31 夜想曲(ノクターン)
帰りは行きよりも時間がかからなかった。一度来た道で勝手がわかっていて気が楽だからだろう。
思っていたよりも早く、ウィストウハウスの建物が木々に見え隠れして見えた。
風がやわらぎ雨も小降りになったようだ。
早足で歩きながら携帯の時計をちらっと見た。今ならバスに間に合うはず。
バス停があるステイブルブロックが目視できると眞奈は一息ついた。
周囲には誰一人おらず閑散としていて、バス停の質素な看板の目印が頼りなさそうに立っているだけだった。
この雨だ、通学の生徒たちはさっさと帰ってしまい、寮生は寮に戻ったか食堂にいるかだろう。
眞奈はステイブルブロックの壁にぐったりと寄りかかった。
疲れがどっと出てきた。髪も服もびしょ濡れで寒さに震えた。頬や鼻の頭は氷のように冷たかった。靴は水浸しで足の先はかじかみ感覚が麻痺していた。
もう一度時間を見るとバスが来るまであと五分。
バスがちゃんと来てくれるといいんだけど……。『大雨のためバスはお休みです。当然知っていると思いますがそれがイギリス式ですから』ってことないよね。
バス停の目印だけだと心もとなかったが、とにかく待つしかない。
不意にピアノの音色が聞こえてきた。
ステイブルブロックはクラブ棟になっているので、誰かが部室でピアノを弾いているようだった。
どこかで聞いたメロディ。
眞奈はちょっと考えて思い出した。
確かショパンの
幼い頃、ピアノ教室を早々に挫折してしまったのだが、ピアノの先生がこの曲を好きでよく弾いていた。
眞奈は目を閉じて音色に併せて口ずさんだ。
それにしてもなんだかたどたどしいメロディだった。
正直言ってかなりヘタ?
メロディは息切れしたようにいきなり止まってしまったり、調子っぱずれに音をはずしてみたり……。眞奈は思わず頑張れと言いたくなった。そしてそれから数小節もいかないうちに途切れて、シンと静かになってしまった。
もう諦めちゃったのかな?、眞奈はなんだか心配になってきた。
突然、ドーンドンドンと、背中をもたれている後ろの壁が振動した。
眞奈は地震かと思いびっくりして身を起こした。でも地面が揺れているわけではないし、まさかイギリスに地震なんてあるはずない。
しかし、再びドーンドンドンと揺れた。もう一度ステイブルブロックの建物を振り返ってみると、また壁や窓ガラスが振動していた。
ピアノの次はダンスしてるのかも……、眞奈はあまり深く気にせずに体を正面に戻した。バスが早く来ないかな、携帯の時計を見ると、もう来てもいい頃だった。
ドーンドンドン……。またもや背中の後ろの壁と窓が振動した。
眞奈はもう一度振り返った。今度ははっきりとけげんに思い、窓から部屋の中を見ようとした。
ところが本館と違ってステイブルブロックの窓は固定式のはめ込み窓で、ガラスはかなり分厚く少し曇りガラスになっていた。それに眞奈のいる外側は明るいので、窓の向こうの暗い部屋の中は光の反射の加減でまったく何も見えなかった。
眞奈は二、三歩、右にずれたり左にずれたりして角度を変えて、窓の中が見える位置はないか探した。
そしたらふとした瞬間に反射しない角度になったらしく、部屋の中で窓ガラスを力いっぱいたたく手が見えた。ガラスにゆがんだマーカスの顔も見える。奥にアップライトの小型ピアノも見える。
「マーカス!」、眞奈は叫んだ。
壁や窓ガラスの厚みで眞奈の声は届かなかっただろうが、彼が手を軽く振ったので、マーカスのいる暗い部屋がわからは逆に明るい外にいる眞奈が見えるのだろう、眞奈がマーカスに気づいたことがわかったようだった。
眞奈は手を振り返した。
マーカスは部屋の後ろを指さすと奥に消えた。すぐにピアノの音色が聞こえてきた。
メロディはつっかえつっかえでひどくぎこちない。数小節過ぎるとまた冒頭に戻って最初からやり直し。そこだけしか弾けないらしく、同じ部分を何度も繰り返しついぞサビにはたどり着かない。
しかしピアノの旋律は眞奈の心いっぱいに美しく響き渡った。
やがてスクールバスが来てエンジンの轟音でピアノのメロディはかき消された。そして眞奈がバスに乗り込むと完全に聞こえなくなってしまった。
もうここからでは部屋の中もマーカスも見えなかった。
それでも眞奈は、バスが道を進んでもマーカスの窓をなるべく長い間見られるように、後部座席の建物がわの座席に座った。
バスがステイブルブロックから学校の正門に向ってゆっくり走り出し、建物がどんどん遠ざかっていく。
長いアプローチをずっと進んでも、眞奈はいつまでも窓を見ていた。
アプローチの曲がり角を曲がったとき、遠くになってすっかり小さくなった建物の窓から、ふとマーカスの顔がまだ外をのぞき込んでいるのが見えた。
なぜ見えたのだろう。バスと窓はとっくに遠く離れているのに。むしろ遠い方が光が反射しないで見えやすいのだろうか。
眞奈はマーカスにはっと気がつくと、手を振った。
彼も眞奈に気がついたようだった。
マーカスは腕が痛くなるんじゃないかと心配になるぐらい、思いっきり手を振っていた。そのうち、リーズ・ユナイテッドの大きなエンブレムがついた青いタオルをぐるぐる振り回し出した。
眞奈は思わず笑った。
眞奈とマーカスは今同じ気持ちだった。眞奈にはそれがはっきりとわかった。
優しさ、うれしさ、楽しさ、喜び、笑い、ユーモア、機知……、そういった眞奈が考えられる良いものすべてが通じ合い、それらを二人で共有していた。
バスがずっと進み、ミセス・ハドソンの門番屋敷を曲がって学校の正門を出ると、ついにマーカスもウィストウハウスも見えなくなってしまった。
今やあたり一帯は夕闇につつまれていた。
バスの車窓を過ぎていく景色は、いかにもイギリスふうな石造りの家並み。白い窓やガラス張りのコンサバトリーからはあたたかなオレンジ色の明かりが輝いている。
そしてウィストウ村を出てより先は、一刻一刻とオレンジ色はあたたかさを増していき、淡い水彩画のような夕景が、ダートンに近づく頃には濃くはっきりとした夜景へと変わっていった。
眞奈はもう悲しくはなかったし、つらくもなかった。
春になったらマーカスとみんなであの丘に行くんだ。一人ではなく、みんなと。それははっきりとした確実なことで、期待していいし、信じても大丈夫。
だって私はここにいていいんだから、そうよ、みんなと一緒にここにいていいんだから!
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