2話 出会い

 長い船旅を終え、僕達は赤茶けた街に到着した。


 ヴェルトラオム島――口を開けた雛をひっくり返したような形状の島の南部に位置するこの港は、多く「ヴァーゲ交易港」と呼ばれていた。


 島を成す六つの国の一つ、ヴァーゲ王国に属する巨大な港。赤褐色の港は国の中、加えてヴェルトラオム島においても重要な交易拠点となっている。


 島から輸出される品物や人はもちろんのこと、海の先に広がる大陸の品や旅人、商人が必ずと言ってもよいほど通りたがる港である。


 噂には聞いていたが、訪れるのは初めてだった。


「ね、ね、カーン。しばらく探索しようよ。すぐに出発しないで。ねえ、いいでしょ?」


 そう言って僕はカーンの服を引く。


 次なる目的地へ向かう船を探していた彼は、困ったような表情を浮かべる。そうかと思えば僕の首元に手を伸ばして、取り払っていた頭巾をすっぽりと、僕の頭に被せた。


 この土地は、海に面していながら乾燥していた。喉に入り込む空気はざらつき、口の奥に張り付く。はっきり言って不快だった。


 その原因は、どうやら視認できる範囲にあるらしい。内陸に向けて緩い勾配を描く街、その奥に見える背骨のごとき山脈に、荒れた暗雲が掛かっていたのだ。


 山の先には、砂漠が広がっている。僕でも足を踏み入れたことがない、酷烈の大地。水もなく、植物もなく、生物すら稀なその土地に高い雲が渦巻いていた。


「あれは……砂嵐ってやつ?」


 呟くと、カーン――なぜか赤茶けた街によく似合う彼は一つ頷くと、赤い瞳を砂塵に向けた。その表情は、宿敵を見つけでもしたかのように厳しい。


「リオ様。砂漠地帯は私も未知数です。天候が悪化する前にここを出ましょう」


「分かってる、分かってる! もうちょっとだけ!」


 僕は渋る相棒を連れて、敷かれた煉瓦の上を歩く。数日もの間を船に揺られていた所為か、足取りは覚束ない。絶え間ない地震に苛まれているかのようだ。


 情報の通り、ヴァーゲ交易港には多くの物や人が集まっていた。しかし夜も近付く夕刻ゆえか、殆どの露店が店仕舞いを始めている。賑わいも無に等しい。辺りには疲労と陰鬱とした空気ばかりが漂っていた。


 そのような中でも、唯一活気を見せていたのは酒場と宿屋、そして怪しげな店くらいだった。


 一日の鬱憤を晴らし、一時の快楽に浸り、明日の英気を養う。その光景もまた趣があると言えるのだが、やはり僕の望むものではなかった。


「今日は身体を休めて、明日出直しましょう」


 カーンの提案を、僕は素直に受け入れざるを得なかった。


 もぬけの殻となった露店道を通り、比較的治安のよさそうな宿屋を探していると、ふと、僕の視界に一つの店が飛び込んできた。


 他露店と比べると、かなり遅れた撤収作業の最中にある、小さな露店だった。地面に敷いた褪せた絨毯、その上に並ぶ品々を、使い込まれた鞄に詰めている。骨董を主に扱う店であるらしい。


 店の主は、遠目に眺める僕になど目もくれず、黙々と作業を続けている。彼の手が店の端の追いやられていた本に触れた時、僕の中にビビビと衝撃が走った。


「お兄さん、お兄さん。それ、ちょっと見せて!」


 駆け寄った僕を、怪訝そうに男性は見遣る。


 咄嗟に「お兄さん」と呼んでしまったが、然程若くはないようだった。小麦色の肌には、苦労を語る皺が走っていた。


「何だ、坊や。こんなのに興味があるのか?」


 その人は不審がる様子を見せながらも、僕に本を渡してくれる。


 それは古い本だった。図書館や市場で手にする本よりも、一回りも二回りも大きい。その表装は剥がれ、木の板が剥き出しになっている。


 間に挟む羊皮紙も、随分と年季が入っていた。長い間、数多の手を渡って来たのか角は丸くなり、焦げたような跡すら見て取れる。


 カーンに手伝ってもらいながら、はらりと柔らかい紙をめくる。


 文書の保存状態は、予想と打って変わって良好だった。薄茶色の紙の端々に小さな欠損が見られるものの、読解に支障をきたす程ではない。紙面を飾る文字や挿絵も、まるで新品のように鮮やかである。


「リオ様、これは――」


 囁くカーンに僕は頷く。そして、すぐに男の方を向いた。


「これ、どこで手に入れたの?」


「どこって……ばあさんから譲り受けたんだよ。保存しておいたはいいが、読めないからって」


「そう」


 僕は本を閉じる。そしてちらりと、頭上の目を窺った。


 長く共に過ごしてきた相棒は、それだけで僕の意図を読み取ったのだろう。彼は肩を揺らすと、


「仕方ないですね」


「やった――お兄さん、これ、買うよ! いくら?」


 その言葉は予想外だったのだろう。男性は目を丸めていた。


「物好きもいたモンだな。そうだな、銀貨六枚でどうだ」


「そっ――」


 そんなに安くていいの。出掛かった言葉を飲み込んで、僕は何度も頷く。


 隣から浅黒い手が伸びてきて、提示された金額を支払った。受け取った店主は硬貨の枚数を指差し確認し、ニッと口角を上げた。


「ありがとうよ。にしても、よかったよ。荷物だったんだ」


「どのくらい前から、これを扱ってたの?」


「だいたい一年かな。ほら、見の通りでかいだろ? それに読めねぇし、買い手が付かねぇのなんのって。……そいつに興味があんのか?」


 足を組み替え、男は口の端を持ち上げる。その瞳には、好奇心にも似た色が映っていた。


「うん。これがどういう経緯で人間界ここまでやって来たのかも、興味ある」


「それなら元の持ち主、紹介しようか?」


 その申し出を断る程、僕は無関心ではなかった。紹介してくれると言うのだ、それに甘えない手はない。


 僕は精一杯の熱意を以って、首を振った。


   □   □


 店を片付けた男に案内されたのは、暗い路地だった。痩せて干からびかけた人々の集まる路地。繁栄していた港周辺とは、まるで正反対の光景である。


 背中を刺す警戒の気配。それは相棒のものか、それとも身を寄せ合う人々の物か。僕は目を逸らし続けた。


「さ、着いたぞ」


 そう言って男は戸を叩く。隙間風をなくすためか、扉にはたくさんの板が打ち付けられていた。少しでも乱暴に扱ったら壊れてしまいそうだ。


 返事を待つことなく、男はそれを押し開ける。ギギ、と鈍い音が静寂を裂いた。


「ばあさん、客」


 短く言って、彼は家の中に入る。


 戸をくぐった瞬間に甘い香りが鼻腔を擽った。香でも焚いているのだろうか、微かに白ばむ空気には、食事のそれとは異なる、どこか人工的な匂いが混ざっている。


 そのような空気に満たされた部屋には、所狭しと物々が置かれていた。壁際の棚には本やビン、宝石が並び、机には調合器具の数々――どれも古びてはいるが、埃一つ被ってはいない。呪術に精通した者の家のようだ。


「あら、お客さん?」


 そう振り返ったのは、年老いた女性だった。丸椅子に腰を掛け、布に向き合うその女性は、口元に手を当てると、上品に笑った。


「ごめんなさいねぇ、すぐに終わりますから」


 雑然とした部屋にはまるで似つかわしくない、優雅とした仕草だった。纏う服も、どこか小ざっぱりとしている。


 あれが男性の言っていた「ばあさん」だろうか。


 遠目に順番を待っていると、女性の前に積み上がる布が、突然もぞりと動いた。それだけではない。やけにゆっくりとした動きでそれが伸び、小瓶を女性へと渡す。明らかに意志を持って、その布の山は動いていた。


「いつもありがとうねぇ、ベッカーさん。助かってます、本当に」


 深々と頭を下げて、女性は腰を持ち上げる。布山より受け取った小瓶を大事そうに抱えながら、彼女は家を出て行った。


「あの人、また薬を取りに来たのか」


「お客さんのこと、あーだこーだ言うのは駄目だよ」


 男を諫めるのは、爽やかな声だった。


 ごちゃごちゃとした部屋の奥、垂れ下がった布の間から女性が顔を出していた。僕達を案内してくれた男性と、どこか似た気配を持つ彼女は、前掛けを手で揉みながらこちらに近付いて来る。


 黒であったろう髪は退色の兆しを見ていた。よくよく見ると、数本の白髪すら混ざっている。その所為で随分と年月を経たかのように見えるが、実年齢は男性と同じくらいであろう。


「いらっしゃいませ。――お兄ちゃん、この人達は?」


「あの本を買ったお客さんだ」


「まあ、あれを?」


 女性は目を丸める。その顔には驚きと同時に、どこか嬉しそうな色さえ見て取れた。


「やっと引き取り手が見つかったのね! よかった。――私、お茶を淹れてくるから、お兄ちゃんは机の準備よろしくね」


「はいはい」


 億劫そうに応じる男だったが、その手付きは随分と慣れたものだった。


 机に積み上がった本を片付け、散らばる瓶や紙、筆記具を木箱の中へ詰めていく。日頃より骨董を扱うためか、彼の物一つ一つに対する触れ方は柔らかく繊細だった。


「そういえば、『おばあさん』は?」


 我慢できず、黙々と働く男に尋ねる。


 これまで二人程の女性をこの家では目にしたが、どれも男の言う「ばあさん」には該当しないようだった。かと言って、他に誰かがいるという訳でもない。


 唯一怪しい場所といえば、先程去った老女が向かっていた布の山だったが、その中身は未だ隠されたままだった。


 不審に思いつつ部屋中に視線を配っていると、ふと声が聞こえてきた。


「ここですよ」


 しわがれた声が笑い、山が動く。件の布山から顔を出したのは老婆だった。幾重にも布を被り、その下に白い髪をちらつかせる。


 呆気にとられる僕を余所目に、それは「ホホホ」と肩を揺らした。


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