解き放たれた呪縛

 楠木は山荘を飛び出した。楠木は止まっている自分の車には目もくれず、林の中に走っていった。

木の枝や葉が落ちている土の地面を黒い革靴が踏み込んで去る。楠木は林の中を見回していく。当てはない。ただ、頭の中で見えないものが自分の足を動かしていた。雨上がりの林の中だけあって土と木々の匂いが混ざり合い、芳香な空気が漂っている。

少し薄暗い林の中を彷徨っていく。経験によって積み重ねられた刑事の勘とやらで判断しているのかもしれない。自分の奥にある知らないものが何なのか。それは確かにあるような気がした。

 息を切らす楠木は走る速度を緩めてくるりと見回す。どこを見ても木、木、木。べったりと灰色の粘土を塗りたくったような樹皮が、死者の顔に見えてくる。生に焦がれる死者が自分を恨めしく見ているような顔だ。

逃げたかった。だが、もうどこから入ったのかすら分からない。進む以外に道はない。何より、真実を知っておかなければならない気がした。そして期待する。この林の中に死体があるわけがないと。捜査員を総動員しても見つからなかった死体を、自分が見つけるはずがない。

楠木は前のめりになりながら林の中を進む。


 また雨が降り始めた。汗ばんだ頬にも小さな粒が触れる。しかし、火照った体の熱を収めるほどではない。風もなく、ムシムシとする空気が体の水分を奪っていた。

林の中は少しずつ暗くなっている。これ以上の捜索は危険だと分かるほどに。このまま帰るべきだろうが、果たして越本が帰してくれるか。

そんなことより、今の不安と疑念を抱えたまま家に帰ることが嫌だった。自分がもし、宮橋和徳であり、人を殺したことのある人間だったら、家族と同じ幸せを共有してはいけないんじゃないか。そうじゃなかったとしても、自分に疑念を持っている状態で、家族と同じご飯を食べて、笑っていていいのか。

締めつけた胸の奥から込み上げるように涙が零れていく。わずかな希望も滲んで見えなくなりそうだ。

自分の前から消えていく。血で塗られ、真っ赤になって消えてしまう。それを奪うのは呪いだ。越本薫の身勝手な逆恨みが自分に振りかかっているだけだ。自分のためにも、この真実は確かめなくてはならなかった。


楠木の足が止まった。他の木より明らかに黒い。周りに生えている木々はその黒い木を避けるように大きく離れている。根っこは地中に潜りたそうに太く盛り上がっている。楠木の顔から血の気が引いていく。


 目を見開いた楠木は小走りでその木に駆け寄る。木の根元でしゃがみ込み、土の中に手を突っ込んで掻き出していく。濡れた土が手についても、スーツが汚れても気にしない。恐怖に満ちた顔で一心不乱に土を掘り返す。掘り返した土は飛び散り、体に当たって落ちていく。土が爪の中に食い込み、痛みを生じさせる。爪の痛みなど些細なことだった。

なぜ自分がこんなにも恐怖を感じているのか。知らない記憶の断片が動画のように頭の中を流れていく。かすれた声を出しながら土を掻く手をやめない。

この記憶が呪いであってほしかった。救われたいがために、呪いに頼る者がいるだろうか。知らない記憶が入ってくる度に、今まで大切に保存していた記憶が引き裂かれていく。壊れ、粉々になって、掴もうとしても、土のように指の間をすり抜けてしまう。それでも、失いたくなかった。救われることを望み、ひび割れた幻実から抜け出すのだ。

 指の先が初めて硬い物に触れた。楠木の手が止まる。触覚は想像を掻き立てた。目でしっかりと見つめる。焦げ茶色の穴から白が見えた。震えた息を吐き、小さな丸い穴をゆっくり広げていく。

白の表面に空洞があった。白い物の一部にくり抜かれたような穴がある。顔半分。肉のない頭蓋骨が土の中でぽっかりと口を開けている。一瞬思考が止まったが、持ち直す。楠木は邪魔な土を両手で掬い上げて乱暴に放る。

これが越本たちの誰かとも限らない。別の遺体の可能性もある。それだけを求め、呪われた埋蔵金を探すように土を掻きわける。

土の棺となった穴から上半身が露わになった。白骨化した遺体は、群青色のパーカーを着ていた。最初に観た動画で越本が着ていた物だ。

楠木は冴えわたる感覚に突き動かされ、別の場所を掘り進める。ここだと思った地面から骨が次々と出てくる。


 林の中にほとんど光がなくなってきた頃、楠木は手を止め、立ち上がった。

楠木はあんぐりと口を開けて、目の前に並ぶ遺骨を呆然と見つめる。計6人の遺骨。数も同じ。若者らしい服は血と土の色に汚れている。

楠木は越本の遺骨の前に崩れ落ちる。微かに聞こえる声。楽しそうだ。"トモ"と呼ぶ越本の笑った顔が自分の頭に投げかける。みんなの顔が鮮明に浮かんでくる。

安西美織、山口春陽、三嶌璃菜、火野翔馬、白川琴葉、越本薫。みんな、友達だった。不安と無力感を共に分かち合い、それでも前に進んで未来を掴もうとしていた。なのに、自分だけ未来を掴んでしまった。最後の最後に、友達を犠牲にしてでも自分だけが生き残りたいと思っていたんだ。30年前の、あの山荘で。

そして、1人生き残った宮橋は、友達を忘れる呪いをかけた。そうしなければ、生きることができなかった。これで、やっと解ける……。


楠木はふふっと失笑する。笑いは止まらなくなる。不気味な笑いが頬を引き上げる。皺の刻まれた顔が歪む。

楠木の手がゆっくりとスーツの内側に入る。土だらけの手は銃を引き出して上げていく。ふわりと上がった銃は丸い口を楠木のこめかみに向ける。笑った楠木の顔は原形を留めないほど変わってしまい、もはや誰かも判別できない。目から落ちる涙は引き上がった口角を通り、顎に落ちていく。楠木の心にもう家族はいない。罪に濡れ、血に濡れ、涙に濡れる。こんな自分に一時の幸せをくれた家族に別れを呟き、引き金を引いた。

不自然な笑い声が微かに聞こえていた林の中で、咆哮が鳴った。



 地面に倒れた楠木は生気のない目を開けて、途方もない闇を見つめる。その瞳に映る足。地面をしっかり踏む足はこめかみに穴の開いた楠木の前で止まっていた。山口春陽、三嶌璃菜、白川琴葉、火野翔馬、安西美織、越本薫の霊は、楠木の遺体を囲んで見下ろしていた。

雨はやみ、雲が晴れ渡っていく。月が雲間から差し、微かな光を放って越本たちに降り注ぐ。月明かりに照らされると、越本たちはどこかへ消えていく。

呪縛の終わりを告げるように、優しい風が林の中を通り抜けた。

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