第8話 とっておきの場所

 人気の感じられない校舎の中にある、閑静な図書室の、更にその奥。密室然とした事務室で。クリプトビオシス処理されたバクテリアの一種を光源とするバイオ照明に照らされて、壁際に積み上げられた夥しい数の書物と、怪しげな真っ黒い箱と、それを見つめる二人の少女の姿がある。


「その機械でここにある本をデータ化して、それからどうするんですか」

 汐里しおりは机の上の機械から床に積まれた本へ、それから稚佳子ちかこに、順繰りに視線を移して問う。

「VR技術を使って仮想空間上にこの図書室を再現するのよ」

「VR技術? ……仮想空間?」

 思いがけない答えを聞いて、汐里は訝しげな声を出した。


 そういえば、いつかの授業で習った覚えがある。

 バーチャルリアリティと呼ばれるそれは、何十年か前に一度流行したものの、結局は大衆に広まることなく廃れてしまった技術のはずだ。

 とは言え、技術自体が完全になくなってしまったわけではなくて、現在では一部の研究者やクリエイターがそれぞれの分野で専門的な用途に使っているという。


「――それを使ってどんなことができるんです?」

 具体的な利用法までは覚えていなかった汐里が訊ねると、稚佳子は教科書のテキストを読み上げるように答えた。

「専用のデバイスを使うことで、データで構成された仮想空間上にあるオブジェクトを見たり触れたり、五感による、現実と遜色のない疑似体験ができるの」

「つまりこの図書室のコピーのようなものを作るということですか。……それが図書委員のお仕事なんですか」

「正確にはその一部だったのだけれどね。というのも、それこそ二十年近く前、まだこの図書室に生徒の姿が絶えなかった頃から片手間にコツコツと続けられてきた計画なのよ」

「そんなに前から……」

「今でこそこのスキャナーを使えば簡単に済む作業も、当時はずっと大変だったの。

それに量が量でしょ? ここ数年で作業効率が大幅に上がって、やっと終わりが見えてきたところなのよ」

「そんな大変な作業を、ずっと図書委員の生徒だけでやっていたんですか」

「ええ。というのも本来は、生徒達が自主的に始めた〝おままごと〟のようなものだったの」

「〝おままごと〟?」

 稚佳子の言葉が意味するところを測りかね、汐里は首を傾げて聞く。

「その当時、つまり世の中から紙媒体が少しずつ淘汰され始めた頃には、ここよりもっとずっと大きな〝図書館〟と呼ばれる施設が世界中にまだ沢山あったの。それらの中には、近い将来に存続の危機に立たされることを予期して、してあるがままの姿を後世に残すという手段を取るものがあったの。きっとそれを見て真似たのよ」


 遠い昔に思いを馳せるような顔で言った後、稚佳子は冗談めかした口調で、

「今となってはもう、発案者もわからない。けれど、その人がと知ったらきっと驚くのじゃないかしら」


「それなら――。そんな、誰が始めたかもわからないような〝おままごと〟なんて、稚佳子さんが一人になってまで続けることないじゃないですか……!」

 汐里はかつて稚佳子に見せたことのない剣幕で詰め寄った。

 その無責任な誰かのせいで、目の前の上級生が一人で苦労する羽目になっているのだとしたら、そんなの間違っていると思う。

 そして、

 その自分でもよくわからない感情の矛先は、遠い昔の名前も知らない誰かより、むしろその無責任さを受け入れている目の前の上級生にこそ向けられていた。


 汐里のでたらめな感情すらも受け止めるような笑みを浮かべて、稚佳子は言う。

「――そうね。でも事情が変わってしまったのよ」


「それは図書委員会がなくなるという話と、関係があるんですか」

 ほとんどその確信を持って汐里が聞くと、稚佳子は少し意外そうな顔をした。

「図書委員会が今年度いっぱいで廃止されるって、今日ここに来る前に宮田みやた先生から聞いたんです」

「そう――」

 汐里が稚佳子の反応を窺って黙ったままでいると、

 稚佳子は乱れた黒髪を指で梳くようにして軽く整えてから、不意に汐里の方に顔を向けて言った。

「この学院に新しい校舎を建てるという話を、汐里さんも聞いたことがあるのではないかしら?」


 稚佳子に問われ、汐里は今日の昼休みに明瀬あかせから聞いた話を思い出した。

「けれど、それと一体何の関係が」と訝し気な頷きを返してから、ハッと気づく。

 篠宮さんも他人ごとではないかもしれないよ、という明瀬の言葉。

 あの意味深な一言が意味していたのは、もしかすると――、


 汐里が何かを悟ったことに気づいたらしい稚佳子が、答え合わせをするようにゆっくりと言った。

「気づいたかしら? ――そう、

「じゃあこの図書室も……」

「――ええ。そして新しい校舎にはもう図書室は造られない」

「そんな――」

「早ければ、今度の春休みには工事を始めるらしいわ。来年度からはもう、図書委員会が存在する理由も、その必要もなくなるというわけ。そして、皮肉にもそれを後押ししたのが、この図書室の仮想化計画の存在なのよ。完全なデータ複製が残せるのなら、場所を取るだけで誰も使わないはいらないってね」

稚佳子は自嘲的な笑みを浮かべてそう言ってから、

「取り壊しをする前に、業者に頼んでこの図書室自体もデータ化する手はずになっているわ」と付け足すように言った。


「稚佳子さんはそれで良いんですか?」

 話を聞き終えて、汐里は噛みつくような声を出した。

「もう決まってしまったことなのよ」

「でも、それなら尚のこと、そんな作業やめちゃえばいいじゃないですか」

「わたしがやらなくても、誰かが代わりにやるだけよ。それにこれは、わたしが一人でやらせて欲しいと無理を言ってお願いしたことなの」

 そこで一度口を噤むと、

 稚佳子はまるで自分に言い聞かせるような口調で言葉を継いだ。

「だって、思い出のあるこの場所を誰かの手で終わらせられるくらいなら、自分の手で終わらせた方が良いもの。――汐里さんはそうは思わない?」


「どうしてそんなに……」

 あなたは頑ななんですか、と続くはずだった言葉は、喉の奥につっかえたように上手く出てきてくれなかった。

 代わりに悲痛な訴えが口をついて出る。

「思い出って――、そうまでさせるほどの何があったって言うんですか。そのわけを、わたしに教えてくださいよ……!」


 汐里の気持ちが通じたのかはわからないが、稚佳子は思いつめたような表情をフッと緩めてからポツリと言った。

「――どうしてかしら。あなたのことを見ていると懐かしい気分になるの。きっとその真っ直ぐな目が誰かに似ているせいだわ」

「稚佳子さん……?」

 すると、稚佳子は打って変わって明るい声を出した。

「ねえ、汐里さん。少し外を歩かない?」

「外、ですか」

 汐里が僅かに躊躇いを見せると、稚佳子はすぐにそれを見抜いたらしく、悪戯な笑みを浮かべて言う。

「それとも、何か不都合があるのかしら――?」

 

 あるかないかでいえば、もちろんだ。

 何しろ、このままいくとまた上履きで外を歩く羽目になる。

 あちらの校舎に戻るには必然的にそうしなければいけないとしても、それはそれとして、稚佳子と並んで歩くのに自分だけ上履きというのは勘弁願いたい。

 だって、さすがに間抜けすぎるし、そんな間抜けな人間は稚佳子と到底釣り合わないと思うのだ。

 

 外履きの靴が手元にないことを正直に言うべきか少し悩んでから、結局、汐里は今日もまた裸足のままでいるその理由わけを稚佳子に説明した。

 

「なるほど、今度はそういうわけだったの」

 汐里の短い話を聞き終えるなり、稚佳子はさも可笑しそうに「ふふふ」と可愛らしく声をひそめて笑った。

「もう、そんなに笑わなくたっていいじゃないですか。だから、できれば言いたくなかったんです」

 汐里がそっぽを向いて拗ねた声を出すと、稚佳子は両手を合わせて軽く頭を下げるようにして言った。

「ごめんなさい。笑ったりして悪かったわ。お詫びに〝良いもの〟を貸してあげる」




「どう、汐里さん。きつかったり、大きすぎたりはしない?」

「ええと――、大丈夫……、みたいです」

 汐里はその場で軽く足踏みをしてから、すぐ傍でその足元を覗き込むようにしている稚佳子に頷いて見せた。

「それは良かった。サイズは大体同じぐらいだと思ったのよ」

 そう言って、稚佳子は満足そうな笑みを浮かべる。 

 あの後、ほとんど有無を言わさず汐里を昇降口まで連れて来た稚佳子が、彼女の下駄箱から取り出して見せたのは学院指定の白い運動靴だった。

「ほら、履いてみて」と促され、にわかに鼓動が早まるのを感じながら目の前に置かれた靴に足を通したのがついさっきのこと。


「特に問題がないようなら、参りましょうか。ね、汐里さん」

 汐里が「ええ」と頷きを返すと稚佳子が先に立って歩き始めた。

 遅れないように汐里も歩き出し、稚佳子に続いて昇降口を出る。

 

 上を見れば、

 両側から覆いかぶさるような梢の間に、わずかに夕焼けの気配を滲ませた空。

 そこに干渉縞みたいな模様の雲が薄く広がっていて、そのフィルターを通した分だけ柔らかくなった陽の光が汐里の目に届く。

 歩きながら、今度は足元に目を落とす。

 稚佳子の私物と思しき運動靴は、少し使い込まれているものの汚れた様子はなく、その穢れない純白に、身の回りの物を大事に使う彼女の人柄が現れているようだ。

 そして、初めて足を通したはずのそれは、何故か履き慣れた自分のものよりもずっと足に馴染んでしっくりくる気がする。

 

 それにしても――、

「この靴、いつもここに置いているんですか?」

 汐里が一歩先を行く稚佳子の背中に問い掛けると、

「運動部でもないのに、不思議かしら? ――最近はご無沙汰だけれど、以前はその靴を履いて、たびたび森へ散歩をしに行っていたのよ」

 稚佳子は歩く速度を緩めずにそう答えた。

 彼女の足元には今は普通の革靴が、やはり綺麗に磨かれており、その踵が時々木漏れ日をきらりと反射する。

「その森ってこの校舎の裏にある……」

 汐里が再び訊ねると、今度は足を止め、身体を半分振り返らせて稚佳子は言った。

「ええ、すぐそこの森よ。しばらく奥へ進んだ先にね、とっておきの場所があるの。実は、これからそこに行ってみようと思っていたのだけれど、どうかしら?」


 とっておきの場所――。

 それがどんな場所なのかはわからない。

 だけど、稚佳子がそう言うのだからきっと素晴らしい場所なのだろう。

 それに、稚佳子と一緒ならどんな場所だって輝いて見えるに違いない。

 

 それなら、わたしは、と汐里は思う。

 図書室の中だけじゃなく、もっと色々な場所を稚佳子さんと共有したい――。

 

汐里は一歩足を踏み出して稚佳子の隣に立つと、その右手を稚佳子の左手にちょこんと触れさせて言った。


「連れて行ってください。稚佳子さんのとっておきの場所に」

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