3 イギリスで唯一の友達


 しかしながら、いくら亡霊や魔法使いを信じさせる神秘的なウィストウハウスといえども、実際に学校がはじまってみると日常は亡霊とは程遠く、眞奈の学校生活はまったく憂鬱で退屈なものだった。


「連続する3つの偶数の和が6の倍数になることを……」

 薄暗い教室の中で数学の先生の単調な声が続いていた。


 どうしてイギリスの学校の教室はこんなに薄暗いのだろう。窓から差し込むのが冬曇りの弱い光でもおかまいなし。日本だったら目が悪くなるからといって、明々と電気をつけるのに。

 このほの暗さは、どうか昼寝してくださいといっているようなものだ。


 眞奈は教科書で口元を隠してあくびをした。隣の席のウィルにもあくびが移ったのか、ウィルも大あくびをしていた。


 横目でちらりと見ると、ウィルはこっそりノートに女の子の絵を描いている。


「ジェニーだよ、彼女、かわいいだろう?」

 ウィルは聞かれもしないのにささやいた。ウィルは最近仲良くなった女の子、ジェニーに夢中なのだ。


 ジェニファー・アレンは、彼のいとこの友達で、ここから少し離れたシェフィールドに住んでいる。

 眞奈はジェニーを一度だけ見たことがあった。確かにジェニーがかわいいのは事実だが、ウィルの絵が下手過ぎて、ノートの中からこちらをにらむジェニーの絵は、お世辞にもかわいいとはいえなかった。


 ウィルだけではない、イギリスの生徒は男の子も女の子もみんなよくノートに絵を描いている。きっとスケッチの文化があるのだろう。興味をそそられ、眞奈はつい付近の生徒のノートをチラ見してしまう。

 しかし、うまいか下手かでいえば、あまりみんな上手とはいえなかった。なかでもウィルはとりわけ下手だった。


 眞奈は笑いそうになるのをこらえて、「そうだね、ジェニー、かわいいね」と、ウィルにささやき返した。


「だろ?」、ウィルは目くばせをした。


 ウィリアム・ランバートは眞奈のイギリスでただ一人の友達だ。


 ウィルはのっぽのそばかすだらけの男の子で明朗活発、プラスとても面倒見がよかった。


 学校に行く最初の日のスクールバスで、眞奈がバスの乗り方に戸惑ってオロオロしているところを助けてもらって以来、何かと彼女の世話をやいてくれていた。

 なにしろウィルには年下の妹が三人もいて、眞奈のような迷子の世話は、彼にとって得意中の得意だったのだ。


「教科書の~ページを開いて……」、教室に先生の無機質な声が響く。


 あ、ページ数を聞き逃しちゃった。

 眞奈は慌ててウィルの開いている教科書のノンブルを盗み見しようとした。


 それを見て取ったたウィルが、「二十五ページだよ、二十五ページ」と、小声で眞奈に教えた。


「ありがとう」、眞奈は微笑んだ。


 この六ヶ月、『ありがとう』という言葉を何度ウィルに向かって言っただろうか……。ウィルがいなかったら、眞奈はイギリスの学校で完全に一人きりだった。


 心配性のママは学校から帰るたびに眞奈を質問攻めにした。

 友達はできたか、英語はちゃんと通じているか、積極的に話そうとしているか、授業についていけているのか、など本当にいろいろ。


 でも、眞奈はあまりママを喜ばせるような返事ができなかった。


 まず授業についていっているかどうか、これがかなりあやしい。

 先生たちは外国人の眞奈には甘めだったにもかかわらず、乃第点がやっとであった。


 そして友達ができたかどうか……、こっちはもっとだめである。


 今でもウィルの他に友達はいなく、クラスではいるのかいないのか、ぼやけた存在だった。たまにいることに気がついてもらっても、『あの中国人の女の子』というのが眞奈の存在名になっていた。


 みんなべつに意地悪で言っているわけでも、わざと国を間違えているわけでもなかった。眞奈の名前を知らない生徒がほとんどだし、何かの拍子で名前を聞く機会があったにしても覚えづらい。出身国についてはなおさらあやふやなだけなのだ。


 顔からして『極東アジアのどこか』ぐらいの認識で、イギリスで極東アジアといえば日本よりも中国の方が断然ポピュラーなため、自動的に『中国人の女の子』というわけだった。


 教室に響く数学の先生の単調な声はまだ続いていた。

 このままでは本当に寝てしまいそう。


 眞奈はつい窓と外の景色に目をやる――、それとも、マーカスのことが気になるから何度も窓の方を見てしまっているのだろうか。彼女自身にもよくわからなかったけれど、やっぱり何回も窓の方を見やった。


 マーカスはあいかわらず外を眺めている。


 かっこいいとはいえなかったが、穏やかで優しそうで少しだけ謎めいたところがあった。眞奈が彼を窓の魔法使いだと感じたのはそんな雰囲気からきていた。


 オースティン校長先生によれば、彼は子どもの頃に少女の亡霊と会ったことがあるらしい。ウィルの少年時代ならありえないけど、マーカスならもっともなことだと眞奈は考えた。


 この間、眞奈の日本の女友達が、新しい塾のクラスでどの男の子がかっこよく、どの男の子が気になる子なのか事細かにメールしてきたことがあった。

 眞奈も負けじとマーカスのことを書いたが、いまいちどう表現していいのか迷った。

 「マーカスはかっこよくはない」と正直に書いたら、イギリスやアメリカの男の子はかっこいいはずだと思い込んでいる日本の友達は関心を失ったようで、それ以来マーカスの話題は盛り上がらなかった。


 彼は眞奈の知っている日本人の男の子たちとは全然違う気がした。


 イギリスの男の子だから、そう感じるのだろうか? でもウィルとも違っているし……。

 やっぱりマーカスだから違うのだろう、眞奈は思った。


 マーカスの横の上げ下げ式の白い格子窓は少し開けられ、肌寒い二月の風が教室に入り込んでいた。

 教室はセントラルヒーティングが効き過ぎているので、窓の隙間から流れてくる風は心地よい。


 彼はいったい何を見ているのだろう。

 窓から見えるのは、どんより重く流れる灰色の雲とうっそうとした湖。どこまでも続くゆるやかな緑の丘は霧でかすんでいて、彼方には村の教会の小さな塔。美しい風景は絵の具のにじんだ水彩画のようだ。


 丘の向こう、遠くを見ながら何を考えているのだろう。

 窓にもたれかかり外を眺めているマーカスは、薄暗い教室に溶け込んで静かな影になっていた。


 そして彼の隣にはいつものようににイザベルがいる。


 イザベル・ボウモントはマーカスの幼なじみで、学校一の美少女だった。


 ブロンドのゆるやかなウェーブが肩にかかり、色白の頬はピンク色、ひとみは深いすみれ色。おとなしげな彼女が微笑むとなんとも可憐な感じがした。


 マーカスがイザベルと幼なじみ以上に仲がいいのは誰の目にも明らかであった。


 眞奈はため息をついた。


 ウィルはそのため息を『あーあ授業早く終わらないかなぁ』の意味に取り、眞奈の方を向いて「昼飯前の授業は長いよな、わかるぜ」とにっと笑った。


「まるっきりわかってないじゃない」、眞奈は思わず日本語でつぶやくのだった。

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