出会い

 安穏が漂う寝室のベッドで、横になってまどろむ。楠木は上体を起こし、早弥子を見る。早弥子は静かな寝息を立てている。

楠木は固い表情でベッドから下りて、部屋を出た。

リビングへ行き、今日買ったビールをグラスに注ぐ。テーブルにはおつまみの鶏肉のささみが湯気を立てて白い皿に置かれている。


 本来、ビールは今日も仕事を頑張ったと自分を労うために飲んでいた。そして、明日も頑張るという決意も込められている。だが、最近はそういう気分になれない。

毎日が最期の晩酌かもしれないと、寂しさを感じながら喉を鳴らしている。やけ酒に近いかもしれない。せめてもの救いは、年のせいでそれほど飲めなくなっていたことだろうか。酒に対してそこまで強いわけじゃない。ビール1本で十分酔える体質だった。

体の力が抜けていくような気分のいい時間を味わえたことが、随分遠くのことに感じる。ビール2本じゃないと、酔ったという感覚がなくなっていた。

水玉模様のデザインが施された透明なグラスに入ったビールをまた口の中に入れていく。長いこと息を止め、喉に流し込んでいく。舌に感じる苦味も、炭酸の刺激も、前とは感じ方が異なっているような気がする。

周りも、自分も、変わっていく。

早弥子に気づかれているのではないだろうか。自分も変わってしまっていることに。それを疑われることが何より嫌だった。


 楠木の様子が尋常ではなかったため、早弥子は夫婦兼用で使っている洋服部屋に何度も見に来た。血にまみれた自分の姿など見てほしくはなかったが、平静を装うことしかできなかった。

顔や手などは洗面所で洗い流したが、服の中に入った血は体に張り付いたままだった。着替えを用意し、風呂へ向かった。

血の付いたスーツやコートなどを袋に詰めている。さすがに洗ってまた使う気にはなれず、捨てることを決めた。

明日ゴミに出したいが、近所のゴミ捨て場に捨てるわけにもいかない。どこか都合のいいゴミ捨て場がなかったかと考えたが、そんなことを普段考えることはない。当てがないことが分かり、とりあえず車の中に入れておくしかないとやけ気味に結論づけた。

風呂でお湯を浴びて、少しは落ち着くかと思ったが、水に溶け込んだ血が排水溝に流れていくのを見て、これは現実なんだと突きつけられた。


 夕食は喉を通らず、1人寝室に篭った。家族といるのさえ苦痛を感じるようになったのだ。苦しい姿を見せたくないのもあった。

また、自分のかけられた呪いが、家族にまで及んでしまうことを警戒していた。そうならなかったとしても、何か家族に不幸が訪れた時、それを呪いのせいにしてしまう自分が怖かった。

自分が自分でなくなってしまう。そうなった時、自分は幽世かくりよに引き込まれ、島川彩希に殺される。

だが、怯えて何もしないわけにもいかない。着実に真実へと近づいていること、それが楠木の希望だ。刑事として、夫として、親として、男として。背負い、生きながらえることが自分の使命である。そう刻み込んで、楠木はソファの背にもたれ、忍び寄る動画ゆめの中に入ることを期待して、目を瞑る。



――――――。


――――。



 凍えるような寒さを感じて目を開けた。板を繋ぎ合わせてできた壁。少しずつ覚めていく頭が、あの山荘に来たことを認識した。左には他の部屋と同じように絵画があった。だが、この絵はモノクロだった。机にピラミッドの立体模型があり、右斜め奥から光を当てられている絵。他の部屋にある絵画とは少し異質な感じがした。

右には丸い机があり、2つの木製の椅子に挟まれている。机にはチェス盤が置かれている。それを見つめ、動かす手があった。たった1人で、白と黒のチェスの駒を動かす。


「こんばんは」


肘をつき、ニヤリと微笑みかける越本薫。


「伝わってきましたよ。僕に会いたいって」


楠木は床に手をついて、ベッドサイドの側面から背中を離した。


「ああ、この呪いを解くには、お前に会うしかないからな」


越本は体の正面を楠木に向け、足を組む。


「では、早速話の続きをしましょうか。

僕ら、越本薫、安西美織、宮橋和徳、白川琴葉で高橋佑助の亡霊の導くままに2階へ行きました。高橋佑助は何度も姿を消しては現れ、僕らを誘導していったんです。そして、2階のある部屋に入っていったのです。部屋の名前には、『sensibility』と印字されていました。

そこは安西が泊まっていた部屋でした。

ドアを開け、電気をつけると、ピラミッドの模型が机に置かれた絵画が飾ってあり、チェス盤が丸机の上に置かれていました。そう、僕らのいる、この部屋です」


『sensibility』の壁は全て山荘内部に入り込んでいるため、構造上窓がない。そのせいか、他の部屋と比べて空気が悪く、カビ臭さをほのかに感じる。


「僕らは部屋の中を見回してみましたが、おかしなところはないように見えました。書庫のように別の部屋に通ずる扉でもあるのかと思いましたが、それらしき物もありません。

すると、高橋がぼんやりと現れ、すぐ側にあるベッドを指差したんです。僕らに危害を加えるような仕草はありませんでした。でも、霊の側に行きたいとは思えず、僕らはその場に留まっていました。

少し待っていると、高橋は消えていきました。僕らはベッドの周辺を探していきました。ベッドの下に空いた隙間には何もありません。ベッドの側にあるサイドテーブルの引き出しは空でした。

僕らは20分ほど探しましたが、呪いを解くための手がかりらしきものはどこにもありません。困り果てていると、白川が見つけてくれました。ベッドの敷き布団の下に、数冊の茶色の手帳があったのです。開いてみると、スケジュールの欄がびっしりと埋まっていました。

元号は平成。日記に書かれていた字とも似ていました。年が進んでいく度に、書き込まれていることが少なくなっていました。書き込まれている内容のほとんどが仕事関係です。2008年頃から余白が目立ち始めていました。元家主の日記に書かれていた、島川との関係がこじれている時期と重なります。

メモのページにも仕事の連絡事項などの記載が見られました。手帳の裏表紙の内側には、ラバー素材の小さな紙などを挟める部分がありました。そこに、1枚の紙があったんです。

ノートの切れ端を手で千切った雑な物に書かれていました。走り書きのため、全ての文字を解読するのは難しかった。その手帳のページをめくっていた白川が、何かのサイトじゃないかと呟いたんです」


 トンッという物音が聞こえた。また小さな音。越本が背にしている壁の奥から聞こえる。越本は後ろを一度見たが、すぐに楠木に視線を戻す。隣の部屋に誰かいるのか。見えない何かが迫ってくる予感に気を揉んでしまう。

越本は机の下に置かれた鞄からまたあの炭酸飲料を取り出し、口に含んだ。今まで鞄があることに気づかなかった。というより、あんなところに鞄などあっただろうか。楠木は考え込むが、夢の中の出来事を真剣に考えている自分が馬鹿らしくなった。口を離すと、炭酸の弾ける音がささやかに鳴る。

物音は2回鳴っただけで聞こえてこなくなった。越本は薄く笑いながら楠木に細めた目で投げかけると、ペットボトルを持った手を伸ばす。


「飲みますか?」


「いや、結構だ」


「顔色が良くないし、何か飲んでおいた方がいいんじゃないですか?」


「それより、早く話を進めてくれ」


越本は残った炭酸飲料を飲み干し、床にペットボトルをほうった。


「メモには数字もありました。そして、IDとpasswordの文字が見えました。それが元家主のアカウントにログインするためのキーだと、白川は推測したんです。ですが、それがどんなサイトにログインするためのキーなのか、誰にも分かりませんでした。僕らは手帳にサイトに関するヒントがないか探して見ることにしました。年数の経ち具合が見て取れるような黄ばんだ紙をゆっくりめくっていきます。

たくさん書かれた予定の中、2006年5月9日の枠に、プライベートであろう予定が書かれていました。

『19:30 シロマンジャロさんとオフ』

"オフ"というのは、オフ会のことじゃないかと、宮橋は言いました。つまり、シロマンジャロさんとはネットで知り合った人であると、宮橋は言いたかったようです。

すると、高橋佑助はSNSのようなネットを利用していたということになります。もし、シロマンジャロが島川彩希だとしたら、知り合ったきっかけは日記の書けるSNSということでしょう。

高橋佑助は日記を書いてました。僕はなぜノートに書いていたのか気になっていたんです。僕は勝手に、高橋佑助はネットに縁のない人物なんだろうと思っていました。ネット利用者なら、日記を書けるサイトを選ぶ。では、なぜわざわざノートに手書きで書いていたんでしょうか。

高橋佑助は、普段から日記を書き記していたんです。島川彩希が利用していたサイトに。

おそらく、2人はそのサイトで知り合ったんでしょう。どちらから声をかけたかは知りませんが、2人は仲良くなり、リアルで会うようになった。その関係は、ネット友達から、恋する仲にまでなったんです」


 突然、壁をおもいっきり叩く音が聞こえてきた。大きな物音に2人して視線を向けた。鈍い音を貫通して伝えた壁は何ともなってない。目を凝らして見ても、穏和な木製の壁でしかない。越本と共に様子を窺っていると、女性の悲鳴が壁の奥から聞こえてくる。

楠木は反射的に立ち上がり、身構えた。このままでは2人とも危ない気がした。越本にどうすればいいのか問いかけようとしたが、楠木の声は止まってしまう。

越本は目を見開き、固まっていた。顔が強張り、今にも発狂しそうなほど唇が震えている。これほど動揺した越本薫を見るのは久しぶりだった。越本が恐れることがこれから起こるということだろうかと推測するも、ここでそれを考えたところで自分の命を守れるわけじゃないと思い直し、「どうする?」と声をかけた。

越本は不安そうな目を楠木に向けた。唾を呑み込み、静かになった部屋の空気に声を零す。


「ここは出ましょう。案内します」


そう言って、越本は椅子から下り、ドアに向かった。楠木はスーツの胸の辺りに触れる。拳銃がある。聞いている間、いつもとは違う感触があったが、なんとなく収まり具合のある違和感から拳銃があるんじゃないかと思ってはいた。

だが、仕事でも拳銃を携行することなんて滅多にない。楠木は不安を覚えながら越本のあとをついて行く。

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