昇進祝い

昇進祝い

 吸い込まれるような青い空に、筋雲が浮かぶようになった。秋茜が優雅に風の中を泳ぎ、乾いた風と一緒に虫の声が部屋の中に入ってくる。傾き始めた日の光が部屋の中に差し込み、日に当たりながら目を閉じると、寝てしまいそうなくらいに気持ちが良い。

 藤原仲麻呂の乱から一ヶ月たち、秋の深まりと共に都や朝廷は落ち着きを取り戻した。もうじき新嘗祭の準備が始まる。仲麻呂一派が放逐されて、今年の新嘗祭は新しい政の始まりになる。

 藤原仲麻呂の乱に関係した者の処分と論功行賞が行われ、山部王は仲麻呂追討の功績が評価されて、无位むい(無位)から一気に従五位下に叙位された。奈良時代は、五位以上が貴族とされ、六位以下とは給与や待遇、役職などで格段の差がある。従五位下が下賜されたことで、山部王は朝廷で活躍する機会を得た。

 白壁王の屋敷に、山部王の昇進を祝うために、種継と明信、早良王が来てくれた。

 山部王が居心地が悪そうに上座に腰を下ろすと、下女が膳にいっぱいの料理を運んで来て酒を注いでくれた。酒と料理の良い香りが部屋の中に広まる。

「山部王の従五位下を祝って!」

 種継の発声で酒を飲むと、明信と早良王が拍手で祝ってくれた。

「山部王もめでたく貴族の仲間入りだ。明日からは朝廷で活躍できるな」

 二十八で叙位とはかなり出遅れたが、恨み言を言っても仕方ない。

「自分だけ叙位されて申し訳ない」

「俺も従六位上をもらうことができた」

 自分は五位に昇進できたが、一緒に戦った種継は従六位上しかもらえなかったからすまない気がする。五位と六位では季禄が十倍違う。従五位をいただくのは種継がふさわしいと思う。

 明信が寄ってきて、

「山部王さん、従五位下おめでとう」

 と笑いながら、酒を注いでくれた。

「誰かさんが、大げさに自分のことを吹聴してくれたおかげだ」

 種継は自身を指さして「誰かとは俺のことか」とおどけて見せた。

「山部王さんは、川が流れるように矢を撃って敵の守りを崩し、誰よりも早く柵を乗り越えて古城に入り、敵を倒すこと十数人、右に左に飛び回る姿は戦神か鬼神のようだったとか。仲麻呂卿は山部王さんが暴れている姿に恐れをなして湖へ逃げ出したところを討たれた。山部王さんは戦いが終わると敵味方なく丁寧に葬ったって話ね」

「種継は誇張しすぎだ。ただ自分は矢を射て太刀を振り回していただけだ。種継には危ないところを助けてもらったし、敵も丁寧に葬ろうと言い出したのは早良だ。宿奈麻呂様の推薦で官位がもらえただけだ」

「すごいじゃない。殴り倒した人に上げてもらうなんて」

 明信は楽しそうに笑う。

「殴ったことまで知られているのか」

「宿奈麻呂の伯父さんは、山部王に殴られて良かったって言っている。三尾の古城では仲麻呂卿憎さに頭に血が上って、あやうく罪もない人間を殺すところだったって反省してた」

「種継さんは嫁をもらって子供まで作ったから、こんどは山部王さんの番ね」

「子供はかわいいぞ。山部王は従五位で土地がもらえて屋敷も建てられる。嫁も来てくれるようになる。めでたいことだ」

 嫁といえば、藤原讃良……。本当なら自分の横に座っているはずだった。みんなに紹介すれば、讃良は顔を真っ赤にし、種継は自分を冷やかしたろう。讃良の笑い声は家の中を明るくしてくれるはずだった。自分と睦み合い子供が生まれて楽しく暮らすはずだった。

 讃良の他にも多くの人が死んだ。たまたま仲麻呂卿の元に派遣されていた授刀舎人、働いていた下男下女。年老いた親、夫を亡くした妻、父を亡くした子供はどのように暮らしていくのだろうか。一人が死ねば、背後にいる何人もが悲しみ暮らしに困る。贅をこらした保良宮は灰となり、多くの人の労力が消えてしまった。瀬田橋も燃やされて人々は難渋している。

 戦は何も生み出さない。だから孫子は『兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからざるなり』と教え、聖徳太子は『やわらぎを以て貴しとなし、さからうこと無きをむねとせよ』と訓戒されたのだろう。自分は戦のない世の中を創ってゆきたい。

「山部王は深刻な顔をしてないでもっと飲め」

 酒に酔って真っ赤な顔になった種継は山部王の背中を叩いてきた。

「お前は飲み過ぎだ」

「正式に東大寺の僧になります」

 早良が明信と話している声が聞こえてきた。

「早良は本当に仏門に入るのか」

「父さまの薦めもありますが、仏の道を究めてみたいと考えます。十五になったので正式に入門が許されました」

 完全に酔っている種継は「めでたいめでたい」と手を叩く。

「それでは、兄弟の前途を祝して乾杯しようではないか」

 種継はふらふらした足で、酒を注いで回った。

「山部王さんも早良も立派になって、小父様も肩の荷が下りたことでしょう」

 自分の昇進を心から喜んでくれる種継や明信の気持ちがうれしい。早良も小さな子供だと思っていたが、自分で人生を決められるようになった。仲麻呂卿がいなくなって、朝廷の風通しも良くなる。自分も頑張って仕事をして台閣に登り、聖徳太子の政を実現したい。

「騒がしいと思えば、何を暢気に酒など飲んでいる」

 冷たい声の主は、戸口に立つ井上内親王だった。鮮やかな赤色の衣は金糸、銀糸がふんだんに使ってあって一目で贅沢な作りであることが分かるが、四十半ばの女には似合わない。

「お前たちが仲麻呂卿を殺したおかげで、あの女が再びしゃしゃり出てきた」

「『あの女』とはどなたのことでしょうか」

「孝謙太上天皇のことに決まっている。阿呆には分からないかもしれない」

 美人が言うだけに、嫌みな言葉が刺さってくる。

「仲麻呂卿は孝謙を隠居させ道鏡を追放するつもりでいたのに、余計なことをしてくれた。仲麻呂卿という枷がなくなったので、孝謙は大炊天皇を追放して自らが天皇に返り咲き、大炊天皇は泣きながら宮中を追い出された」

「本当ですか? 大炊天皇様は孝謙太上天皇様が道祖王様を廃して天皇にされたのです。追放するなどということは……」

「孝謙は、大炊天皇が道鏡との仲を注意してから恨みに思っていた。仲麻呂卿の乱のどさくさにまぎれて殺すつもりだったらしいが、生き残ってしまったので追放することにしたのです。孝謙はすり寄ってくる者はかわいがるが、気に入らない者はとことん排除する卑しい本性をしている。おべっかを使う道鏡は近くに置き、言うことを聞かなくなった大炊天皇は追放するのです」

 山部王の昇進を祝う雰囲気は一気に吹き飛んだ。気がつけば日は西の山に掛かり、冷たい空気が部屋に入ってきた。

「お前たちは仲麻呂卿を殺していい気になっているかも知れないが、道鏡は仲麻呂卿よりも権力欲が強く皇位を狙っている」

「田舎氏族出身の道鏡禅師が天皇になれるわけなど……」

「お前たちは無位無冠で、大学寮や中衛府の下働きしかしていないから知る由もないが、道鏡が孝謙にへつらう姿は見ていて気持ち悪くなる。孝謙も道鏡の媚びを心地よいと思っているから始末が悪い。孝謙は道鏡の言うことなら何でも聞くようになっている」

「皇室の血が全く流れていない人が天皇になるなど」

「孝謙は、お父様から『おおきみやつこと成すとも、奴を王といふとも汝のせむまにまに』と言われたとうそぶいている。道鏡に大臣禅師という役職を与え、天皇にするための布石を打った」

 山部王たちは顔を見合わせた。

「お前たちは仲麻呂卿の専横を不快に思って殺したのだろうが、朝廷はもっとやっかいなものを抱えたのだ。漢籍を読み、律令を知っていた仲麻呂卿の方が道鏡より何倍もマシだということを知れ」

 仲麻呂卿を倒せば天下が良い方向へ進むと思っていたが、大炊天皇様が廃されて道鏡禅師が台頭するなど、上の方では何が起こっているのか。道鏡禅師は太上天皇様のお気に入りぐらいにしか思っていなかったのだが……。

 山部王が、孝謙太上天皇と道鏡の仲について聞こうとしたとき、井上内親王は振り返って出ていった。

 山部王たちは一斉に溜め息をつく。

 井上内親王様は、仲麻呂卿が道鏡禅師に代わっただけだと言う。自分は三尾まで行って死にそうな思いをしてきたのに、何も変えることができなかったというのか。讃良の死は全くの無駄に終わったのだろうか。

 天平宝字八年(七六四年)十月。孝謙太上天皇は大炊天皇を淡路島に追放し称徳天皇として重祚する。大炊天皇は、翌年「逃亡を図った」として殺された。

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