マインドネーション

 亜里沙ちゃんは幼稚園年長の女の子です。

 普段から食が細く、とても痩せていました。風邪をひきやすく、幼稚園はしょっちゅう休んでいました。

 おとなしくて素直な子供でしたが、同じ年頃の子どもと比べると元気が無く、いつも一人で絵本を見たり、お絵かきをしていましたが、それもあまり楽しそうではありませんでした。

 赤ちゃんのころから、あまり笑わず、両親や周りの人は亜里沙ちゃんがご機嫌な様子を見たことがありませんでした。

 あまりに体が弱く、しゃべることも少ないので、両親は心配して病院へ連れて行きました。


 検査の後、お医者さんは言いました。

「元気が無いのも、食欲が少ないのも、生きる気力が弱いためです。亜里沙ちゃんの脳には喜びや幸福を感じとる物質が極端に少ないので、生命を持続させるエネルギーが不足していると考えられます」

 両親は驚いて、そして質問しました。

「では、これからはどうすれば…」

「今はマインドバンクという機関があります。登録しているドナーから、元気を分け

 てもらう事ができますよ。意欲や気力のような心のエネルギーを移植してもらえるのです。外科の大掛かりな手術は必要ありません。ドナーとのコーディネートを申し込んでみませんか」

 先生のすすめに、両親は

「ぜひ、お願いします」

 そう言って頭を下げました。

 亜里沙ちゃんにぴったりのドナーが見つかるまで、そう時間はかかりませんでした。



 純子さんはプロダンサー志望の女性です。

 アルバイトをしながらオーディションに挑戦する日々を送っていました。

 有名なミュージカル劇団の正式団員を目指していたのですが、毎年オーディションに落ち続け、年齢、体力にも限界を感じていました。でも、どうしても夢を捨てきれずに悩んでいました。

 ある日、アルバイトの帰り道、駅前でチラシを配っている人たちに出会いました。道行く人に大きな声で、こう呼び掛けています。


「マインドバンクに登録をお願いしまーす」

「どうか、生きるエネルギーを分けてあげて下さーい」

 何だろう?と思ってもらったチラシを見ると、かつての有名な男性アスリートの写真が印刷されています。

「この人、ずいぶん前にオリンピックで金メダルをとった選手…」

 チラシには彼の写真とこんなキャッチコピーがありました。

「輝くあなたの生きるエネルギーを、必要としている人に少し分けてあげませんか?」


 もともと生きる気力が弱く、病気になりやすい体質の子供への心の移植を呼びかけるキャンペーンでした。

 何か生きがいを持って生きている人のエネルギーを、ほんの少しでいいので分けてほしい、チラシにはそう書いてありました。

 金メダリストの男性は、ドナー登録をした後、移植を行ったとも書いてあります。

 裏面には他にも登録をしているという著名なミュージシャンや建築家、料理研究家や新聞記者、そして一般の会社員などさまざまな人のコメントが記載されてありました。どの人の言葉も思いやりに満ちたものでした。


 ミュージシャンの男性はこんなコメントを寄せていました。

「僕たちの音楽に元気をもらった、と言ってくれる人もいます。

 そして、僕自身は音楽によって元気をチャージすることができます。

 しかし世の中には音楽のエネルギーを感じること事体、困難な人もいるのです。

 何かに感動することは生きる上で絶対に必要不可欠だと思います。

 たとえオリンピックでアスリートの活躍を目の当たりにしても、

 美しい花や風景を見ても、美味しい物を食べても、かわいい動物に触れても、

 それらによって心を動かす力そのものが不足している人がいる、その事を知った 

 時、僕は非常にショックを受けました。 

 そのような方に、移植という方法で直接元気を注入する事ができるようになった

 現代社会において、自分はこれからは何をすべきなのか考え、ドナーになることを

 決意しました」


 移植の説明をよく読むと、スポーツでも芸術でも、エネルギーの種類はとくに決まった制限は無く、何か心の支えになるものを持っている人は、体も健康であれば誰でも登録できるようです。

 ただし、ドナーとして検査を通過するには、移植をしても自らまたエネルギーを作り出すことができる強い精神力が必要です。登録をした人は、いつか自分が誰かに移植する日の事を考え、自分なりに心のコントロールをしているようです。

 そして、ドナーのエネルギーの要素がそのまま患者へ移植されるのではなく、基本的な生きる意欲が形を変えて移される、とも書いてあります。

「ふうん、ダンスをやっている私が誰かに移植をしたからといって、その子がいきなりダンスを始めるわけではないのね」

 その時純子さんはふと思いました。


 自分はダンスを生きる支えにしてきた。辛くてもダンスがあるから生きて来られた。しかし今自分はダンスを続けるかどうか迷っている。

 そう、どうしてもプロのダンサーになりたい、という気持ちがあるから苦しいのだ。

 ダンスで食べていけるようになりたい、自分はそれにこだわっているのだ。自分の力の限界は分かっているのに、それでもどうしても夢を捨てきれない。

もうひたすら夢にしがみついて、それがないと自分の人生は意味が無い、そこまで思い詰めている。

 そう、私は夢に執着しているのだ。


 そして純子さんはこうも思いました。

 でもこのエネルギーのおかげで自分は今日まで生きて来られた。ダンスへの熱い想いが自分を支えてくれていた。

 辛いこと、苦しいこと、悔しかったこと、その全部が、「ダンスを一生懸命やってきた自分」を表しているんだ。

 それなら、自分を支えてくれたこのあふれるエネルギーを誰かのために役立てることができたら…

 未来ある子供たちのために、何かお手伝いができるなら…


 純子さんはその場でマインドバンクのドナー登録をしました。

 少しでも生きる元気の少ない子供たちの役に立つことができるなら、自分のダンスへの燃えるような情熱を、移植という形で一度シェアしよう、なぜか自然とそんな気持ちになったのです。



 純子さんは亜里沙ちゃんのドナーとして適合だと認められました。そしていよいよ移植が行われることになりました。

 規則により、お互いの素性が明かされることはありません。亜里沙ちゃんと純子さんはそれぞれ別々の処置室で大きなカプセルに入りました。

 純子さんの脳からエネルギーを抽出し、それを亜里沙ちゃんの脳へ移植します。

装置が音を立てて作動し始めると、純子さんの目からはほんの少し涙が流れました。



 処置から数日後、亜里沙ちゃんは少しずつ、両親と会話ができるようになりました。まだ食事をたくさん摂ることはできませんが、以前より顔色は断然良くなっていました。

 退院の日、担当のお医者さんや看護師さんから花束をもらった時、亜里沙ちゃんは

にっこりと笑いました。それを見た両親は号泣しました。



 純子さんは移植の後、ダンス教室の講師の職を得ました。プロのダンサーへの夢にはこだわらなくなりましたが、ダンスを愛する気持ちにはさほど変化はありませんでした。

 今ではたくさんの生徒を指導し、忙しい日々を送っています。



 孤独な高齢者、うつを患っている人、もともと幸福感が少ない人、幼少期の虐待等のトラウマを抱えている人など、ドナーを探している人は後を絶ちません。

 有り余る情熱やエネルギーを持ちながら、自分の持っている執着に気づいていて、実はそれを解放したいという人は多いのですが、心のドナーとして登録する人はまだまだ少ないのです。

 また、ドナー登録をしても患者との適合が難しく、今回のような例は非常に珍しいケースでした。


 どうか一人でも多くの人が生きる意欲を持って生活できるよう、あなたもドナー登録をしてみませんか?

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