第17話 いけない、いけない(「ストラスブールの旧市街 -グランディル」)
“和製リチャード・クレイダーマン”利一さんによる演奏が終わると、八城さんは「風に当たってくる」と一旦お店から出てしまった。
すると、利一さんも「クールダウンしてくるわ」と外に出る。
八城さん、笑い過ぎて呼吸困難にならないといいんだけど。
「先輩方、ごめんなさい。私はこれで失礼します」
藍奈ちゃんは、テーブルにお金を置いて席を立った。彼女は埼玉県の
神田さんが、藍奈ちゃんを三軒茶屋駅まで送ってくれることになった。ついでに八城さんの様子も伺ってくれるそうだ。
急に静かになってしまった。
蔵波さんが「あの」と口を開く。
「横田さん……でしたよね。先日は、お姉さまに大変ご迷惑をかけてしまいました」
俯いていた彼は、顔を上げて「とんでもないです」と首を横に振る。
「こちらこそ、叔父が迷惑をかけていて、申し訳ありません。姉がいないと、叔父はしらふでもあんな感じなんです。真面目に演奏すれば恰好良いのに」
彼は疲れた顔で苦笑した。
珱子さんが利一さんのストッパーになっていたとは。
そういえば、今日は珱子さんの姿を見ていない。でも、常連さんは慣れた風に演奏を聴いていたけれど。
「今度は、お姉様のいらっしゃる日に叔父様の演奏を聴かせて下さいな。ところで、横田さんは白河さんとどういうご関係で?」
ちょっと……と言いかけた私は、蔵波さんの満面の笑みに制されて何も言えなかった。
仕事のときとは違う雰囲気で生き生きしている蔵波さん。八城さんと一緒にいるときも、きっとこんな感じなのだろう。
彼は、ゆっくり頷いて答える。
「同志です」
蔵波さんは楽しそうに、さらに訊ねる。
「何の同志ですか?」
「世界遺産の同志です。俺と同じ世界遺産検定のテキストを、白河さんが偶然カフェで読んでいて、それで」
「……すごい偶然ですね」
嫌味でも愛想でもなく、蔵波さんは目を丸くする。
彼はリュックサックからテキストを出して見せた。今日も持っているのか。
私も自分のバッグからテキストを出した。この前キャロットタワーで買ったキャラクターものの付箋が、ページから顔をのぞかせている。
「見てもいい?」
蔵波さんは、席の近い私のテキストを手に取り、ぱらぱらめくる。
「あ、これ知ってる」
蔵波さんが指差したのは、「ストラスブールの旧市街――グランディル」の項目。
フランスとドイツの国境の都市・ストラスブールの一部の地区が、世界遺産に登録されているのだ。
ハーフティンバーという木造建築の住宅が昔ながらの景観をつくっている一方、市の中心部は現代的なビルが並んでいる。
失礼ながら、蔵波さんがストラスブールを知っていたとは、意外だった。
私は、ストラスブールに行きたいというお客様に会ったことがない。
日本からストラスブールに行くには、一度飛行機を乗り換えなくてはならないのだ。
「私が大学生のとき、ストラスブールのことをレポートに書いたの。古き良きヨーロッパの街並みをSFみたいな路面電車が走っている写真が、とても印象的だった。路面電車の歴史も古いみたいだよ。通貨がフランの頃から運行しているみたいだから」
ストラスブールのことを話す蔵波さんは、楽しそうだ。
「そのとき、町も人間みたいに性格があるんだと思ったんだ。ストラスブールの場合は、二面性っていうのかな。国境の都市として開けた一面と、昔からの暮らしを守る一面。開けた一面では、近未来的な路面電車を取り入れて、守る一面では、昔からの建物が並ぶ地区を守る……って感じで」
蔵波さんも、好きなことになると饒舌になるんだ。
「それにしても、
蔵波さんも席を立った。
テーブルは、彼と私のふたりきりだ。
「すみません。にぎやかしてしまって」
「大丈夫ですよ。白河さんは、仕事仲間にめぐまれていますね」
彼は穏やかに微笑む。でも、元気がない。残業を切り上げたと言っていたから、仕事の疲れが出たのかな。
「俺もちょっと
利一さんが椅子に置きっぱなしにしていたクラシックギターを手にし、元の席に戻る。
構えやすいように椅子の向きを変え、ゆっくり奏で始めたのは、「禁じられた遊び」だ。
ピックはないけれど、充分聴ける音色だ。
いけない、いけない。
ギター効果で彼に
◇ ◆ ◇
「ストラスブールの旧市街 -グランディル」
フランス共和国
文化遺産
1988年登録
ストラスブールの歴史は、紀元前12年頃、古代ローマ軍がイル川の中州に築いた駐屯地に始まる。
ストラスブールとは、ドイツ語で「街道の町」を意味するが、その名の通り、この町はローマ時代以来、人や物の行き交う交易都市として発展した。
世界遺産に登録されている旧市街にはロマネスクとゴシック様式の混在するノートル・ダム大聖堂があり、16~17世紀の街並みを残す「プティット・フランス」と呼ばれる一角には、ハーフティンバー様式のドイツ風木造家屋が並んでいる。
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