35 眞奈、再びジュリアと会う

 七時になるのに気がつくと、眞奈は急いで帰りじたくをした。バスの時間が迫っていてあまりに慌てていたので、「バス停まで送っていく」と言う男の子たちとイザベルの好意を遠慮した。


「護身用にスノーウィをバス停まで連れていくといいわ、どっちにしても彼はこれから夜の散歩だから」、イザベルは黒猫を眞奈に渡した。

「凶暴だからそこらの犬よりよっぽど役に立つよ」、マーカスが請け合った。

「ああ、あと五分しかないわ、スノーウィ、近道しましょ」


 眞奈は寮棟が立ち並ぶエリアからウィストウハウスの別館を通り抜けてステイブルブロックまでショートカットしようとした。しかし眞奈は自分が方向音痴なことをすっかり忘れていた。

 眞奈はまたもやウィストウハウスの迷路のような廊下や階段に翻弄されてぐるぐると行き来した。

「どうしよう、困ったわ、これじゃバスに間に合わない……」

 眞奈は自分の肩掛けカバンからウィストウハウスの見取り図を取り出した。

 しかし、今となっては自分がどこにいるのか現在地が不明なので、地図は役に立たなかった。眞奈は諦めて地図をしまい、スノーウィを抱きかかえてまた歩き始めた。


 いつのまにかウィストウハウスの僻遠(へきえん)のエリアに迷い込んだらしい。

 明らかに使われていない部屋やほこりだらけでクモの糸が張っている古い手すり……。遠くで夜のサッカーを楽しんでいる生徒たちの声や、居残りブラスバンドの練習の音が、だんだん小さくなっていく。一番初めにジュリアと会ったあのときと同じように。


 この空気、この感覚……。

 今、私は『過去への抜け道』を通ったのかもしれない。いや、通ったというよりも、何か自然に引き込まれたというか……。

 眞奈はふと思った。

 ひょっとしたら『過去への抜け道』に決まった『道』はないのかもしれない。

 何か不思議なチカラで自然と行けるような、ある種の『現象』が抜け道になっているのではないだろうか。

 そのとき、スノーウィがぴゃっと眞奈の腕の中から飛び降りると、廊下の奥へ走った。

「スノーウィ!」

 しかし、彼は消えるようにどこかへ行ってしまった。


 眞奈はまたジュリアに会えることを確かに感じ取っていた。

 階段を上がってこの間と同じように窓に駆け寄り、向こうの棟を見てみた。すると遠くの別棟の窓からやはりジュリアの顔がこちらをのぞき込んでいる!

 ジュリアも眞奈に気がつき、「マナ! また会えたわね!」とうれしそうに手を振っている。今度は彼女の声も聞こえる。

「ジュリア!」、眞奈は必死に叫んだ。「待ってて! 今度は待っててね、絶対よ。そのままそこにいてね!」


 この間のときみたく、自分がたどり着く前にジュリアが消えてしまうんじゃないかと怖かった。しかし、今回は運がいいことに、窓の下はちょうど下の階の屋根になっていて向こうの棟までつながっていた。それに屋根の上を安全に歩けることは、前にマーカスと一緒に歩いて体験済みだった!

 眞奈は一時もためらうことなく、建てつけの悪い窓を強引に開けて窓枠によじ登り屋根の上に出た。


 向こうの窓からその様子を見ていたジュリアは眞奈が何をするのかわかったらしく、下に落ちてしまうんじゃないかと恐怖で目をみはった。

 しかし今回の屋根は、マーカスと歩いたときと違って、ルーフバルコニーと呼んでもさしつかえがないくらい幅が広く、眞奈は走ることさえできた。眞奈が向こうまでたどり着くと、ジュリアに思い切り引っ張られ彼女の胸に転がり込んだ。

「もう、マナ! なんて無茶するの、危ないじゃないの!」、ジュリアは大声をあげた。

「私は大丈夫、危険なのはあなたの方よ、ジュリア。それをどうしても伝えたかったの。エマとリチャードがあなたを……」

 眞奈は息せききりながら言いはじめた。ところが部屋に誰かもう一人いることに感づき、眞奈は出てくる言葉を飲み込んだ。

「お嬢様、大丈夫ですか?」

 メイドの少女だった。

 そういえば、一番初めにジュリアと会ったときもこの子がいたっけ。


 眞奈はときどき咳をする体の弱そうな青白い顔をしたメイドの少女を思い出した。名前は確かグラディス。

 部屋にいるのがエマやリチャード・ウェントワースじゃなくてよかったが、彼女も敵かもしれない。眞奈はグラディスを疑うようにじっと見つめた。

 かたやメイドの少女も恐怖の面持ちで眞奈をじっと見つめていた。

 一度会ったことがあるとはいえ、見知らぬ人間でおまけに見たことのない外国人の風貌なのだから、彼女が警戒するのも無理なかった。

 眞奈にはグラディスが感じている恐怖は本物に見えた。彼女は敵ではないだろう。眞奈は気を取り直して言った。

「この間は道を教えてくれてありがとう」

 眞奈の声を聞いて、グラディスもちょっと落ち着いたようだった。

「いいえ。無事たどり着けたんですね。よかったです」

 でも、敵でなくても、味方と決まったわけではないのだから、彼女の前ではジュリアにエマとリチャードの陰謀についてしゃべるわけにいかなかった。眞奈は極力平静を装って、「元気だった?」などとジュリアと普通の会話をした。


 眞奈は気持ちが落ち着いてくると周りを見回す余裕が出てきた。

 どうやらジュリアはグラディスに手伝ってもらってドレスの着付けをしているらしかった。ジュリアは白い総レースのかわいい衣装を身につけ、ブロンドの髪を結って髪飾りを留めているところだった。

 その高揚した雰囲気から察した眞奈は、「何かパーティなの?」と聞いた。

「そうよ、これから舞踏会よ!」

「え? 舞踏会? 舞踏会ってまさかこの間、エマたちが言っていた『五月の舞踏会』?」

「ええ」

 眞奈は青ざめた。

 いや、五月の舞踏会自体に何かが起こるわけではない。眞奈は動揺する自分に必死に言い聞かせた。

 確かエマとリチャードは『五月の舞踏会のときヴィッテッリ侯爵と相談しよう』と言っていた。今日は相談だけのはずだ。何か起こるとしたら今夜の舞踏会以降にちがいない。

「楽しみにしてたからうれしいわ!」

 気を揉んでいる眞奈と対照的に、ジュリアは呑気なものだった

「パーティにはむろんあなたも出席するのよ」、ジュリアはにっこりした。

「は?」

「あれがあなたのドレス。お兄様が贈ってくれたんだけど私はまだ着ていないから、マナ、あなたに貸してあげるわ。私、あのドレスを見た瞬間からマナのためのドレスだって直感したの。素敵な東洋風のデザインよ」、ジュリアはベッドの上に広げてあるドレスを指さした。

 グラディスは「きっとマナ様にお似合いになりますよ」と言いながら、そのドレスを手に取ると眞奈の身体にあてた。


 そのドレスは幾重にも重なったレースはできたての純白の泡のように繊細で、ところどころ金箔の椿があしらわれている。ウェスト部分には流麗な幅広のサッシュベルト、帯留めを思わせる椿のコサージュ。コサージュには七宝焼きの留め具とタッセルがついていた。

 眞奈はしばしドレスの美しさに見とれていたが、途中ではっとした。

「ド、ドレスなんて。私、ジュリア、あなたに伝えることがあってここに来たのよ。第一、私はあなたのパーティに招待されてないし、年齢からいっても舞踏会になんて出られないよ」

「年齢なんて大丈夫。十六歳とか十七歳とか言えば通じるわよ。招待はアンドリューがしたことにするわ。アンドリューは東洋にいたことあるんだもの、知人として来てもばれやしないわよ。それに私の友達に会えるならアンドリューも喜ぶわ!」

「アンドリューも来るの?」

「もちろんよ。だってサプライズで二人の婚約発表をしたいと思ってるんだもの!」

「え? ほんと? そうだったのね! それは……」

 やっかいなことになってきたわ、と眞奈は言いたいところだったが声に出すのは我慢した。

「私、マナ、あなたにお祝いしてもらいたいの、だって、心から私たちを祝ってくれる人なんていないんだもの。だからぜひパーティに出席してね」

「やっぱり、アンドリューとの結婚について、エマとリチャードは反対しているんだよね?」

「ええ。もうお話しにならないの。だからちょっと強引だけど、ここで皆の前で発表しちゃえば否応なく許してもらえるんじゃないかなって思うの」

「ねぇ、ジュリア、考え直さない? もっと穏便な方法があるんじゃないかな?」

「いろいろ試してだめだったのよ。結婚には反対の一点張り。でも私には財産があるんだもの。あとは結婚しちゃえばなんとかなると思うわ、大丈夫よ」、ジュリアは言った。「どうしたの? おめでとうって言ってくれないの?」

「も、もちろん、おめでとうだわよ」、眞奈は慌てて言った。

「ごめんなさい、ジュリア。でもなんだか心配だし、アンドリューに会ったことないから実感わかなくて」

「それもそうね。そしたらパーティでアンドリューを紹介するわ! アンドリューのこと、絶対マナは気に入るわよ、マナもおめでとうって言わざるをえないわ。眞奈がアンドリューを認めてくれたら、そしたら『おめでとう』って言ってぎゅっとハグしてね!」 

「そうね。もちろんよ!」

「でも私は先にぎゅっとしちゃうけどね!」

 ジュリアはうれしさいっぱいで、眞奈をぎゅっと強く抱きしめた。

 ジュリアに力いっぱい抱きしめられて眞奈は思わす微笑んだ。しかし心はうらはらに暗い気持ちだった。


 パーティで婚約が発表されたら、エマとリチャードがジュリアを殺す時期は早まるだろう。結婚前に彼女を消してしまわないと、ジュリアの財産はジュリアと結婚相手のアンドリューに渡ってしまい元も子もなくなってしまうからだ。

 眞奈は一刻も猶予が許されないのを感じた。

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