箱館防衛作戦

◇◇


 明治元年(一八六八年)四月一三日――

 

 新しい箱館の知事である清水谷公考(しみずだにきんなる)の赴任に先駆けて、副知事である寺村道成(てらむらみちなり)が五稜郭に入城した。

 なお、彼は土佐藩内での権力争いに敗れ、この頃は全ての役職を解かれて蟄居していた。史実であれば、その後彼は政治の表舞台に立つことなく、不遇の晩年を迎えることになる。

 しかし、俺、坂本龍馬が暗殺を回避したことで、俺の身柄を確保する任務を容堂から与えられた。

 これは彼が『再起』をかける千載一遇の機会であり、鼻息を荒くして奉行所の門をくぐったのは想像にかたくないだろう。

 

「出迎え御苦労であった! さっそくだが、副知事として命じる!」


 彼は、正一郎や弥太郎たちに対して、胸をそらしながら声を張り上げた。

 与太郎らはその第一声だけで、眉をひそめたが、表向きは恭順を示すように頭を下げて返事をする。

 

「はっ! なんなりと御申しつけください!」


 寺村はこの時点で既に『龍馬確保』に成功したつもりでいたのだろう。

 上機嫌になってニヤリと口角を上げると、高い声で命じたのだった。

 

「奉行所で匿われている坂本龍馬の身柄を差し出せ! かの者は『脱藩』の罪に問われておる! ついては京の容堂公のもとへ身柄を移すことにする! これは命令である! 逆らえば、新政府にたてついた反逆者として、裁判にかけることになるぞ!」


 与太郎はちらりと隣の正一郎に目を向けると、正一郎もまた与太郎の顔を横目に見てきた。

 彼らは視線を交わすと、こくりとうなずく。

 そして正一郎が大きな声で返した。

 

「副知事殿の御命令であっても、それはかないませぬ!!」


「な、なんだとぉぉぉ!? 貴様!! 俺に逆らう気か!?」


 寺村が顔を真っ赤にして怒声を正一郎に浴びせると、彼は涼しい顔をして続けた。

 

「いえ、副知事殿の命令には従う所存でございます!」


「では、なぜ坂本をこちらに渡さぬ!!」


「渡さぬ、のではございません! 『渡せぬ』のです!!」


「ええい! どっちも同じことだ!! こうなれば俺が自ら坂本をひっとらえてくれよう!! 誰か!! 坂本のもとまで案内せい!!」


 自分の思い通りにならず、活火山のように怒り心頭の寺村は、奉行所内に務める人々に声を荒げて命じたが、誰一人として従おうとしない。

 

「貴様らぁぁ!! 自分たちの命が惜しくないのか! なぜ坂本ごとき下賤の者の肩を持つ!?」


 すると奥からゆったりとした動きで姿を現したのは、箱館奉行、杉浦誠であった。

 彼はいつも通りの真面目な顔つきだ。

 しかしいつも以上に低くてどすの利いた声で言った。

 

「御一新によって、身分による貴賤はなくなるのではないかと聞いておる。しかし生き方には貴賤はあると、坂本殿はおっしゃっておった。箱館の人々のために働き、どんな者にも親しみをもって接した坂本殿を『賤しい』とおっしゃるならば、頭ごなしに命ずることしかできぬお主は、虫けら以下の存在と言えましょうな」


「な……なんだと……貴様、自分の言っている意味が分かっているのか!? 俺は『副知事』なのだぞ! 新政府の役人なのだぞ!」


 杉浦誠はつかつかと寺村の目の前までやってくると、彼の顔を冷めた表情で見つめた。

 

「な、なんだ? 言いたいことがあるなら申してみよ!」


 杉浦誠の気迫に押され気味の寺村が言うと、杉浦誠は「ならば言わせていただこう」と、小さくつぶやいた。

 そしてくわっと目を見開くと、寺村の耳元で獅子の咆哮のような声を上げたのだった。

 

「人を敬うことを知らぬ者の命令など、聞く耳など持たんというのが、なぜ分からぬかぁぁぁ!!」

「ひぃぃっ!」


 寺村は情けない悲鳴を上げると、ぺたんと尻もちをついた。

 口をぱくぱくとさせて顔を青ざめさせた彼は、腰が抜けてしまって立てないようだ。

 そんな彼の様子を無言で見下ろしていた杉浦は、くるりと振り返ると前を歩き出した。

 

「ついてきなされ。坂本殿のもとまで案内いたしましょう」


 ずかずかと先を進んでいく杉浦の背中を、寺村はただ茫然として見つめていた。

 そこに与太郎と正一郎の二人がやってくると、彼に優しく声をかけたのだった。

 

「さあ、立てますでしょうか。肩をお貸しいたしますので、共に参りましょう」


 寺村は青白い顔をしたまま、こくりとうなずくと、彼らに両肩を担がれながら杉浦の背中を追ったのだった――

 

◇◇


 箱館奉行所内の牢獄――

 

 新しい建物だと牢獄も新しいものだ。

 他の囚人とは隔離された独房で一夜を過ごしたが、思いの外快適だった。

 まあそれもそのはずだろう。

 他の囚人たちとは違って、暖かな毛布も手渡されていれば、食事も普段と全く変わらないものなのだから……。

 『独房』というよりも『個室』と称した方が正しいだろう。

 そして雫やさな子といった『火種』から少しでも離れられたので、これからすべきことを静かに考えるにはうってつけだ。

 

 そこで俺はもう一度、状況を整理することにした。

 

 最終的に回避しなくてはならないのは『箱館戦争』であることは間違いない。

 そしてそのきっかけを生むのが、榎本武揚による箱館の制圧だ。

 となると選択は二つある。

 一つは『榎本たちに味方して新政府に対抗する』。

 そしてもう一つは『榎本と敵対して箱館を制圧させない』というものだ。

 

 まずは前者だが、榎本たちが蝦夷に上陸するのが一〇月なのだから、それまでにできる限りの準備をしておく。

 そして彼らが箱館を制圧したところで、彼らに近付き、新政府を箱館から遠ざける……。

 

 残念だが『非現実的』と言わざるを得ないだろう。

 まず『新政府』と『榎本軍』では戦力差が歴然としており、たとえ俺が彼に味方をしても太刀打ちするのは不可能だ。

 それ以前に榎本武揚をはじめ、彼とともに箱館にやってくるのは、みな『旧幕府』の者たちであり、『坂本龍馬を目の仇にしている』はず。

 つまり俺の発言など聞く耳を持たないどころか、俺を見た瞬間に斬り殺すか、それとも『人質』として新政府との交渉カードに使うか、どちらかになるのが落ちだ。

 そのため、彼らとは『対話』は不可能と言わざるをえない。

 

「だめだ。どう考えても、榎本たちに箱館を制圧させてはならない」


 では、そうするにはどうしたらよいのか。

 『対話』が通じぬ相手なら、もはや『武力』によって制圧を拒むより他ない。

 だが、箱館を含む蝦夷を守っているのは、仙台藩をはじめとする東北各藩の藩士たち。

 彼らはこの後すぐに『戊辰戦争』へと向かうため、蝦夷を離れてしまうのだ。

 そして蝦夷に残るのは、松前藩のわずかな兵たちのみとなってしまう。

 圧倒的な突破力を誇る新撰組。その残党を率いる土方歳三がいれば、小栗忠順が創設した伝習隊を率いる大鳥圭介もいる。そして何よりも稀有のカリスマ性をもった総大将の榎本武揚もいるのだ。

 寡兵の松前藩の藩士だけでは、誰が率いてもかなうはずがない。

 

「となると、そもそも蝦夷へ上陸させないようにするしかないか……」


 上陸させないようにするならば、『海戦』ということになる。

 だが榎本武揚が乗ってくる『開陽丸』は、今の日本では屈指の軍艦だ。

 仮に『海援隊』が味方として駆けつけてくれたとしても、彼らを止めるのは不可能だろう……。

 

「おいおい……八方ふさがりじゃねえか……」


 何を考えても、箱館を守る手立ては思いつかない……。

 

「しょせん俺は『坂本龍馬』じゃないんだ……。彼のように世の中を変えるような力は俺にはないんだ……」


 そんな風に心の中が真っ暗闇に覆われそうになると、自然と視線が地面へと落ちていく。

 しかしその時だった――

 

――だから下を向くんじゃねえよ。


 と、勝海舟の力強い言葉が俺の胸に響いてきたのだ。

 俺は思わず顔を上げた。

 もちろん彼が箱館にいるわけはない。

 だが、それでも彼を近くに感じていた。

 小さな体に似合わぬ、大きな手で頭をごしごしと撫でられているような、暖かい気持ちになると、もう一度彼の言葉が響いてきた。

 

――どうせ一度しかねえ人生なんだ。もっと大胆に生きてみやがれってんだ。


「大胆に……」


 そうつぶやいた時、一つの考えがふわりと浮かんできた。

 それは普通に考えれば『不可能』な作戦だ。

 しかし、もはやこれしか手立ては残されていないと俺は確信めいたものを感じていた。

 

「榎本武揚と新政府をともに『味方』に引き入れる。そうすれば俺が仲立ちをして、争いを避けられるのではないか!」


 今の『坂本龍馬』は、榎本たち『旧幕府』からも『敵』であり、土佐藩を含めた『新政府』からも『敵』とみなされている可能性が高い。

 つまりこの作戦を成功させるには、両方の『敵』を『味方』にしなくてはならないのだ。

 

「へへへ……少し大胆すぎるかな? 勝先生」


 乾いた笑みを浮かべると、海舟の手が再び俺の頭をなでてくる。

 

――これ以上失うものなんてないんだからよ。てめえが信じるようにやればいいさ。

 

「ははは! そりゃそうだ! もう落ちるところまで落ちてしまったんだ! これ以上、何も失うものなんてありゃしないじゃないか!」


 目標は決まった。

 しかしそれを具体的にするにはどうしたらいいのか……。

 

 すると、一つの言葉が浮かんできた。

 

「誠心誠意……か」


 『嘘偽りのないまごころ』こそ、人の心を動かすもの。

 しかし人の言葉なんて、『嘘』がないなど伝わるはずもない。

 ましてや俺は『敵』なのだ。

 『敵』の言葉に『まごころ』を感じるなんて、おとぎ話を信じろ、と言っているようなものだろう。

 

「決して『嘘』をつかぬもので語るしかない……ということか……」


 決して『嘘』をつかぬもの……。

 この時点で俺にはたった一つしか思いつかなかった。

 

 それは……。

 

「銭……! 『銭』こそ誠心誠意の象徴だ」


 つまり『武力』や『言葉』だけではなく、『経済力』をもって交渉にあたる。

 それこそが箱館を戦火から守る唯一の道だ――

 

 そこまで考えを巡らせた時だった。

 

「坂本! 坂本はどこにいる!? 貴様を容堂公のもとへ送り返してやる!!」


 と、人を不快にさせる高い声が、牢獄全体に響き渡った。

 恐らく彼が、山内容堂から送られてきた寺村なる者だろう。

 俺はすでに牢獄におり、逃げ道はない。

 しかし、ニヤリと口角を上げると、大きな声で叫んだのだった。

 

「おおい! ここだぁぁ! 寺村殿ぉぉぉ! 助けておくれぇぇ!!」


 と――


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る