抜け出せない夢

 翌朝、悪夢から目覚めた。

階段から突き落とされる夢を見たことがあるか?

そんなことを顔も知らない人にアンケートを取ったところで結果は見えている。悩まされることにも慣れた体をのそりと起こす。

早弥子は既に起きているようだ。閉まったカーテンを開け、朝日を呼び込む。澄んだ色をした街並みの景色。今日の空の色はすっきりとはいかないらしい。流れる雲の速さが不安を煽る。

朝から気分が滅入るものをわざわざ見る必要もない。楠木はまだ重さの残る瞼を携えて部屋を出た。


 早弥子と娘を玄関で見送り、家で1人となった。休日のいつもの自分なら、テレビの前でチャンネルを回してだらだらと過ごしているに違いない。

だが、そんな悠長なことをしているわけにもいかない。死が目前に迫っているのだ。しかし、何から始めていいやら分からなくなってしまった。

昨晩のカレーの匂いが残る部屋のテーブルの上には2人の痕がある。悲観が頭の中で巡りそうになる。

楠木は洋服部屋に入り、寝間着から外行きの服に着替える。洋服部屋の箪笥の上にある家の鍵を持ち、逃げるように部屋を出た。


 まだ肌寒い朝の9時。ラッシュアワーの峠を終えた道は休息に入っている。穏やかな時の中に降り注ぐ光は時折雲に遮られ、一瞬にして景色を変える。楠木は右の空に顔を向ける。ぶ厚い雲に姿を隠した太陽はわずかに形を見せる。変わらない。昨晩の異様な月について、誰も騒ぐ人はいなかった。

テレビはいつものようにお騒がせの人々にスポットライトを当て、右往左往する迷子の子羊の品評会を開いているだけだった。月蝕の話題などどこにもない。自分だけがおかしなことに巻き込まれ、取り残されている。

自分の見ている人は本当に現実にいる人たちなのだろうか。道でばったり出くわし、挨拶がてら世間話に花を咲かせる近所の老人たちもお洒落な服に身を包み、イヤホンを付けて携帯を見ながら歩く若い女性も、何もかもが幻影なんてことがあるのかもしれない。今の自分なら、そんなものしか見えないと思えてくる。

当てもなく、ただただ道を歩いていく。本当は目的があった。そのために有給を取っていたが、何をするべきか分からない。島川彩希の親族に会おうかと思ったが、100年以上前の人のことなど知っているとは思えない。遠くの親戚になればなるほど、ただの親戚という答えが待っているだろう。無駄足が分かっているのにどこにいるのかも分からない親戚探しに時間をかけるのも馬鹿みたいだ。


 歩き続けて30分くらいが経ち、楠木の目に見えてきたのは河川敷だった。橋の下に広がる緑は綺麗に整えられている。

ぽつんと立っている木の下で寝ている人や、牙のある口を開けて、縦横無尽に駆けまわる黄金の毛並みを持つ大きな犬、川辺には釣りを楽しむ人たちが一様に間隔を空けて並んでいる。

楠木は道路から外れて土手に腰を下ろした。肌寒い柔らかな風が楠木の髪を揺らす。頭を働かすにはちょうどいい寒さだ。

楠木は重いため息を落とす。高橋佑助は以前からネットに日記を書いていた。おそらく、高橋佑助にはどうすることもできなかった。島川彩希が殺しに来たとしても、それが呪いの類であることに気づけるはずもない。単純に、島川彩希が亡霊となって憎い自分を殺しに来ただけだから。気づいていたとしても、どうすることもできなかっただろう。つまり、彼はそもそも呪いを解こうなんてしていなかった。ただ逃げることを考えていたのだ。

呪いであると気づけるのはあの山荘にいた学生や解体業者くらい。あの山荘で起こった事件について、今の人たちが知っているとは考えにくい。調べるとするなら、越本薫があの山荘で何をしたか。

最初からそうすれば良かった気がする。

楠木は空を見上げ、雲の隙間から差す光に目を細めた。




 スタンドライトに照らされる紙が鮮やかなオレンジ色に染まっている。和室の仕事部屋に胡坐を掻き、食い入るように文章や紙に添付された写真に目を通す。証拠品保管庫から持ち出した大学生集団失踪事件の捜査資料だ。以前利用したネットカフェでプリントアウトした。

この捜査資料の中から、越本が残した痕跡を抽出し、呪いを解くために起こした行動を見つけようとしていた。

だが、越本は言っていた。自分は呪いを解けなかったと。それはまた動画ゆめで聞けばいい。

要らないチラシの裏に、越本の痕跡が羅列されている。


井戸から引っ張る水。水に混じっていた血はほとんどが血のりであったが、微量ながら白川琴葉の血液が検出された。

越本薫の自宅から偽造缶に入った睡眠導入剤が見つかっている。山荘に来た最初の夜、夕食の飲み物に入れられた睡眠導入剤と同じ成分。

火野翔馬と山口春陽の血痕があった山荘までの一本道。動画では複数の落葉樹林が倒れ、積み重なっていたと越本は言っているが、捜査員が駆けつけた時には木々は無造作に転がっているだけだった。道に転がっていた場所には火かき棒が転がっており、そこから越本薫の指紋が見つかっている。

火かき棒を使い、てこの原理で木々をどかして、火野翔馬と山口春陽の死体をどこかへ持っていった。当時の捜査本部はそう思っているようだ。

落葉樹林の中にあった安西美織の血痕。1本の落葉樹林の先端に、血痕が発見されている。DNA鑑定の結果、安西美織の血痕に間違いないとされた。

しかし、木に塗られているだけで、木に刺さって死んでいるわけじゃないと判断。その細工をした人物が越本薫であるとも記載されている。越本が履いていたと思われる靴底の跡が、木の表面に確認されたことが決め手となったようだ。

『juncture』部屋の三嶌璃菜の血痕。部屋の隅の壁には多量の血痕が発見されている。致死量の血痕があるため、三嶌璃菜は死亡していると推測された。古い人の血もあったが、特定は不可能。今回の事件とは関係ないため、事件との関連はなしとの見解が示されている。血痕は『juncture』の窓縁、窓の外の真下の地面と外壁にもあった。

『juncture』には、至るところに越本の汗や唾液が見つかり、越本薫が遺体を運んだと断定された。


 捜査資料から越本が呪いを解こうとした痕跡は見つからなかった。当然と言えば当然だ。越本薫が動画を撮っていたのは捜査が落ち着いてから。この捜査資料は事件が発覚してすぐに現場の調査により分かったものだ。それ以後の捜査資料は紛失していた。

ここからは何も分からない。せっかく入手した動画はPCが読み込んでくれず、再生できなかった。観られない状態になっても呪いは続いている。

残る手がかりはあの山荘だ。できればあそこにはいきたくなかった。あの事件のことに首を突っ込んだために署内で問題になり、危うく犯人扱いされそうになった。それでも、霊能者富杉漣に捜査のアドバイスを求めたヤバい刑事というレッテルは貼られてしまったようだが。

あの山荘に行くことが上にバレたらクビもあり得る。だが、命が助かるならクビになってもいい。

明日、あの山荘に向かう。もしかしたら、二度と戻ってこられなくなるかもしれない。

決着が、もうすぐやってくるのだ。呪いの力が勝つか、家族を守るために生きようとする気持ちが勝つか。


暗がりの和室で沸々と闘志を燃やす楠木の後ろでは、越本薫が無表情で見下ろしていた。

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