早良親王の怨霊

早良親王の遺言

 乙訓寺に着いた天皇は出迎えの兵士をかき分けて、早良親王の寝所に入った。

 部屋の中央に早良が仰向けになって横たえられていた。首から流れ出た血で衣が真っ赤に染まっている。床には赤黒い血だまりができていた。

 急に外が暗くなったと思ったら、大きな音を立てて、にわか雨が降り出した。

「早良は殺されたのか!」

 天皇の大声に、清麻呂が立て膝になって答える。

「乙訓寺は三十人の兵で警護していて、賊も怪しい人間は出入りできません。兵の話でも変わったことはなかったそうです」

「殺されたのでないとしたらなぜ死んだのだ」

「早良親王様は、自らの首に刃を立てられました。私が部屋の中に入ったときには、すでに亡くなっていました」

「早良は自刃したというのか。種継の暗殺に係わったことを認めたというのか」

「寺の者の話によりますと、親王様は、乙訓寺に来たときから、寝食もとらず、種継殿や竹良たち処刑された者のために読経されていたようです。やつれていくのが手に取るように分かり、心配した僧が知らせを出そうとしていた矢先のことでした」

「竹良たちのために読経するとは、やはり早良が首謀者だったのか」

「違います。残された遺書によりますと、早良親王様は、遷都に反対し、種継殿を殺そうとした大伴や佐伯を、大伴家持様と一緒に押さえていたようです」

「早良が種継暗殺を押しとどめていたというのか?」

「左様です。家持様が亡くなり大伴一族の箍が外れて、一部の者が暴走したようです。遺書には、天皇様と種継殿に申し訳ないと書いてあります」

 桓武天皇は、清麻呂が差し出した遺書を奪うようにして受け取った。遺書には見慣れた早良親王の文字が並んでいる。

――種継兄さんには物心がついてからずっとかわいがってもらっていた。年が離れているからか、兄様と同い年のせいか、実の兄のように思っている。子供の頃に、大和郷の小川で魚捕りを教えてもらったことや、鷹狩りに連れて行ってもらったことは、今思い出しても楽しい。東大寺へ入ってからもたびたび訪ねてきてくれて、修行にくじけそうになっていた自分を励ましてくれた。種継兄さんがいなければ、寺を抜け出していたかもしれない。

 仲麻呂卿との戦は怖かったけれども、種継兄さんはいつも自分を守ってくれていた。戦が終わった後に、敵だった者も手厚く葬るという、皆の感情に反する提案に、種継兄さんは真っ先に賛同してくれてとてもうれしかった。宇佐八幡神託事件や道鏡禅師の即位阻止では、一緒に働くことができ、国を立て直す力になれたと思っている。

 種継兄さんが進言した遷都について初めは反対した。今でも、寺社の移築は許すべきだと思っているけれども、国を変えてゆくという、兄様の決断に従いたいと考えている。ただ、当初反対を唱えたために、遷都に反対する者たちが自分の元に集まるようになってしまった。

 中には自分を旗頭にして、兄様を退位させようという過激な者もいた。兄様に相談すれば良かったが、世話になっている人を密告するようで気が引け、春宮大夫とうぐうたいふ(春宮坊長官)である大伴家持卿と内密に事を収めようとしていた。家持卿は大伴や佐伯一族の動きを押さえてくれていたが、卿が死ぬと重しがなくなり、血気盛んな者が勝手に動くようになった。

 九月二十二日に種継兄さんを襲うという話が伝わってきたので、五百枝王や紀白麻呂ら穏健な者を使って止めさせようと手を打っていたが間に合わなかった。

 種継兄さんが殺された責任は自分にある。内々に解決しようとせず、兄様に報告していれば良かった。川の流れが遡らないように、種継兄さんは生き返らない。悔やんでも悔やみきれない。

 種継兄さんを殺した者が許されるはずはないし、兄様の怒りも理解できるが、犯人たちを朝議に諮らず、即決で斬首にしてしまうことはやり過ぎた。

 人の命は何よりも重いものであれば、たとえ天皇であっても一存で処分を決めてはいけない。聖徳太子も『事はひとさだむべからず。必ず衆とともにあげつらううべし』と訓戒を垂れている。人の命を奪うという大事であれば、きちんと調べを行い、朝議に諮るべきだ。怒りにまかせて人を処断するのは、いつもの兄様ではない。種継兄さんが殺されたことで、我をなくして復讐の鬼になっている。多くの人を殺しても種継兄さんは戻ってこないし、長岡の都は完成しない。もうこれ以上人を殺さないでほしい。

 自分が世話になった多くの者について、自分の命と引き替えに減刑をお願いしたい。自分を暗殺の首謀者として処分し、騒動を収めてください。

 自分はあの世へ行って種継兄さんに謝ってきます。あの世から兄様の政と長岡の都を見守りたい。

 兄様には都を早く完成させて日本を聖徳太子が理想とした国に作り直してほしい。――

 目の前が白くなり、気がつくと清麻呂に支えられていた。足腰から力が抜けしゃがみ込む。

 清麻呂は頭を下げた。

「五百枝王殿や紀白麻呂殿の話からも、早良親王様が事件を防ごうとしていたことが明らかになってきました」

「なぜ、取り調べ結果を報告しない!」

 桓武天皇の怒り声に、清麻呂は頭を床に打ち付けた。

「本日、文書にまとめた上で報告する予定でした。遅れたこと、誠に申し訳ありません。いかようにも罰して下さい」

「種継に続いて早良まで失ってしまった……」

 自分は種継が殺されたことで頭に血が上り、周りが見えなくなっていたのだ。早良は自らの命で自分を諫めてくれた。自分が怒鳴り散らしている間中、早良は自身を責め、種継の冥福を祈ってくれていた。自分の行いが早良を追い詰めてしまったのだ。

 全身から力が抜けてゆく感覚は何なのだ。涙で早良の体が見えない。種継と早良は自分の分身だった。かけがえのない者を失ってしまった。もう一度三人で大和郷を駆け回りたい。

 激しい雨の音と一緒に湿気が入ってきた。

 いつの間にか横に座っていた明信が、流れ出た涙を拭いてくれた。

「早良は一人で対処しようとせず、自分に打ち明けてくれれば良かったのだ」

「家持様たちのことを天皇様に報告すれば、形の上では、早良親王様が家持様たちを裏切って密奏したことになります。親王様は東大寺時代に世話になった人が処罰されるのが忍びがたかったのでしょう」

 せめて一言でも良いから、自分に悩みを打ち明けて欲しかった。決して悪いようにはしなかったのに。話してくれれば、種継も早良も死なずにすんだ……。

 死んだ人間はもう戻らない。悔やんでも悔やみきれない。涙を流すくらいなら、もっと話をするべきだった。

 桓武天皇の頬を伝って涙が床に落ちてゆく。

「朕は早良と種継というかけがえのない者をなくしてしまった」

「早良親王様を死に至らしめたのは私の責任です。私を処分して下さい。早良親王様の警護を万全にし、五百枝王殿の話をすぐに奏上すべきでした」

 早良まで失った悲しみをどうすれば良いのか。

 早良の最期の願いを叶えてやらなければならない。早良の命を無駄にしてはならない。

「早良を種継暗殺の首謀者と発表し、淡路島に流してくれ」

「親王様は暗殺を防ごうとしていらっしゃいました。親王様に罪はありません」

 天皇は明信に支えられながら立ち上がった。

「早良は自身の命に代えて関係者の減刑を求めている。敵でさえ丁寧に葬った早良らしい優しさだ。朕は一時の激情に駆られて竹良たちを殺してしまった。早良が死ななければ、朕は仲麻呂卿と同じように、多くの人間を殺すことになったであろう。早良は、自らの死をもって人を殺すことの罪深さを教え、これ以上人死にを出すなと、朕に諭してくれたのだ」

 死んだ人間も、過ぎ去った時間も帰ってくることはない。だが、もう一度種継と早良に会いたい。会ってゆっくりと話をしたい。二人は死んではいけなかったのだ。

「早良親王様はすでに亡くなっておいでです」

「遺体を淡路島に流してくれ、五百枝王や他に関係した者は罪一等を減じ流罪にせよ。早良の最期の願いを叶えてやってくれ」

 清麻呂は「承知しました」と頭を下げた。

 桓武天皇は明信に支えられながら、ふらふらとした足取りで縁側の端に立ち、雨の向こうに見える長岡宮を見上げた。

 自分が早良を追い込んで殺してしまったのだ。もう、早良に会うことができない……。

 桓武天皇の顔を雨が濡らした。

 桓武天皇は早良親王の処分を最後に、種継暗殺事件の処理を終えた。

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