30年

 また寝静まった夜がやってきた。習慣となっていた晩酌もする気になれず、早弥子に「今日はいい」と伝えた。早弥子は楠木の異変に驚きは見せたが、「たまにはいいかもね」とコーヒーを入れてくれた。


早弥子もとこにつき、楠木は 1人で眠気と闘う。リビングのソファに座ってシリアスな再放送のドラマを流し見している。

今日はできれば寝たくなかった。またあの動画ゆめを見てしまう気がしたのだ。あんなのをわざわざ夢で見たくはなかった。深層まで侵食してきている状況では、既に自分が幽世かくりよに引き込まれているんじゃないかと疑わざるを得ない。このまま起きていたいと思う反面、明日の仕事に差し支えるのも嫌だった。

今日は小さなミスを何度もやってしまっていた。今は憔悴しているからと上司や同僚も気遣ってくれているが、いつまでも優しくしてくれるほど、社会は甘くできていない。これ以上足を引っ張れば、療養という名目で降格させられてしまう。未来が着実に閉ざされていくような実感を覚える。


落ちる瞼を一度閉じ、力いっぱい見開く。しかし、否が応でも眠気は迫ってくる。

あの動画は本当に呪いを解くヒントがあるのだろうか。なかったとしたら、ただ死期が来るのを待つだけだ。

楠木は今の状況の打破すべく考えを巡らせる。


 彼らはなぜ島川彩希の霊に殺されたんだろうか。あの山荘に踏み入れたから? 島川の怒りに触れ、次々に殺された。彼らもまた、呪いを受けていた……。


油断した隙に、楠木の瞼が閉じられた。ゆっくり深みに落ち、思考は無へといざなわれる。




――――――。




 ぼやけた意識の中、体を包み込む熱を感じた。目を開けると、燃え盛る火が焼き付く。横たわった楠木の手は編み込みのカーペットの上に乗っていた。楠木の目に見える自分の手が、カーペットの優しい質感を受け取った。

自宅ではない。両手で床を突き、上体を浮かせて顔を上げる。見覚えのあるカウンター付きのキッチンと大きな観葉植物。まさしくあの山荘のリビングだった。


「お目覚めですか?」


反射的に向けた視線の先には、赤いソファに腰掛けてほくそ笑む越本がいた。


「またお前か」


楠木はだるさを感じる体を起こし、カーペットの上に座る。楠木の服はまたしても仕事着に変わっていた。


「汚い言い草ですね。ま、心も汚いあなたにはお似合ですが」


「黙れ!」


「黙れと言われても、あなたが自分でここから出られることはありませんよ? こうやって出会えたのも、何かの縁です。ちょっとくらい楽しみましょうよ」


越本は片手を前に出す。


「どうぞ。入れておきました」


越本が差したローテーブルには、マグカップに入ったコーヒーが置かれていた。


「好きでしたよね。ブラックのコーヒー」


 とてつもない違和感に言葉を詰まらせる。全身が一気に覚めていくような感覚が這い上がってくる。


「お前は、俺を知ってるのか?」


不敵に笑う越本は口元を隠し、真っ直ぐ楠木を捉える。


「ええ、知ってますよ。ね」


楠木は睨んでいた。だが、それは強がりでしかない。打ち震える体の芯を無意識に隠していた。


「それじゃ、話を続けましょうか」


 越本はソファに横たわっていた500mlのペットボトルを取り、蓋を開ける。それは30年前に売っていた炭酸飲料だった。今は廃れ、まったく見なくなった好きなドリンク。

口元を拭い、潤った口が呪われた物語を話し出す。


「僕らはワイン蔵にあった缶詰から適当に選んで 1階へ戻り、晩御飯をとることにしました。缶詰だけの食事が、これからも続くんじゃないだろうか。女の霊に怯えながら、山荘で過ごすことしかできない。

味わって食べられる余裕もなく、空になった 4つの缶詰がローテーブルに残りました」


 越本は蓋を閉めたペットボトルを膝の上に寝かせる。楠木は越本の話そっちのけでまだペットボトルを見ていた。

どこにでも売っていた炭酸飲料だったと思う。だがそれは昔の話だ。だとしたら、今この山荘は30年前の山荘だということだろうか。

楠木は次々と湧いてくる疑問を口で転がすように熟考する。


「僕らは食べ終えた後もリビングに留まりました。

宮橋は何の前触れもなく、『風呂に入らなくて大丈夫か』とか、冷え込んでくる夜を見越して、『何か毛布でも持って来ようか』とみんなに明るく振る舞ってきたんです。僕らは一様に優しく断りました。何か食べたことで落ち着いたのかもしれませんが、無理をしているのはきっとみんな気づいていたと思います。

こんな時によく平然とそんなことが言えるなとは思っていました。でも、宮橋の気遣いを無下にすることもできませんでした。そうやって振る舞ってくれる人がいるだけで、また希望を持てる気がしたからです」


楠木は越本を洞察するように見据える。


 越本薫には協力者がいた。そう考えれば、自分がブラックコーヒーが好きなことや30年前によく飲んでいたことも説明できる。

蓮口の自宅まで調べる者が未来郵便にいるか、外部の者。おそらく探偵や記者くらいの調査能力を有しているに違いない。事件が起こった年に蓮口亮太は産まれていなかった。まだ蓮口亮太ですらないのに、蓮口が警察になることを予期して30年間ずっと調査していたなんてことがあるわけがない。

時が来て、動画を観ている者を何かしらの方法で探り当てた。そう。富杉蓮が使った霊視のように。


「僕は『少しくらいお前も休め』と告げました。宮橋だけが頑張られると、自分の立場もないですから。

宮橋は苦笑いを浮かべて同調しました。安西美織は『今夜はもう寝ましょう』と疲れた声で投げかけました。

まだたった1泊しただけです。長い一日でした。一日のうちに3人もの友人が本当に死んだんです。あなたにも、分かるでしょ? 僕の痛みが」


楠木は唾を呑み込む。


「お前がやったんだろ」


 越本は鼻で笑った。


「言っておきますけど、僕は何もしてませんよ。全ては、島川彩希による呪いです」


「俺たちを苦しめると断言した」


「ええ、苦しめるとは言いましたけど、殺すとまでは言ってません。僕はあなた方警察の苦しむ顔が見たかった。それだけです」


冷たい視線と怒りに震えた視線が交錯する。先に逸らした越本は、暖炉に近づく。


「生きたまま苦しめる。そうすれば、生きた人間の苦悶の表情を拝むことができます。人形となった人間の苦しんだ表情なんて、たかが知れてます」


越本は暖炉の傍らにある火かき棒で燃やされている薪を崩していく。


 越本が発した言葉はとてもじゃないが薄情な印象としか捉えられない。しかし、凄惨せいさんな現場を目の当たりにした人なら……。

例えば、人の生と死がいつもそこにあるような状況だったら、人がどんどん物に見えていく。火を燃やすためだけに使われる薪のように、人を使うことができる。

今目の前にいる越本には人の心がなかったとしても、30年前の越本はまだ人の心があったはずだ。自分の精神を必死で保ち、仲間を支えようとした。だが、それが叶うことはなく、復讐のために動画を撮り続けた。山荘から抜け出した後、それが越本の生きる原動力だったのかもしれない。


「僕と宮橋は安西に同意しました。白川は疲れてソファで寝ていました。

宮橋は『薪を持ってくるよ』と言い出したんです。安西はあの薄暗いワイン蔵へ 1人で戻るのは危険だと止めました」


 越本は暖炉の火が小さくなったのを見て、火かき棒を壁に立てかけ、立ったまま赤い火を見つめる。


「暖炉の火も消えており、外は吹雪を匂わすほどの雪でした。ソファの背もたれに掛けられたそれぞれの防寒具を着ればなんてことはないと思いますが、『もし何かあったら大声で助けを呼ぶ』と言って、僕に信頼の眼差しを向けてきたんです。

僕は深く頷きました。宮橋は安心したようで、通路の奥へ消えていきました。

安易にした約束でした。いざそうなった時、僕は宮橋の下に駆けつけられるかと問われたら、僕はできなかったかもしれません。友人と言えど、僕だって助かりたかった。霊が近くにいるかもしれない場所に、わざわざ行きたくはありませんから」


「宮橋は死んだ?」


すると、越本は振り返り、鋭い視線で楠木を見下ろした。愚者を見るような視線を不意に投げられ、楠木は身構えてしまう。

越本はため息を零し、首を横に振った。


「霊でもすぐに人を殺したりしませんよ。一応、以前は人だったんですから」


越本はソファへ歩き出す。楠木は体の緊張を解く。越本はソファに座り、片脚を折り立て座面に乗せる。片腕をソファの背もたれの上に置き、放漫な態度で楠木を見定めた。

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