2話:掃除係(②)


 教室の中には誰もいない。その後方には僕たちの荷物が固めてある。教室を出る時に置きっぱなしにしてしまったマグカップは、いつの間にか片付けられていた。工作用の真白の机は冷たい空気にさらされ、無機質な蛍光灯の光をぼんやりと反射している。

 尚人先輩はどこにいるのだろう。てっきりまだここに残っていると思っていた。もしかしてマグカップでも洗っているのだろうか、などと思いながら荷物の方へと歩みを進める。

 牧田先輩には「戻ってて」と言われたが、「残ってて」、とは言われていない。とりあえずは、家に帰って冷静になろう。そして頭の中を整理しよう、という気持ちが僕の頭のほとんどを占めていた。

 だって、このままじゃ僕は、いつまでたっても彼女たちのペースのままだし。そんで、僕は僕のペースでいられないし。

 それだけは避けなければいけない、と、僕は強く思う。すべては僕が、「僕」として万全の状態で彼女たちと対峙するためだ。見える物も見えない状態で負けたところで、納得できるわけがないんだ。っていうか、「勝てる」相手に負けたくないし。僕は、僕のペースでなら彼女たちに「勝つ」ことができる。そういう人間なんだ、と言い聞かせながら、バッグの紐を肩にかける。そのための一時撤退だ。逃げているわけじゃない。

 簡単に支度を済ませた僕は、さりげなく、近くの戸棚の死角に彼がいないか確認する。どうやらここにはいないみたいだ。机の上に彼の荷物はあったから、どこかにはいるはずなのだが。

 ところで戸棚の後ろには、他の戸棚や机によって仕切られた、人が二、三人入れるくらいの小さな空間があったようだ。向かって左側の机の上にはマグカップや箸などの簡単な食器、そしてスポンジや洗剤がそれぞれ固めて置いてあり、その机の隣には小さな冷蔵庫が置かれている。右側には美術室によく置いてある作品棚。そして奥には教室にあるのと同じ、灰色の掃除用具入れが、壁にもたれかかるようにして立っていた。

 それらを見てすぐに、ここが「掃除係」である彼の拠点であることがわかった。彼がいつも使っている掃除道具や食器は、ここから出しているのか。

 僕は突如現れた、どこか秘密基地めいたその空間に、一歩足を踏み入れる。逆さに置かれたコップやマグカップはどれも清潔なタオルの上に逆さに置かれて並べてあり、僕はなぜか、少し感心してしまう。この、汚れ一つない、やわらかそうな薄ピンク色のタオルは、誰の私物なのだろうか。彼、それとも彼女? そんなことを考えながら歩みを進めていくと、奥の掃除道具入れの扉が半開きになっていることに気づく。

 わずかに開いた隙間から、その奥を覗いてみる。すると、薄暗い中に、木やプラスチックでできた長ぼうきの柄が、数本見える。それらに何らおかしいところはない。どこからどう見たって普通の、何の変哲もない。ただの掃除用具入れである。

 ……が、しかし。

 体が、動いていた。いつの間にか僕は、掃除用具入れの扉の取っ手に、まるで、吸い寄せられるかのように手を伸ばしていた。

 どうして僕は、この扉を開けようとしているんだろう。すべて、不思議なくらい無意識だった。僕は、迷わずまっすぐに伸びていく指先を、他人事のように眺めている。そうしていると、ふと、中指の先端が汚れていくことに気づく。人工的な赤色と水色。その派手な色たちがぐじゅりと指の腹の辺りで混ざり合っていて――そういえば、まだ洗っていなかったっけ。


 ――と、指先が扉に触れる瞬間。


 ガンッ‼


 背後から聞こえた激しい音に、僕は飛び上がった。

 なんだ、と振り返った瞬間、やはり戸棚の向こうから、先ほどと同じような大きく激しい音が響いた。

 ドンッ‼

 何か硬い物と硬い物がぶつかり合うような音、が続く。「バキッ」とか、「ボゴッ」とか、聞こえるたびに変化しながら、音は教室の前方から鳴り続ける。

 どこから聞こえる?

 慌ててその場から出ていき、教室をぐるりと見渡しても誰もいない。しかし先ほどから聞こえてくるその鈍い音は、人の気配のない教室に不規則に、そして不気味に響いている。

 通学バッグの紐をぐっと握り直し、僕は音の出所を探す。普段は無意識に動かせているはずの脚はわずかに震えており、僕はその情けない震えを抑え込みながら、なんとか前へと歩を進める。

 前へ、そして、また一つ前へ。僕の脚は教室の前方へと進んで行き、当たり前のように教壇の手前へと辿り着いた。僕の目の前にはだだっ広い黒板が広がっている。と、思い出したかのように、「ボグッ」という音が響いた。鈍い、打撲音? さっきよりも大きいと感じた。そしたら、音の出所は、ここ……? 僕はさらに、何も書かれていない黒板に近づく。

 もしこの黒板が原因だったら――創作部が「サインイン」に使っているという、この黒板が何らかの不調を起こしているのであれば――まずいんじゃないだろうか。

 だって彼女の話によれば、僕はこの黒板を使って「サインイン」に成功した人間、つまり、「世界の交差」に関わった人間なわけで。この音が、黒板の向こうで起きている「世界の交差」の何らかのバグの音であるならば、「世界の交差」に関わった僕にも、何か、悪い影響が出てしまう――なんてことはないだろうか。

 僕は後ずさりをする。鈍い音は鳴りやまない。ボグッ、ドッ、という音は、だんだんその間隔を狭めていく。それにつられて鼓動も早まる。落ち着け。いいから落ち着くんだ。今の僕に必要な物は、自分のペースを取り戻すのに必要な時間だって、さっき自分で結論づけたじゃないか。

 僕は踵を返す。いや、より正確に言えば、踵を返そうとしたが、少し上体を回したところで、僕の体はピタリと止まってしまった。

 黒板の隣の壁に、ドアがある。なんてことない普通のドアだ。しかし、今まで全然気づかなかった。

 そのドアが、少し開いていた。

 ドアの上の方に掲げられた「多目的準備室」というプレートを見る限り、ここはこの教室の準備室なのだろう。

「フッ!」

 バキン‼ という、何か硬い物が折れる音とともに、誰かの荒い息遣い。僕の呼吸は止まる。ため息すら、漏らすことができなかった。

 そして、しばらく静寂が訪れる。過敏になった神経が、中から聞こえる誰かの息遣いをしっかりと捉えていた。

 心臓がバクバクバクバクと騒がしい。どうやら、こちらに気づいているわけじゃなさそうだ。しかし、下手に動けない。木のように強張った体で、ただ、時間が過ぎるのを待つ。変な汗がドーッと体を包む。顎に溜まった汗が地面に落ちて、その音で気づかれやしないだろうか。ドクドクと体に波打つ恐怖に、ひたすらに耐えるしかなかった。

 ――少しすると、中から聞こえてくる呼吸の音も落ち着いてきた。空調の音しか聞こえない、しぃんと静まり返った空間に、今度は何かを引きずるような音が響く。ズル、ズズ、という鈍い音は、さっきは聞こえていなかった。

 得体の知れない連続音がやんだおかげで少し冷静になった僕は、息をめいっぱい吸い込み、脳に酸素を行き渡らせる。そのまま耳をそばだてていると、がさがさと、硬い布のような物が擦れる音が続いた後に、チーッというファスナーを閉じる音が小さく聞こえた。

 静かに、静かにドアに忍び寄る。すると、また「ドスッ‼」という低い音が空気を揺らす。胃の奥の方がズシンと重くなるようなその感覚に、また拍動が早まるのを感じながら、僕は直感していた。

 ――この音だ。この中に、確かに「犯人」がいる。

 このまま帰ってしまえばいいんだ。今ならまだ、「あいつ」は僕に気づいていない。このまま忍び足で後方ドアまで行って、外階段から逃げればいい。この中で何が起きているかなんて知る必要がない。もともと、この部で起きていることなんて、部員でもない僕には無関係なんだ。知ったこっちゃないんだ。いつもと同じように、今までそうしてきたように、すべてを「無関係だ」って切り離して引き剝がして無視してしまえばいい。何も考えず語らず関与せず、この場から立ち去ってしまえばいいんだ。それなのに。

 繰り返される打撲音。僕はドアノブに手をかける。銀色のそれはひんやりと冷たく、じっとりと掻いた手汗のせいでぬるりと滑る。音が鳴らないように細心の注意を払い、ドアの陰に身を隠しながら、その中を――覗き込んだ。


 ――一目見た僕は、それが、「異様な部屋」だとわかった。


 物がほとんど置かれていない、無機質な小部屋。カーテンに光を遮られた薄暗い部屋には、多目的教室に置かれているのと同じ机が一つと、椅子がいくつか。そして戸棚が二、三個、部屋の一部分を隠すように配置されている。そして床には明らかに違和感のある、大きめの袋が三つ転がっている。布の色と光の反射の具合から、それがビニールシートと同じ材質なんじゃないかと思った。

 そして部屋の真ん中には、一人の男子生徒が立っていた。僕に背を向けるようにして立っているその姿は、まるで陽炎のような、不安定で妖しいゆらめきだった。

 部屋が薄暗いのと後ろ姿しか見えないせいで、それが誰だかわからない。「この人だ」、という目星もつけられなかった。きっと、今までに見たことがない人。じゃなきゃこんな、その背中を見ただけで、言いようのない不安感と恐怖に押し潰されそうになるなんてことはない。

 と、彼は、ふ――……っと口から息を吐く。そして、自分の頭の上に両手を掲げる。彼の手には、何か棒のような物が握られていた。


 ボゴッ‼


 布袋の一つが、大きな音を立てる。この音だ。硬い物で硬い物がぶつかる、しかしどこか鈍い音。それに、何か水っぽい音も混じっている。

 それにしてもあの袋は何だ。両手で抱きかかえるには少し大き過ぎるくらいだろうか。転がっているどの袋も全体的に丸みを帯びているが、物によっては、つんと出っ張った部分がある。彼の目の前に置かれている物が一番顕著だ。しかし、何が入っているのかはわからない。袋の上面には、異様に大きなファスナーが、上半分を横断するように取りつけられている。その形が、何かのさなぎのようにも見えて気味が悪い。


 ボキッ‼


 今度の音は、何か硬い棒のような物が折れる音。棒か。あのでっぱりがそうなのか? 本当に何が入っているのだろう。

 そういえば、この人はここで、一体何をしているんだ。あんな大きな物をこんな所に持ち込んで、どうして力任せに殴っているんだろう。

 そもそもこんな部屋、前からあったっけ。以前の記憶を呼び起こそうとするが、この部屋に関する短い記憶の中に、それはなかった。

 僕が最後にこの部屋に来てから帰ってくるまでの短期間に突然出現したとは考えるのはあまりに非現実的だ。そしたらきっと、前からあったんだ。そういえば、教室のこちら側をよく観察したことはなかった気がする。きっと、単純に僕が気づいていなかっただけで、本当は前からあったんだ。

 そして、いつもはこの扉、閉まっているんじゃないだろうか。だって、開いていたら少しは目立つはずだし、そしたらすぐに気づくはず。もっと言えば、その時には中に人はいなかっただろう。さすがに人がいたら気配で気づくだろうし。普通、人は簡単には気配を消せないものだ。

 そこまで考えを進めると、不意に、ある言葉が蘇ろうとする。僕はそれを思い出そうとした。が、なかなかはっきりとは思い出せない。つ、と汗の玉が背中を転がり落ちていく感覚。鈍く、激しく鳴り響く音の中で、僕は記憶の糸を手繰り寄せる。

 糸の先には「彼女」がいる。僕は彼女に声をかけた。すると、輪郭を曖昧にした彼女の幻影が、まるで、スローモーションのように振り向く。晴天。渡り廊下。蝉の声、運動部のホイッスル。僕は、緩慢に開かれる唇の動きを、目で追っている。


 ――掃除じゃないかな、掃除係だもん。


 ゾクゾクッ、と背中を悪寒が駆けていく。突き刺すような恐怖に僕はたちまち動けなくなる。早く逃げなくてはと本能が叫びまくっているのに、脳は僕の意思を無視してフル回転している。

 知らなくていい。わからなくていい。袋の中身も、「彼」が誰なのかも、わからなくていい。

 逃げなきゃいけない体と、答えを求めようとする頭とがもつれ合い、混線して、僕の手から力が抜けてしまう。他人の物になってしまったかのような僕の肩からはバッグの紐が滑り落ちて、そして、まずい、と思った時にはもう、遅かった。

 教科書やノートを詰めたバッグは「ドサッ」という音とともに床に落ち、空間を――「彼」のいる空間を震わせて――。


 ――「彼」が、こちらを振り返った。


 壊れた機械のように振り返った彼の青白い顔が、カーテンの隙間からわずかに差し込む光に照らされる。

 額には異常なまでの汗。細い髪は額にべっとりと貼りつき、こちらを見ているはずの瞳はどこまでも虚ろ。血色の悪い唇から不規則に呼吸を漏らし、僕へとその体を向ける姿はまるで、亡霊のようだった。

 と、激しい恐怖が僕を飲み込む。早く逃げろ! せっかく動いた足がもつれて転ぶ。立ち上がろうとした時、視界の端で彼が動いたのが見えた。逃げなくちゃ。早く。でも、足が動かない。腰も立たない。地面に突いた手も震えている。彼は大股で近づいてくる。音もなく、こんなにも静かに――しかし、確実に。

 声が出ない。叫び声が。あれは、工作用のハンマーだ。

 おい、動けよ足! 体はどこも動かない。彼は僕の目の前に仁王立ちになる。声が出せない。彼は息を吐く。虚ろな瞳。青紫色の唇、細い腕――。


「彼」は、握ったハンマーを高々と掲げた。


 僕は咄嗟に横に転がる。鉄製のハンマーは「バキン!」という派手な音とともに、僕のいた床をぶち抜いた。そのへこみ具合にぞっとすると、またしても僕の体は動かなくなる。なんて情けないやつなんだ、僕は!

 彼はすぐ立ち上がると、再び僕に照準を合わせようとする。その瞳はやはり虚ろだった。しかし、そこには明確な殺意があった。

 一回きりの運を使い果たした僕の体は、今度こそ動けない。馬鹿みたいに震えているし、最悪なことに、僕はドアの外の、教室の隅に転がってしまったのだ。再び僕との距離を縮めた彼はハンマーを握り直し、僕をさらに隅へと追い詰める。もう逃げ場はない。全身から汗が噴き出す感覚におかしくなりそうになりながら、僕は、「彼」の名前を呼ぶ。

「っ、なおっ、せん、ぱ――」

 ハンマーを振り上げる、彼の動きは止まらない。その瞳は――僕を殺そうとするその瞳の色は――逆光なのに、よく見えた。


 これは夢じゃないのか。

 実はこれは、「あっちの世界」の出来事じゃないのか。

 どうして僕は逃げているんだ。

 どうして僕は殺されかけてるんだ。

 どうして死ぬのが怖いんだ。

 っていうかそもそも、僕はそんなに生きたかったのか。


 最後の問いが浮かんだ瞬間、何かが僕の中で吹っ切れた。

「殺したければさっさと殺せ‼」

 僕は叫んでいた。空気なのか鼓膜なのか、何かがビリビリと震えている。

「殺すがいいさ! だって僕は死にたいんだ! さっさと楽に死にたいんだよ! それが僕の望みだ! 他人に殺してもらえるってんなら、僕は喜んで死んでやる!」

 僕は、彼に「自ら」、頭を差し出して叫ぶ。そうだ。僕はもともと死にたがりだ。そんで、自分じゃ死ぬこともできない臆病者なんだ。願ってもないチャンスじゃないか。だって、他人が僕を殺してくれるんだ。何を恐れていたんだ、僕は。願ったり叶ったりじゃないか!


「あんたが殺してくれるってんなら、さっさと殺せよ! 早く! この、人殺し野郎!」


 自分でもどこから出ているのかわからない怒鳴り声が、広過ぎる教室に反響する。そして、教室はしいんと静まり返る。

 と、ゴトンという音とともに、床が震える感触が微かに指を伝ってきて。

「…………だめだ」

 彼の空気質な声が、震えている。彼はぐらりとよろめくと、力なくその場に座り込んだ。

 がっくりとうなだれた彼の全身はやはり小刻みに震えており、そこだけ気温が違うかのようだった。


 なんて声をかけよう。僕が地面に手を突いた彼と、その手元に落ちたハンマーを交互に眺めていると、彼はその顔をゆっくりと上げる。

「……巴くん」

 血色の悪い彼の唇が開かれる。僕が返事をすることができないでいると、彼は苦しそうに顔を歪め、絞り出すように呟いた。


「君は、殺せない」


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