第5章 感情のプロテクター

16 友達のいない子

 夜明け前から激しく降っていた雨はだんだん小降りになり、今はしっとりと静かな霧雨になっていた。


 眞奈はママとパパが言い合っている声で目覚めた。


 階下のダイニングから聞こえてくる。昨日、自分の部屋のドアを閉めたつもりがきちんと閉まっていなかったらしい。

 まだ半分眠っているような状態で、両親の言い合いが夢うつつに耳に入ってきた。


 ママの声は涙声だった。

「どうしてわかってくれないの? 私たち家族のことなのよ。イギリスに行っても家族に苦労はかけないって、ちゃんと約束したじゃないの!」


「おいおい、いいかげんにしてくれよ」

 パパの声はうんざりした調子があからさまである。


 ベッドの中で寝返りをうつと、眞奈の意識はだんだんクリアになってきた。


 また始まった。

 最近、ママとパパの口ゲンカが絶えない。ママは慣れない海外生活でイライラしているせいだった。


 朝、両親のケンカの声に起こされるなんて最悪だ。

 眞奈はかけぶとんを引き上げて頭までかぶった。しかし、セントラルヒーティングのため部屋の中は冬でも温かだったから、かけぶとんはごく薄い。ふとんごしでもパパの声がはっきり聞こえてきた。


「君はちょっとのことですぐ大騒ぎをする。眞奈はしっかりした子どもだし、頭がいい子だから大丈夫だよ」


 眞奈は自分の名前が出てきてドキッとした。今朝のケンカの原因はどうやら自分のせいらしい。

 眞奈はベッドから這い出ると、階段の踊り場まで下りて階下の様子をうかがった。


 少し間があった後、不意にママが口を開いた。

「ここで生活するのはあの子には無理だわ……。眞奈はクラスで浮いている『友達がいない子』よ」


 パパは言った。「なんとかって子がいたじゃないか、ウィル君だっけ」


 ママの声は暗い調子のままだった。

「あの子だけじゃないの。中学生っていったらたくさんの友達と元気に遊びまわっている時期なのに」


 クラスで浮いている『友達がいない子』。


 眞奈はママの言葉にショックを受けてしばらく動けなかった。

 自分がママにそう思われていたなんて……。


 一時のショックが抜けると今度は怒りがわいてきて、眞奈は階段からそのまま自分の部屋に引き返した。


 頭の中がぐるぐるまわっている。


 私に友達がいないことがなんだというのか。

 どうして学校が楽しくてしかたないような子とか、友達たくさんと騒いでいる子の方が幸せだという価値観に、みんな洗脳されちゃっているんだろう。

 友達との人間関係なんて疲れるだけでしょ? 自分一人でも十分幸せ、っていう価値観はそんなにダメなの? 

 勝手に『子どもは友達がいないとさびしいものだ』なんて決めつけて、私のことをイギリス不適格だと評価するなんて。

 『友達、大勢います、だから私ハッピー!』って、他の子たちや親への見栄のために取り繕えっていうの?


 眞奈の心は悲しさとみじめさが混ぜ合わさり、憤りの気持ちでいっぱいだった。

 そうだ、自分は『友達がいない子』なのだ。それはママに言われるまでもなく事実である。

 しかし、眞奈がこんなにも悲しくてみじめなのは、ママのその言葉を聞いたからだけではなかった。


 眞奈は『友達がいない子』で、どうでもいい存在で、だから当然好きな男の子にだって相手にされないわけだ。


 マーカスとはあれ以来ずっとしゃべっていない。ミセス・ハドソンの家へ一緒に行く約束は完全に無視されていた。


 あのときから二週間も経ってずいぶん遠い記憶になってしまっている。

 記憶のカケラがチクチク痛い。


 一八〇年前の女の子、ジュリアの亡霊と友達になったこと、そしてマーカスと二人きりで屋根の上を一緒に歩いたこと……。

 それに、ウィストウハウスの五つの謎、過去と現在をつなぐ『過去への抜け道』、マーカスが描いている建築図……。


 いったい本当にあったことなのだろうか? 私は夢を見ていたのではないか。


 あの屋根の上で一緒に過ごしたささやかな時間、マーカスが眞奈に言った言葉の一つひとつ。眞奈にとって宝物のように大切なものであった。


 「ミセス・ハドソンに一緒に会いに行こう」、確かにマーカスはそう言った。


 あれは眞奈の見た幻だったのだ。いや、幻などではない。幻の方がまだよかった。それは幻覚なんかではなく現実である。


 つまり、マーカスは単に軽い気持ちでそう言っただけなのだ。眞奈と本気で一緒に行こうなどとはまったく思っていなかった。眞奈のことなんてどうでもいい存在であった。それこそが真実なのだ。


 期待していた分だけ悲しさもみじめさも倍増している。

 自分の人生でもう二度と『期待』なんてするまい、自分の身の丈にあった、ひっそりとした小さなスペースで現実的に生きていこう、眞奈は心に決めた。


 眞奈はワードローブから制服がかけてあるハンガーをつかむとベッドへ投げつけた。


 学校には行きたくなかった。だって、自分は学校に行っても『友達がいない子』なのだから。でも家にいるのはもっと嫌だった。だって、この子は『友達がいない子』だと自分にがっかりしている親といなきゃいけないのだから。


 眞奈は学校に行く気も家にいる気もなかった。

 とりあえず制服に着がえると、カバンとウォーカーズのポテトチップスをつかみ、ママとパパに見つからないようにこっそり階段を下り外に出た。

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