07. 嗤う羊

 目を合わせたりするものか。

 しかし、赤光は瞼を透かして頭の中へと侵入してくる。


 水の中へ放り込まれたように、酸素を求めて喘いだ。正座していた身体を二つに折り畳み、床へ頬をへばり付けるが、それでも顔を羊へ向けた。


 血が逆流する圧力の中、目だけは開け続ける。

 ラルサが何をする気なのか、見届けなければ。


 俺を後押ししたのは根性や気合いではなく、純粋な恐怖だ。いつ終わるか分からない拷問を、何も分からないまま耐え続ける方が恐ろしい。


 一時は鮮烈な原色が覆った空間を、今度は無明の闇が浸食し始めた。波打つ漆黒の黒が、毒虫の如く部屋中を這いずり回る。

 暗色の触手を操るのは、艶を失った邪羊。ラルサのが、獲物を捕らえるべく波打った。


 絡め取られたのは机のノートパソコン、そして、力無く畳にくっついた俺の頭部である。


「電子データ、だったっけ。キミたちは厄介な物を作り出すねえ」

「や……やめて……くれ」

「やめるわけないじゃん。消し方は、もう覚えたよ」


 ラルサの口調は、いつもの軽やかさを取り戻していた。

 ハードディスクの磁気の並びを、膨張した黒い毛が塗り潰す。ギュルギュルと耳障りな怪音は、データを噛み砕く摩擦の響きだろうか。

 いや、これは――。


「ギュ、ギュッ! ギュルギュルギュルッ!」


 増幅する奇声が耳に侵入した瞬間、遂に俺はかすれた悲鳴を漏らし始めた。邪羊の叫びが、頭へ見えない釘を打ち込む。

 叫んでる……? 違う、こいつは笑ってるんだ。


 為すすべもなく横たわる俺の姿は、羊を存分に満足させららしい。

 ああ面白い、そうラルサは確かに言った。ごちそうさま、とも。

 半開きの口で懸命に息を吸いつつ、胡乱うろんな視線を獣に返す。


「もう馬鹿な真似はしないようにね。まったく、昔は元原稿を食べれば済んだのに」

「何を……」


 いつの間にか禍々まがまがしい光と闇は失せ、部屋は小汚い安アパートに戻っていた。

 データはここだけかと尋ねれ、質問の意図を把握できないまま、曖昧にイエスのつもりで呻く。

 バラ撒かれると面倒、そんな文句をブツクサと呟いていたようだ。


 俺の顔に、赤い瞳が近付いた。

 口をパクパク動かす様が、よほど楽しかったのだろう。またも奇怪な声で笑うと、用件は済んだとばかりに、ラルサは鏡の向こうへ帰って行った。


 笑われるのは構わない。それよりも、実験を無駄にしちゃダメだ。

 なぜ羊は怒った?


 まだ体を起こせるほど力は回復しておらず、思考だけをグルグル巡らせる。

 自分のことを書かれたから? でも、剣夏美も羊を登場させてたぞ。


 頭のかすみは徐々に晴れていき、ひしゃげた蛙の体勢で今夜の出来事を反芻する。

 ラルサを激怒させたのは、この数日の実録記だ。書いてはマズいことが、そこにあったからだろう。


 羊は剣夏美が、鏡は荒俣が自作で書いていた。分かる人間が読めば、それが邪羊を指すエピソードだと察せられる。

 そこに問題は……。


 待てよ、荒俣彦々の著書には、ラルサが猛反応したじゃないか。

 ようやく筋肉の張りが復活すると、頭を持ち上げて座り直すことができた。黒いよだれのシミが、畳に斑点を作る。


「荒俣か。やっぱりあの本……あっ」


 いつものこととは言え、自分の間抜けさを呪う。

 ドスバーガーで浮かれてしまい、本の注文を忘れていた。さっさと買わないと、配送が明後日になってしまう。


 ヨロヨロとパソコンににじり寄り、アイコンの一つをクリックする。触手まみれになって、壊されたのではと心配したが、ブラウザ画面は無事に現れた。

 安堵の吐息を漏らし、検索ボックスに書名を打ち込む。


“荒俣彦々 読ませる技術”


 配送の早そうな店を探そうと、リストから数件のページを開けた時だった。

 胸のポケットが震動を伝える。


“着信:サル”


 誰だこれ。猿?

 登録名がある以上、知り合いのはずだったが、奇妙な名前に首を捻った。


「もしもし?」

『ちょっと早く出なさいよ! 連絡も全然しないし、もうっ!』


 矢継ぎ早の叱責を聞いて、相手が母親だとやっと理解した。

 去子さるこだから“サル”か、ハハッ、上手いこと言うなあ。


『結局、いつ帰って来るのよ。大晦日って言ったり、四日って言ってみたり”

「え? あー、ちょっと今年は無理かも」

『無理って何よ! 帰省くらい、ちゃんとしなさい』

「ごめん、また電話するから。ちょっと立て込んでてさ。切るよ」

『またなの! 篤っ!』


 通話記録が表示されるスマホの画面を眺め、事態を理解しようと頭を働かせる。

 サルの渾名あだなは、誰が考えた?

 大晦日や四日に帰省すると言ったのは、誰だ?


「……俺は波賀篤、八月二十日生まれ、獅子座。好きな食べ物はサーモン」


 自分の名前を、声出し確認するハメになるとは。誰かの悪戯いたずら、怪我や病気による記憶障害、普通ならそんな理由が考えられる。


 しかし、俺の置かれた状況は普通・・じゃない。もっと相応しい原因が、真っ先に思い浮かんだ。

 喰われたんだ、あの羊に。


 芋虫が食い散らかしたように。漫画でよく見る、穴だらけのチーズみたいに。俺の記憶は、そこら中を綺麗に消し去られていた。





 何を、どれくらい消されたんだろう。疑問が渦巻くけれど、行動は鈍い。

 執筆に取り掛かる気力は、毒気に当てられて萎えてしまった。ノーパソには検索画面が表示されっぱなしで、本の購入もまだだ。


 そうだ、原稿データはどうなった? ファイルの内容をモニタに映す。

 詩や感想文は無事で、やはりと言うか、消されたのは実録日記のみだ。“消された”と言うのは、語弊があるかもしれない。


“なやまかニヒ、ぬてさこ・トイコ。んハリスセなカっっあーミ。、わもエぬサーハヲサーく”


 意味を成さない文字列でテキストは置き換えられていた。延々と続く字の並びは、ちょうど元の文字数と同量のようだ。

 わざわざ書き換えたということは、ここに羊の気に障る内容があったということ。ラルサの言動からして、荒俣の著書に触れたのがいけなかったのか。


 鏡、脱線法、リスタート・メソッド――。ここまで考えて、自分がまだ実録記の内容を覚えていることに思い当たる。

 テキストエディタを起動して、忘れてしまわないように消された話の要点を箇条書きで起こしていった。


 てっきり脳の中も綺麗に掃除されたと思っていたのだが、蚕食されているものの、ここ最近の記憶には手を付けられていない。

 少なくとも、自分の書いた各作品を読んだ限り、どれも見覚えがある。もう一度書けと言われれば、実録記も再現できそうだ。

 あくまで記録に残すなというのが、ラルサの言い付けらしい。


 記録は――他人に読まれるかもしれないからか。弱点、そんな言葉を連想する。あの黒羊には、突かれて困る弱みが存在するのだ。

 母の珍奇な渾名を忘れたくらい、どんな不都合があろうか。それよりも羊の攻略に一歩近付けた方が、よっぽど重要だ。


 ここに至って、俺のやる気も回復の兆しを見せた。ラルサが異様な迫力を備えた魔物であることは、最初から分かっていたじゃないか。出来ることから、やろう。


 第一に、『読ませる技術』を注文する。配送は明後日の午前中、これが最も早い。

 次に、今までの原稿と、実録記のメモをバックアップする。この作業も、前回思い立った時は中断してしまった。自分の落ち着きの無さが嫌になる。


 リュックを漁り、USBメモリーのケースを取り出す。ノーパソの端子に差し込み、新規フォルダを作成して、名前を“原稿”に――。


「なんでもう在るんだよ」


 科目毎に分けられたレポート用のフォルダに交じって、“原稿”の名称は既に使われていた。中を開くと、知らないテキストデータが何十も表示される。


『銀河鉄道のヨルムンガンド』

『山田くんは今日もシャーマン』

『そうだ、サルにしよう』

『ボクは最強の蟹マスター』


 どのタイトルも、初めて目にする物である。多少なりとも覚えがあるとすれば、『山田』だろうか。俺はそのファイルをクリックして、中身を読んでみた。


 山田はお調子者の小学生。物真似が大好きで、毎日、新しい芸を披露する。棒を振り回してシャーマンを演じるのが、特にお気に入りだ。

 全三十話、毎回違う物を棒の先に引っ付ける所から話が始まる。

 定型を作り、小道具だけを変更して、毎度お馴染みの話を続ける手法――“繰り返す日々エンドレス・デイズ”。この増文法はまだ試していないが、荒俣の本で読んだ。


 ずっと小骨の如く喉元に引っかかっていた違和感が、ここでようやく形を成す。山田なんて友人は、過去にいなかった。山田の思い出が、シャーマンしか出て来なくて当然だ。創作された人物なのだから。


 今度こそ、心底まで冷え切るのを感じる。

 羊は、いつから・・・・喰っていた?


 自分の身に起きている事態を、今夜までの俺はまだ甘く想定していた。餌の原稿が無くても、羊はよく頭を振る。あれは食事のしるし、俺を食べているのだ。常に、ずっと以前から。


 やっぱり鏡を捨てて逃げよう。鏡さえ見なければ付きまとわれなくて済むのではないか、そう考えたのは一度や二度ではない。

 羊に脅されたせいで一度は諦めたが、結局食べられると分かれば話は別だ。


 捨てよう。赤い鏡は捨てて、上に何か載せておく。自分は荷物を纏めて実家へ。 カーブミラーも手鏡も無い場所を、必死で探そう。道中は絶対に鏡の類に目を向けない。

 鏡を蓋する物をと部屋を見回した俺は、また一つ忘れていた事実を突きつけられる。


 黒羊の哄笑が聞こえてくるようだった。

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