない。先生が何をしてくれるというのか。期待するだけ無駄であった。

そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、先生は職員室の前を通り過ぎ、その奥にあった応接室の方へと歩みを進めた。アレッと思う間もなく、先生は応接室のドアをノックした。

「ハイ。」

中から聞き覚えのある声がした。ガチャリとドアが開き、僕はそこにいるはずのない人の姿を目にした。母であった。

「いやー。スミマセン。お待たせしました。」

先生は、そう言うと、僕に母の隣に座るよう目配せした。なぜここに母がいるのか。僕の嫌な予感はさらに高まった。

「横山なあ、ちょっと腕をまくってみろ。」

先生は、唐突に腕をまくれと言った。嫌だった。なぜなら、僕の腕には人に見られたくない刺青があったからである。

「お母さんから話があってなー。」

その一言で、僕はピーンときた。一昨日のことであった。タケシに突き飛ばされた時に、机の角にぶつけてできた青いアザ、一瞬だったがそれを母に見られてしまったのである。とりあえず、その場は転んで打ったと言って取り繕っておいたが、勘のいい母は気付いていたようである。

「おい、いいから見せてみろ。」

先生は、逡巡している僕の右腕をぐいと掴むと、そのまま袖をまくり上げた。ズシンという鈍い痛みのため僕は思わず顔をしかめた。肘の少し下あたり、そこには一昨日できた内出血の痕がさらに少し広がったように見えた。

「これ、どうしたんだ。」

先生は、さらに問い詰めるようにたずねてきた。僕は、観念した。母が学校まで来た以上、転んで打ったでは済まないであろう。それくらいのことは分かっていた。黙って脇を向いている僕に対して、先生はさらに追い打ちをかけた。

「誰にやられたんだ。」

ついに、核心の一言が発せられた。

僕は、答えるべきかどうか迷った。別に、あいつらを庇う気持なんかなかった。それよりも、今ここで彼らの名前を言うことで、仕返しされることの方を恐れた。

先生も、母も、気楽なものである。イジメの犯人を捜しあてて注意する、それだけのことである。その後のことがどうなるのかまで考えてくれてはいない。学校のイジメ対策なんて所詮そんなものだ。イジメた奴らを処刑にでもしてくれるのか。「二度とするなよ」と注意するだけなら誰でもできる。そんなことで片が付くなら、誰も苦労はしない。

「そうか、どうしても言いたくないか。」

「タクヤ、ハッキリおっしゃい。あんなことされて、あなた、それでいいの。」

母が問い詰めた。

でも、僕は、のどのそこまで出かかっていた名前をついに口にすることはなかった。僕は、頑なに口を閉ざしたまま下を向いた。先生も、実の母親すらも信用できない。誰も僕を守ってはくれない。そう思うと、僕の口はますます固くなっていった。

「申し訳ありません、お母さん。あとは学校の方に対応をお任せ願えますでしょうか。」

いつまで経っても埒があきそうにないと見た先生は、ゆっくりと、しかししっかりとした口調で母にそう告げた。母もこれ以上粘っても無駄と思ったのか、黙って頭を下げた。


それから3日後、全校集会が開かれた。最初にあいさつに立ったのは校長先生であった。

「皆さん、今日は皆さんにどうしてもお伝えしなければならない大事なお話があります。皆さんも、ご存じの通り、先日某中学校でイジメを苦にした生徒が自殺するという痛ましい事件がありました。非常に残念なことですが、私たちの学校でも同じようなことが起きているとの訴えがありました。

私は、いま、とても残念な気持ちでいっぱいです。私は、3年間という学校生活の中で、皆さんに他人を思いやる気持ち、友人を愛する気持ちを育んでもらい、そして一生支え合えるかけがえのない大切な友人を作ってくれることを願ってきました。そんな、私の願いが、いま無残にも打ち砕かれようとしています。皆さん、もう一度自身の胸に手を当てて、この問題をよーく考えてみてください。私からも、再度お願いします。」

その後、教室に戻った全員に、担任の先生から配られたのは「イジメに関するアンケート」であった。

質問内容は、イジメに遭ったことがあるか、他人をイジメている人を見かけたことがあるか、等々、

多岐にわたっていた。無論、生徒たちが記入しやすいように匿名扱いとされた。正直にイジメの事実を申し出た生徒の身を守るための措置であった。

僕は、何て書くべきか迷った。イジメられている当の本人が自分である。正直にイジメられていると書けばいいのか。どうせ匿名だ、正直に書いたって誰が書いたかはわかるはずもない。でも、僕の指は、なぜか「イジメられたことはない」に○をつけていた。そして、「イジメを見たこともない」にも○をつけていた。

正直、僕はこのアンケートには何の期待も持っていなかった。こんなことで、あいつらのイジメは決してなくならないと信じていたからである。そして、僕の予想通り、このイジメアンケートが原因で、事態は学校の思惑とはまったく逆の方向に動いてゆくことになる。


あれから一週間、3人のイジメはピタリとやんだ。腕だけでなく全身のあちらこちらに出来ていたアザも次第に色が薄くなり、執拗なイジメがあったという証拠もなくなりかけていた。やはりあれで正解だったのだろうか。アンケートを実施したことが抑止力となって、3人のイジメが止まったのかもしれない。半信半疑のまま、とりあえず僕の心の中にはホッと一息つける静けさが戻った。もう、殴られる心配もない、ビクビクする必要もない、すべては終ったんだ…。

しかし、それはこの地獄劇の最終章が始まる前のほんのわずかな安らぎの時間であった。この安らぎの裏で、僕が唯一そして最も恐れていたことが密かに進行していた。イジメは人の目に付く表舞台から消え、地下深くに潜行したのである。

それは、以前にも増して陰湿で、狡猾に仕組まれていた。

「いただきまーす。」

給食の時間が始まった。その日の給食のおかずはカレーだった。カレーは皆の大好物、教室は賑やかな笑い声に包まれた。そんな楽しい時間が一瞬にして地獄に塗り替わったのである。

「シャリ」

僕は口の中に変な違和感を感じた。固い肉でもない、ジャガイモでもない、何か変な食感が舌の上に伝わったのである。僕は、そのモノを吐き出した。大きさは3センチほど、それほど大きなものではない。少し黒っぽくて平たい形をしたその物体には、しかし、紛れもなく小さな足がついていた。

「ゲー」

僕は、吐きそうになるのをこらえながら、教室から駆け出した。その後ろで、僕のシチュー皿をのぞきこんだM子さんの悲鳴が聞こえた。

先生は、すぐに教室の全員に食べるのを中止するよう指示した。同時に給食のカレーにゴキブリが混入していたことが報告された。給食センターも含めて厳しいチェックが行なわれたが、むろんどこで混入したかなど分かるはずもない。

でも、僕には分かっていた。僕がカレーを吐き出したあの瞬間、例の3人の口角が微かに歪むのを見たのである。間違いない、犯人はその日の給食当番、ヒロトであった。でも、僕は誰にもそのことを言わなかった。ヒロトがゴキブリを入れたという証拠は何もない、それを証明するすべもない。

結局、給食センターは2日間の営業停止、原因はわからず仕舞となった。

幸い、僕は腹を下すこともなく元気だったが、クラスメイトが僕を見る目はいつかと同じ目に変わっていた。災いを持ちこむのは、いつもこの僕だった。ペスト菌を混入させたのは、邪悪な神父たちで、少女の仕業ではなかった。でも、人々はそれを魔女の仕業だと信じた。そして、僕が、そうこの僕こそが、同じようにこのクラスの魔女に仕立て上げられたのである。まったくの濡れ衣として。

3人はとてもずる賢く、狡猾だった。先生にはバレないよう、学校の中ではいつもいい子を決め込んだ。僕に笑顔で話しかけ、時には肩を組んだりもした。上手な芝居だった。学校の中では絶対に僕にこぶしを挙げるようなことはしなかった。

でも、イジメは確実に前よりも巧妙に、そして陰湿になっていった。僕の知らないところで、教科書には赤インクが塗られ、かばんの中には犬のフンが入れられ、雨の日に傘の柄が折られ、体育の日には体操服がなくなった。やったのはあいつらだ。犯人は分かっている。でも、証拠はない。目撃証言もない。恐らく、クラスメイトの誰か一人ぐらいは目に留めていたかもしれない。いや、絶対に見ていたはずだ。でも、誰も何も言わなかった。そう、見て見ぬふりをしたのである。

少女が本当は魔女でないことを百も承知の上で、神父たちのでっち上げを信じ、そして少女が火あぶりの刑に処せられるのが見たくて、誰もが真実に目をつぶったのである。


そして、ついに悪夢の刑の執行の日が訪れた。

舞台は学校の体育館脇の裏庭。普段は、滅多に人が訪れることのないその場所は、日当たりも悪く地面はジメジメとしていて、ところどころ苔むしていた。

放課後、例の3人組から呼び出しの命が下った。僕は、行くべきかどうか迷った。行けばどうせまた殴られるか蹴られるか何かされるのは間違いない。でも、行かなければ行かないで、その後はさらに恐ろしい報復が待っていた。

本当にバカな男である、情けない男である。イジメられていると訴えることもできない。でも、学校が何をしてくれるというのか、どうせ先生は、「わかった」と言うだけで、きっと何もしてくれない。告げ口をしたとイジメがさらにエスカレートするだけのことである。何の得もない。結局、僕は指定された時間に指定された場所に出向くしかなかった。

僕が、体育館の裏手で待っていると、やがて3人が現れた。いつもと同じである。でも、今日の僕はというと、さらに嫌な予感がしていた。3人の目つきが明らかにいつもと違っていたからである。あの目は、人間の目ではなかった。人の顔をした鬼の目であった。そして、間もなく、その僕の嫌な予感は現実のものとなる。

ヒロトとユウタが僕の両脇に来ると、がっしりと両腕を掴んだ。声を出す間もなく、僕の口はタケシの手によってガムテープで塞がれた。

「フガフガフガ。」

息がつまりそうになる中で、次はビニールひもでグルグル巻きにされた。何とか、逃れようとするが多勢に無勢、あっという間に組み付されて、簀巻きにされた。

一体これから何が始まるのか。こんなことは初めてだった。恐怖のあまり、僕の心臓は飛び出しそうになるほどドキドキし、目は大きく見開き、股間に熱いモノが流れ出た。このまま殺されるのではないかと思った。

3人は、身動きのできなくなった僕を見下ろしながらニヤニヤと笑っていた。これから魔女を処刑しようとする邪悪な神父たちのように、奴らの目はギラギラと輝き、口角はあふれ出たよだれで怪しく濡れていた。

「へへ、だらしねえな。ションベン垂れがもうおチビりしてやがる。」

タケシが、嘲笑の声を上げた。

「構わねえから、早くやっちまいな。人が来るぜ。」

傍らからヒロトが刑の執行を命じた。

「フヒー、フヒー、フヒー。」

助けを呼ぼうとするが、声が出せない。息をするのさえ苦しい。僕は、真剣に死を覚悟した。このまま、この邪悪な鬼たちの餌食となり、体中を切り刻まれ、業火に焼かれて殺されるのであろうか。

そして、ついにタケシの手が僕の身体に伸びた。やつはゆっくりと僕のお腹のあたりに手をやると、ズボンのベルトのバックルに手をかけた。そして、おもむろにバックルを緩めると、今度はそろりそろりとズボンのチャックを下ろしにかかった。

僕は、身をよじって難を逃れようとするが、両脇からしっかりと後の2人に押さえ込まれ身じろぎ一つできなくなった。タケシは、徐々にズボンを開くと、ずりずりと下に引いた。僕の濡れた股間が露わになってゆく。しかし、タケシの手は止まらなかった。ズボンが終わると次はパンツだった。非情にもタケシの手は僕のパンツにまで伸びた。

ここから先の描述はお許し願いたい。恥ずかしくてとても言えたものではない。

やがて、僕の下半身の着衣をすべて取り去ったタケシはそれを側溝の奥へと放り込んだ。その後、僕は3人に抱きかかえられたまま、体育館の脇にあった女子更衣室へと運ばれた。


どれほど時間が経ったであろうか。ほんの30分か1時間くらいだったであろう。僕は、口を塞がれ、縛られたまま、何とか逃れようと女子更衣室の中でもがいた。でも、グルグル巻きにされたビニールひもが簡単に解けるはずもない。

やがて、表で声がした。放課後の部活を終えた女子生徒たちが着替えのために戻って来たのである。

ガチャリとドアの開く音がした。

「キャー」

その後のことはもう言わなくてもいいだろう。このようにして僕の刑の執行は終了した。

結局、僕は女生徒たちの通報によって先生に助けられ、先生の知らせにより、母が着替えを持って学校まで僕を迎えに来た。

しかし、その日は、夜9時過ぎまで、母と担任の先生の話は続いた。そうであろう。あいつら3人組が僕に対して為した行為は、もはや子供のケンカやイタズラで済まされるようなものではない。明らかな犯罪であった。母は、刑事告訴までほのめかしながら、学校側に詰め寄ったらしい。ただ、学校側からは善処するとの回答があっただけで、その日はそれだけで終わった。


その夜、僕は、茫然自失のまま、なかなか寝付けないでいた。女生徒の前で下半身を露わにされたこともショックであったが、そんなことより何より自身のふがいなさに腹が立っていた。でも、一方で僕の頭の中には、ある一つの仮説が思い浮かんでいた。そして、その仮説を調べるために、僕は、インターネットの世界に飛び込んだ。

キーワード「イジメ」と入力して検索をかける。150万件という膨大な件数が表示された。イジメ問題は、最近ではあちらこちらで話題になっていた。イジメが原因で自殺したとか、イジメ防止対策法が成立したとか、そんな記事は見飽きるほどに掲載されていた。

でも、僕はそんな記事には興味がなかった。唯一知りたかったことは、イジメが病的なものかどうかということであった。あいつらの行動はすでに常軌を逸していた。やつらが僕をイジメる時の顔は、まるで、麻薬の禁断症状が満たされるような幸福感と愉悦感に満ちていた。あれは人ではない。人の仮面をかぶった鬼に違いないと、僕は確信した。

僕は、おそるおそるインターネットに表示される記事を1件1件たどってゆく。でも、なかなかお目当ての記事には行き当たらない。そこで、僕は、さらにもう一つのキーワードを追加した。「精神病」である。「イジメ、精神病」と入力してもう一度検索すると、今度は12万件まで記事をしぼり込むことができた。それでもまだかなりの数である。

最初のうちは、イジメが原因でうつ病になったとか、イジメられる方の記事ばかり出てきた。

しかし…。何件かページを繰るうち、僕はとうとうそれらしき記事を見つけた。記事のタイトルは『精神病理学から見るいじめ』、どこかの大学病院の先生の論文だったような気がする。とにかく、やたらと専門用語が多くて、中学生の僕が読むには難しすぎた。

でも、いくつかの文章が僕の目にとまった。その中の一つ、少し長くなるが、敢えて掲載したい。これをどう読むかは、読者の方のご判断に委ねたい。

『いじめは単に子供のイタズラ程度に考えられており、道徳教育や法律を強化することで解決できるとされている。しかし、いじめの本質は薬物依存やギャンブル依存といった精神障害と同種であり、適切な治療を怠ると、さらに重症化し、最終的にはいじめの被害者を死に至らしめる場合がある。

当研究所において、いじめを行なう側の心理に着目したある実験を行なった。

狭い箱に閉じ込めたネズミに電気ショックを与え、その様子を見る被験者の脳内血流量の変化を計測した。最初のうちは、嫌だ、怖い、あるいはかわいそうといった忌避、恐怖、同情を感じる大脳前頭前野の血流量のアップが観察されたが、それを繰り返して行なううちに電気ショックを与えることに対する抵抗感がなくなり、次第に大脳辺縁系の血流量が増加した。

大脳辺縁系は原始脳域とも呼ばれる領域で、より動物的本能を支配する部位である。いじめのような行為を長期間継続して行っていると、人間性を保つ感情野の働きが低下し、むしろ動物的本能をつかさどる部分の働きが強くなることが、この実験によって確認された。

何人かの被験者の同意を得て、血液検査も併せて実施したところ、電気ショックを与えることに一種の快感を覚えたと訴えた被験者の血液中ではアドレナリンの前駆体であるドーパミンの濃度に顕著な上昇がみられた。

さらに、電気ショックを与える時間を長くし、あるいは電気ショックの強さを上げた場合には、被験者のドーパミン濃度は、それ以外の被験者より下がり方が遅いという結果も得られた。このことは、いじめの加害者がドーパミン依存症に罹患していることを示唆するものである。

ドーパミンは脳内物質の一種で、人が恐怖や興奮を感じた時に分泌されるものであるが、同時に麻薬に似た快感効果をもたらすため、繰り返し分泌を促し続けると次第に効果が薄れ、軽い依存症を生じるようになる。

今回の実験結果から、いじめの加害者がドーパミン依存症に罹患している可能性がある場合には、最悪の事態を回避するため、早期に加害者を隔離・治療することが望ましいと結論付けられる。」

僕は、ようやく確信を持った。それまでは、漠然となぜあの3人が僕をイジメるのか、よく分からなかった。でも、今これを読んでハッキリした。僕は、この論文に出てくるかわいそうな「ネズミ君」だったのである。そして、あいつらこそがこの残酷な実験の参加者。だとすれば、これまでのできごとにもすべて説明がつく。そして、これから僕がやらなければならないことも…。


僕は、ついに決心した。迷いは消えた。この問題は自身で決着をつけるしかない。学校も、先生も、警察も、自身の親ですら当てにできない。このまま何もせずにいると、間違いなく最後は殺される。その前に僕に電気ショックを与える連中を何とかしなければならない。無垢な少女を魔女に仕立て上げた神父どもを始末しなければならない。

僕は、密かに決行の準備を始めた。台所から包丁を、道具箱の中から金槌を、そしていざという時のために密かに買った催涙スプレーもかばんの中にしのばせた。

決行の時間は放課後の下校時間、場所は3人がいつも通る大鳥神社の境内裏。あそこは人通りも少ないし、何よりあの場所を過ぎると、3人が分かれて1人ずつ自宅へ向かう。1人ずつ殺るにはあそこしかない。1人ずつ確実に。もし、失敗したら今度こそズボン下ろしの刑では済まない。

その時の僕は、人を殺したら自身がどうなるかなんていう考えはまるでなかった。殺人が罪になるということぐらい言われなくても知っている。でも、そんなことはどうでもよかった。とにかくあの3人から逃れたかった。どこへ逃げてもストーカのごとく探し出され、付きまとわれ、僕を苦しめる悪魔たち。何としても始末しなければならない。それも、できるだけ残忍な方法で。

午後3時半、僕は先回りして大鳥神社の境内に身を潜めた。

「きのうは、面白かったぜ。」

「ああ、パンツを脱がせた時のあいつの顔、思い出すだけでゾクゾクする。」

「そう言えば、今日はどうしたんだ、あいつ。顔を見ねえな。」

「そりゃあ、そうだろう。何しろ大勢の女の子の前で大事なおチンチンを丸出しにされたんだからな。当分、出て来れねえぜ。」

3人は、僕がいることなど全く気付かずに大声で話をし、最後に大笑いした。

「じゃあな。」

「気をつけろよ。あいつに襲われるかもよ。」

「まさか。」

3人は、そこでそれぞれの家路へと付いた。


僕は、最初にタケシに狙いを定めた。残りの2人の姿が見えなくなったのを確認した僕は、そっと背後からタケシに近付いた。気配を感じたのか、タケシはふっと立ち止まり後ろを振り返った。その瞬間である。僕は、タケシの顔をめがけて催涙スプレーを噴射した。

「ギャー」

目を押さえてしゃがみこむタケシ。僕は間髪をいれず、そのタケシの脇腹めがけて突進した。ズブッという鈍い音とともに、確かな手ごたえがあり、タケシが道に倒れ込んだ。

僕の手に生まれて初めて生身の人間を包丁で刺すという感触が伝わった。思ったより硬かった。人間の腹なんてもっと軟らかいものだと思っていた。でも、刺さった包丁は簡単には抜けない。タケシは、苦しそうに包丁が刺さったままの腹を抱えて転げ回っている。不思議と、怖いとかかわいそうという気持ちは湧かなかった。

強烈な殺意が、そうこれまでに溜まりに溜まった強い恨みの念が、恐怖を忘れさせた。僕は、すでに身の半分ほどがめり込んでいる包丁を抜こうとしたが固くてピクリとも動かない。タケシは薄眼を開けて、苦しそうに僕を見上げていた。その眼は許しを請うているようにも見えた。

僕は、一瞬だけ躊躇した。先程まであれだけ憎いと思っていた相手に、不思議と哀れみの気持ちを覚えた。他人をイジメることでしか人生の喜びを感じられなくなってしまった哀れなやつ。僕はそんな彼を早く楽にしてやろうと思った。包丁の柄の部分に足の裏を当てると、そのままグイッと足に力を込めた。

「グゲッ」

包丁の刃のほとんどがタケシの腹の中にめり込み、タケシの口から奇妙な音が漏れた。薄れゆく意識の中でタケシは何かを口にしたような気がしたが、僕にはそれが聞こえなかった。やがて、タケシの身体は断末魔の痙攣を起こし始めてビクンビクンと波打った。

僕は、タケシをそのままにして、次のターゲットであるヒロトの後を追った。ヒロトが家に着く前に、あるいは人目のある通りに出る前に始末をつけなければならない。ヒロトは既に大鳥神社の裏参道を抜け、後少しで大きな通りに出るところまで進んでいた。

右手に金槌を握りしめた僕は、背後からヒロトに近づくと、後頭部めがけて金槌を振り下ろした。パクッとはじけるように頭の皮が割れ、ブッと血しぶきが舞った。ヒロトは、何が起きたのかも分からず両手で後頭部を抱えて、よろめいた。

「お、おまえ、タ、タク…」

と言いかけたヒロトの顔面をめがけて、次の一打を打ちつけた。今度はこめかみのあたりが割れ、また血が飛んだ。僕の頭の中をアドレナリンの洪水が流れ、何とも言えない快感が襲ってきた。人を殺すのがこんなに楽しいとは思わなかった。

その時である。誰かが大通りの方から歩いてくる気配がした。僕は大慌てでその場を後にした。

「キャー」

僕の背後で女の人の悲鳴が聞こえた。

結局、僕の意趣返しはここで終了した。結果は、タケシが腹部裂傷による失血死、ヒロトは頭骸骨陥没により意識不明の重体、ユウタは襲撃が間に合わず無傷だった。

元より逃げるつもりなどなかった僕はすぐに警察に出頭し、保護された(未成年者なので逮捕ではなく保護になるそうだ)。


当然のことながら、マスコミは大騒ぎとなった。中学生による、殺人と傷害、しかも動機はイジメ。僕の家には大勢の警察官や刑事が家宅捜索に訪れ、学校にも警察や教育委員会の人が事情聴取に押し寄せた。校長先生は記者会見の場で取り乱し号泣した。

でも、僕はその一部始終を知らない。少年鑑別所の中にいる僕には当然のことながら知るすべもない。すべては想像で描いている。でも、大概のところは間違っていないだろう。あれだけの大事をしでかしたのだからタダでは済まないことぐらい分かっている。

僕は、今、あの映画の中で地獄の業火に焼かれて死んでいった少女のことを考えていた。あの少女はどんな思いで死んでいったのであろうか。言われのないでっち上げにより「魔女」と呼ばれ、拷問を受け、最後は衆目の中で火に焼かれた。

でも、これは映画の中の話ではない、中世のヨーロッパの話でもない。ここ日本で、しかも今この瞬間にも起きているかもしれない事実なのだ。それを知ってもらいたいがために、僕は自身が夜叉になる道を選んだ。         (了)


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