第3話 九条緋織

 桜並木の通学路を超えた先に、県立明代高校は在った。

 宗二郎が三年間通う事になる場所だ。

 正門には『ご入学おめでとう』の文字が掛かれた看板があり、その前では親を連れた新入生らしき人だかりが記念写真の撮影に勤しんでいる。


 少年少女は、これからの学園生活に不安と期待の入り交じった表情をしていた。

 中には、何でも無いようにしながら携帯電話をいじって適当に親の相手をしていたり、早くも友達を作ったのか新入生同士でお喋りに花を咲かせていたりする女の子も見受けられた。


 宗二郎はそんな初々しい生徒たちの横を通り正門を抜ける。

 時間にはまだ十分余裕がある。

 少し敷地を歩いてみるくらいは大丈夫だろう、と時間をつぶすことにする。


 宗次郎は、クラス分けが発表されて人が集まっている掲示板とは反対の方向へ歩き出す。

 しばらく歩くと、ヒュッと風を切る音の後、タンッと乾いた音が聞こえて来た。

 彼はその音に誘われるように、そちらに足を向ける。

 やがて、敷地の端、正門の真反対あたりに立派な弓道場が見えた。


 弓道場の奥には、生い茂る緑の木々も見え、手前には桜の木が植えられている。設置されているのは近的場で、誤射対策に簡単に立ち入れないよう低い囲いがあった。

 弓道場では女子生徒が一人で弓を射っていた。

 と、彼女の方も宗二郎に気が付いたようで弓を構える手を止めて、彼の方に振り返った。


 流れるような長い緑の髪が印象的な人だった。

 可愛らしいと言う表現よりも、凛々しいと言う言葉が良く似合う女性だ。

 道着姿で、上は白の筒袖に黒い胸当て、下は黒袴と白足袋を身につけていた。右手にはゆがけを嵌め左手には弓を持って、肩には矢が入った矢筒を引っ提げていた。

 オーソドックス、あるいは古式ゆかしい弓道のユニフォームだった。

 長身で、男の宗二郎と比べてもほとんど遜色がないくらいの体格である。

 立っているだけで絵になる女性である。


 彼女の前には散る桜の美しさも霞むように思われ、しかしそれは儚さではなく抜き身の刃のような美しさだった。

 少なくとも、宗二郎にはそう感じられた。


「やあ、こんにちは。そこの君、どうかしたのかな?」

「こんにちは」

 彼女は射場から降りて来て宗二郎に近づき、その黒い双眸でじっと彼の事を見つめて来た。


「君、困っているだろう?」

「……はあ」


 宗二朗は生返事を返す。

 唐突に何を言っているのだろうか、この人は。


「君は、顔を見るに新入生だ。果たして、どうしてそんな人間がこんな校舎の端に在る弓道場に足を運ぶのか。恐らく、うっかり裏門から入ってしまったのだろう。つまり──ずばり君は道に迷ったのだ。故に、困っているだろう?」

 どうだ名推理だろうとでも言いたげに彼女は胸をはる。


「いえ、全然違います」

「なんだ違うのか。おかしいな」

 おかしいのはその思考回路ではないだろうか、なんて事は、宗二郎は思ってもいないし、口にも出さなかった。


「全く違います」

「そんなに否定しなくてもいいじゃないか」

 自信満々な彼女には悪いが、宗二郎は首を振って否定する。


「おっと、自己紹介がまだだったな。私は九条緋織、二年生だ。見てわかるように弓道部所属だ。気軽に緋織と呼んでくれ」

「僕は東雲宗二郎です。宗二郎で結構です、緋織さん」

 名乗られたので、宗二郎も名乗り返す。


「そうか、宗二郎。君は新入生では間違いないかい?」

「そうですが、それが?」

「いいや、意味は特に無いよ。ちょっとした興味本位だ」

「そうですか」

「そうだとも」

「ところで、緋織さんはこんな朝早くから何を?」


 彼は話題を変えて、そんな質問を試みる。


「うん。射法の練習」


 宗二郎が二十八メートル先の的を確かめると、矢はしっかり中心を貫いていた。


「当たっていますね、お見事です」

「ああ、ありがとう。精神統一みたいなものさ」

「成る程、僕も道場で素振りしたりするので、分かります」

 偶に無心になって身体を動かしたくなる時があるものだ。


「今日は入学式で、これから沢山の新入生が入って来るだろう?」

「ええ、そうですね」

「それだから、それぞれの部活毎でオリエンテーションが開かれる予定なんだけど、弓道部では代表三人が壇上に上がって実演するんだよ。それで、私もそれをやるんだよ」

「そうですか」

「面倒な」


 おっと、つい本音が、などと緋織は微笑む。


「それで、精神統一ですか」

「ああ。まあ、楽しみにしていてくれ。もっとも、実演と言っても流石に壇上で弓を射るわけにもいかないから、構えを見せたりするだけなんだけどね」


 なんだか途中、やる気の無い本音を聞いたが、宗二郎は頷いておいた。


「おっと、少し喋りすぎた。今の話は内緒にいておいてくれ。何をやるか先に知っていたら、詰まらないしな」

 と、彼女は唇に人差し指を当てて、悪戯を内緒にするかのように、そうお願いをした。


「心配いりません。あえて吹聴してまわる趣味は持ち合わせていませんし、まだこの学校で親しい友人もいないですし」

「おや、少なくとも私と君はすでに友達だろう」

「そうでしょうか」

「そうだとも。お互いに自己紹介も済ませた。すでに他人ではなくなった、ならば友達だろう。君はそうは思わないか?」

「難しい話ですね」

「いやいや、シンプルな話さ」

「いえ、もうそれで結構です」


 たぶん否定しても無駄なので宗二郎は素直に頷いておいた。


「ははは、君は虎太郎に似ているなあ。そっくりだ」

「虎太郎?」

「家で飼っている犬の名前だ」

「そうですか」


 それは、果たして褒められているのだろうか、馬鹿にされているのだろうか判断に迷う評価だった。彼女が本気で言っているのは宗二郎にもわかるのだが、どう反応していいのか困る。

 犬畜生と同列に扱われるとは、心外だ。

 いや、犬を馬鹿にしているわけではないのだが。

 だいたい、人間と犬を比べて一体どこが似ていると言うのだろうか。やはり女性の考えることは常に謎だ、と宗二郎は再認識した。


「緋織さん、強引だって言われませんか?」

「ああ、うん。よく言われる。幼馴染とか、そこら辺に」


 本人も自覚はしているらしい。

 だが、全然反省する気はなさそうだ。

 そのよく苦言を呈する幼馴染とやらには多少の共感の念を抱く。

 その時、誰かが歩く音が聞こえたので、宗二郎はそちらに注目する。

 そして、校舎の方から女子生徒が一人、緋織を見咎めて近づいてきた。


「緋織、やっぱり此処にいたのね。アンタ、こんな時間から道場開けて何をやってるのよ」

「千尋じゃないか」


 後ろから行き成り声を掛けられて緋織はかなり驚いた様子だった。


「あら、一緒にいるのは新入生のようだけれど。どなた?」

 と、彼女は初めて宗二郎の存在に気が付いたようで、そんな問いを投げかける。


「東雲宗二郎と言います」

「そう、私は國枝千尋。よろしくね」

「ええ、こちらこそ」


 千尋は緋織指して、

「そこの猫みたいな困ったお馬鹿ちゃんとは一応、幼馴染で友達よ」

「私はどちらかと言うと、猫派よりも犬派だな」


 真剣にそんな事を言う緋織に、「どっちでもいいわよ、そんなこと」と疲れたように額に手をやって、千尋は話を流す。

 それから「所で」と、彼女は緋織に向き直る。


「何か私に言いたいことがあるんじゃないかしら?」

「なんの事だか、私にはさっぱりだ……」

 と言いつつも、緋織はつと目を伏せて千尋から目を逸らす。


「へぇ、そうなんだ。今日の事で話があるって、昨日話していたはずなのだけど、私の記憶違いだったのかしら。そう、それなら私の不手際でしょう。謝った方が良いかしら?」

 氷のような冷ややかな眼差しで千尋は緋織を責める。


「わかった。悪かった、千尋。そう怒ると、可愛い顔が台無しだぞ。折角美人なのに」

「だまらっしゃい。下らない事言ってないで、行くわよ」

 彼女は手招きして、そう催促する。


「お話し中邪魔して悪いけど、私たちもう行かなきゃなのよ。貴方もそろそろ時間よ。そろそろ教室へ向かった方がいいわ」

「そうですね。そうします」

「またな、宗二郎」

「ええ、さようなら、緋織さん。また」


 そう言い残して、緋織は子犬のようにずるずると千尋に引きずられていった。

 手を振って別れを告げる彼女に宗二郎も、言葉を返す。

 宗二朗も、忠告とおりに自分の教室に向かった。

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