第六章 種継暗殺

井上皇后の怨霊

井上皇后の怨霊

 宝亀九年(七七八年)の秋口に光仁天皇が病に伏し、十二月には山部親王も大病を患った。二人共に高熱が引かず寝込んだままの状態が続き、食が細くなって命が危ぶまれるようになってきた。天皇と皇太子の病気に、諸行事は中止となり、歌舞音曲も禁止され、宮中は火が消えたように静かな年末を迎えた。

 雪交じりの冷たい雨が都の人々の心をいっそう暗くし、平城京や近隣の寺院では、二人の平癒を祈願する読経が何度も行われていた。

 山部親王は床に横たわったまま目を開けた。

 外は曇っているのか部屋の中は薄暗い。ひょっとしたら、薄暗いのは夕方だからかも知れない。寝込んだままの日を過ごしていると時間の感覚が分からなくなる。看病のために部屋に詰めてくれている明信はいないらしい。自分が寝たので明信は食事か休むために出ていったのだろう。

 熱で頭はボッとして、額には汗がにじんでいる。こめかみの奥がずきずきと痛むし、体の節々も痛く、寒いのか熱いのか分からない。唾を飲み込むと喉が焼けるように痛い。病状は良くなっていないらしい。自分はこのまま死んでしまうのだろうか。

 明信はいないはずなのに、人の気配がする。

 寝たまま気配のほうに首を向けると、大人と子供が正座していた。明信の子供は大人になったし、乙牟漏おとむろには病がうつるといけないから部屋に来るなと言ってあるから、乙牟漏と息子の安殿あてではないはずだ。

 二人の姿は墨絵のように白黒の濃淡があるだけで色がない。輪郭も曖昧で色が薄いところは背後の壁が透けて見える。両手を膝に乗せていることは分かるが、顔や衣の細部ははっきりしない。

「誰だ」

 二人は答えてくれない。

 右手に力を入れると、簡単に上体を起こすことができた。病で寝込んでいたと思えないほどに体が軽い。

 目を擦ると部屋の隅までくっきりと見えるようになったが、二人の姿だけは霧の中の岩影のようにはっきりとしない。大きな影は髪が床まで伸びているから女だろう。小さな影は女の子供に違いない。

「名乗れ」

 二人の影は正座を崩すことなく、凍った池の上を石が滑るようにゆっくりと近づいてきた。

 近づくに従って、輪郭がしっかりしてくる。二人とも庶民の服ではなく貴族の服を着ている。目と口を閉じ、血の気のない白い顔に紫色の唇をしている。

 部屋が暗くなってゆき、二人の姿だけが闇の中に浮かび上がった。

「井上皇后と他戸おさべか。二人は食あたりで死んだはずだが、何故に自分の寝床にいる」

 井上皇后は目を開いた。

 瞳は灰色に曇っていて、とても生きているとは思われない。背中を悪寒が走り全身の毛が逆立った。

「何が言いたいことがあるのか。誣告した自分のことを怨んであの世から迷い出てきたのか」

 井上皇后が口を開くと、口は耳のところまで裂け広がり、両手を広げると宙に浮いた。衣の袖がひらひらと揺れる。皇后に続いて他戸親王も両手を広げて宙に浮いた。二人は暗い部屋の中をぐるぐると飛び回り始めた。

 皇后の高笑いが頭の中に直接響いてくる。手や足を動かそうと思っても、縄で縛られたように全く動かすことができない。

「怨霊退散! 宮中は亡者が出て良い場所ではない」

 井上皇后が口から稲妻を吐きだすと、閃光で部屋の中が明るくなり、大きな音が山部親王の体を揺らした。他戸親王が広げた衣から雨を降らせると、みるみるうちに部屋の中が水浸しになってゆく。山部親王の寝間着も布団もぐっしょりと濡れた。

 宙を舞っていた井上皇后が、山部親王の正面に浮かんで止まった。

 闇の中で目が妖しく光っている。頭には二本の角、真っ青な顔、唇は血のように赤い。

 井上皇后は頭を下げて角を向けると、山部親王目がけて飛んできた。

 山部親王は両腕を顔の前で交差させて大声を上げた。

 自分の上げた叫び声で、目が覚めると、いつもの天井が見えてきた。

「大丈夫ですか」

 寝たまま首を傾けると、明信が心配そうな顔で覗き込んでいた。

 真っ暗なはずの部屋は明るい。顔や背中、腕、腹や両足は冷や汗でぐっしょりと濡れているが、水浸しになったはずの部屋も布団も乾いている。

「うなされていましたが、大丈夫でしょうか」

 明信は山部親王の額の汗を拭いながら訪ねてきた。

「井上皇后と他戸親王が寝室に現れた」

 明信は首をかしげる。

「部屋にはずっと私しかいませんでしたが」

 部屋には自分を看病している明信しかいない? 夢を見ていたのだろうか。

 夢にしては現実感がありすぎた。確かに井上皇后と他戸が来たはずだ。二人は紛れもなく怨霊になっていた。二人のことは気の毒に思っている。二人を誣告したというやましい気持ちが、怨霊の夢を見させたのだろうか。それとも……。

「種継たちを呼んできてくれ」

 山部親王に命じられた明信は種継、早良親王、和気清麻呂を連れて戻ってきた。四人は山部親王の横に並んで座った。

「井上皇后と他戸親王の怨霊が部屋に現れて自分を襲ってきた。二人は食あたりで亡くなったと聞いているが本当か」

「お二人は食べたものに当たって亡くなられました」

 種継は頭を下げて山部親王と顔を合わせないように答えた。普段のはっきりとした声とは違って弱々しい。

「井上皇后と他戸親王は本当に食あたりで死んだのか」

「食あたりでした」

「何を食べて死んだのか」

 種継は下を向いて黙った。

「食あたりで死んだというのならば、何故に二人は怨霊となって自分の部屋に現れたのか」

 種継は黙ったまま、握りしめた拳を振るわせた。

「種継! 本当のことを話せ」

 山部親王の強い言葉に、種継は両手をついて頭を下げる。

「井上皇后様、他戸親王様は食あたりで死んだと公表されていますが、実は、俺が殺しました」

 種継が二人を殺していた。噂は本当だった。

 無実の罪を着せられた上に殺されたのでは化けて出るはずだ。二人は自分が種継に殺せと命じたのだと思ったのだろう。何でも自分に打ち明けてくれる種継が、自分に相談することなく独断で、人を殺すという恐ろしいことをしたのか?

「種継はなぜ二人を殺したのだ」

「大和国に流された井上皇后様が朝廷に不満を持つ者に声をかけて密会を始めた。謀議が謀反に変わる前に処理したかった」

「なぜ自分や天皇様に知らせなかった」

「気づいたときには、皇后様の元に出入りする人間は多く、藤原一門の中にも皇后様のところへ通っていた者が何人もいた。奏上すれば天皇様の命として、謀議の全貌を解明せねばならず、朝廷は橘卿の変のように混乱するだろう。謀議の首謀者を殺せば禍根ははくなるし、関係した者たちの警告になると考え、俺の一存で動いた」

「種継は他戸まで殺したのか」

「俺は井上皇后様だけを殺すつもりで出かけたが、他戸親王は皇后様から離れることがなかったので、しかたなく二人の朝餉に毒を盛った」

「なぜ他戸まで殺した。他戸は子供で行動力はないし、自分よりも二十五も下だから敵になり得ない」

「血筋を旗頭にする者にとって他戸親王は都合がよい。井上皇后様を中心とした陰謀がどのくらい進行しているかは分からなかったが、悪い芽を摘んでおきたかった」

「自分には打ち明けて欲しかった」

「将来の天皇の手を血で穢すことはできない。汚れ仕事は俺が被ろうと思った」

「種継は謀反を防いだと言うが、二人にしてみれば、誣告によって皇籍を剥奪された上にやってもいない謀反の罪で殺されたことになる。怨霊となって出てくるのは当たり前だ」

「実は、天皇様と山部親王が大病で苦しんでいるのも、宿奈麻呂すくなまろの伯父さんや百川ももかわの伯父さんが高熱を出して死んだのも、春から雨が降らず井戸や川が涸れて都の民が苦労しているのも、すべて二人の怨霊のせいかもしれないと悩んでいた」

「どういうことだ」

 種継の代わりに清麻呂が答える。

「春から朝廷に不幸が続きますので陰陽師に占わせたところ、祟りであると出ました。調伏の祈祷や読経を行わせましたが、祟りの主が分からないので効き目は出ていませんでしたが、種継殿の告白ですべて納得できました」

「俺を殺して井上皇后様の怒りを静めてくれ。このままでは天皇様や山部親王が呪い殺されてしまう」

 井上皇后は気性が激しかったから、怨霊を鎮めるためには種継を処分……。殺さなければならないだろう。しかし、種継は自分の幼なじみで唯一無二の友人だ。種継に励まされたり助けてもらったりしたことは一度や二度ではない。種継を殺すことなどできない。

 種継を殺さなければ、公卿や都の民が怨霊の犠牲になってゆく。自分は国家や民のために動かねばならない。小の虫を殺して大の虫を生かさねばならないのか。

「自分が東大寺の僧を何人か連れて供養してくるよ」

 早良親王が顔を上げて言ってくれた。

「種継兄さんは兄さんのためを思って動いてくれた。今度は自分が動く番だ。仏教は鎮護国家のためにある。いまこそ寺で学んだことを役立て、井上皇后様や他戸親王の怨霊を慰めてくるよ」

 早良が言うように、井上皇后と他戸を手厚く葬ってやれば怒りはおさまるかも知れない。

「早良は大和へ行って、二人の墓を陵墓に改葬してやってくれ。永代の墓守一戸もつけてくれ」

「俺の処分は? 井上皇后様の怨霊を鎮めるため俺を処分してくれ。少なくとも天皇様の裁可を得ずに人を殺した罪はある」

 どうしても、種継を処分しなければならないのか……。

 清麻呂と目があった。

「山部親王様に申し上げます。井上皇后様と他戸親王様は食あたりで亡くなったのです。種継殿を処分する必要はありません」

「清麻呂は何を言い出すのか。種継自身が殺したと言っているではないか。現に怨霊として自分の前に現れ、都に祟りをなしている」

「すでに、井上皇后様と他戸親王様の死は食あたりということで片が付いています。皇后様の死について蒸し返す必要はありません。もし、種継殿を罰すれば、井上皇后様の謀議を暴くことになり、橘卿の変の時のように都に一騒動起きます。井上皇后様と密会していた者たちは、二人が同日に亡くなったことに、種継殿の意を察して沈黙しています。都の人々は、井上皇后様の気性と不遇を知っていますので、食あたり死んで怨霊になったとしても不思議に思いません」

「兄さん、自分からも種継兄さんを罰しないようお願いします。怨霊は必ず自分が調伏してみせるから」

「清麻呂の理屈も早良の思いも嬉しいが、俺を罰しなければ二人は成仏できず祟りをなす。山部親王に罰せられるのならば恨みに思わなくて済むから、ひと思いにやってくれ」

 清麻呂の言うことは道理が通らないと思うが、種継を救うことはできる。自分には種継を処刑することなどできない。

「清麻呂と早良の言葉に従い種継の行いはここだけの話に留めよう。種継は自分のことを思って動いてくれたから、井上皇后や他戸は自分が殺したも同然だ。祟りは自分が引き受ける。種継は二度と一人で動いてくれるな。」

 種継は両手をついて頭を下げ、早良は華厳経を唱え始めた。明信と清麻呂は早良に倣って両手を合わせて目を閉じる。

 山部親王は早良が唱える経を聞きながら横になった。

 井上皇后、他戸親王の墓が改築された頃に、光仁天皇と山部親王は病から回復し、井上や他戸の怨霊は現れなくなった。

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