最初の火種

◇◇


 慶応四年(一八六八年)四月。箱館にもようやく遅い春がやってきた。

 街の人々はどこか浮かれ、気持ちのいい陽射しを堪能している。

 しかし、俺、坂本龍馬は春を喜んでいる場合ではなかった。

 なぜなら数々の『火種』が北へ向かってきているのを、『未来』を知る俺には分かっていたのだから……。


「おおっ! なんだ!?」


 ふと理由も分からぬ寒気に襲われると、ぶるぶると体を震わせた。

 どこかで『悪魔の瞳』と『鬼の瞳』に睨み付けられたような気配を感じたのだが、気のせいだろうか……。

 

「坂本様。もう外は桜の季節だというのに、寒さが身にしみることはないでしょう」


 与太郎が呆れたように言った。

 すると次の瞬間、俺の背中が柔らかな感触に包まれた。

 

「ふふっ。龍馬さま! 雫がこうすれば暖かいでしょ?」


 なんと雫が後ろから俺に抱きついてきたのだ。

 彼女の柔らかな胸の感触が、俺の胸を高鳴らせると、体温が急上昇した。

 

「ちょっと! 雫殿! 嫁入り前のおなごがそのようなことをしてはならん!」


 俺の『理性』がいらぬ口を滑らせると、雫は俺から離れて、しょぼんとうつむいてしまった。

 そして顔を上げると上目遣いでたずねてきた。

 

「龍馬さまは雫のことがお嫌いでしょうか?」


 ぐぬっ……。

 俺の『理性』が大きなダメージを受けたようだ。

 いいぞ! 雫殿! もう一息で俺たちは『理性』などという、うっとうしい呪縛から解かれるはずだ。

 

 そうすれば……。

 雫と俺は『美少女の両親』を目指して……。

 

 ……と、その時だった。

 

「ごっほん!!」


 と、大きな咳払いをしたのは与太郎だった。

 

「ちょっと、坂本様も雫もいい加減にしてくだされ。今は『戦争』から箱館を守るにはどうしたらよいか、考えている時でしょう!?」


「そ、そうであった。すまぬ。雫殿も、もう体が温まったゆえ、静かに座っておれ」


「はぁい……むぅぅ。与太郎のいじわる」


 雫が口を尖らせて与太郎に文句をつけたが、与太郎はすまし顔のままだ。

 俺も内心は雫と同じ気持ちであったが、『理性』の方は、若い彼に感心しているようだ。

 

「さすがは与太郎。よく分かっておるな」

「いえ、これも全て坂本様が教えてくださったからでございます!」


 俺の『理性』と与太郎が微笑み合う。

 こいつらがつるむと、今後も厄介なことになりそうだな……。

 どうにかしなくては、俺の『美少女のパパになる』という目標の障壁になりかねない。

 そんなやましい心がちらついたが、どうにか頭を切り替えて、与太郎の言う通りに『箱館戦争』に集中することにした。

 

 なお『箱館戦争』とは、その名の通りに箱館を舞台にした戦のことである。

 それは来年、つまり明治二年の四月から本格化する新政府による蝦夷攻略戦で、五月中旬には箱館が戦火に襲われてしまう。

 箱館の街の実に三分の二は焼けてしまい、死傷者は分かっているだけで千三百人以上にのぼったと言われている。

 

 あと一年……。


 俺は勝海舟からの「戻ってこい」という呼びかけに応えるつもりはない。

 世話になっている箱館の人々を、なんとしても守らねばならないと、固く決意していたからであった。

  

「でも、本当に『戦争』など起こるの? 雫には信じられません」


「雫。江戸の偉いお方が起こるとおっしゃっておられるのだ。それはまことのことに決まっているではないか。ねえ、そうですよね? 坂本様」


「あ、ああ。そうだな」


「むむぅ。では誰と誰がここで戦争を起こすのですかぁ!?」


「ぐぬっ!? 雫にしては鋭い問いだ。ど、どうなのでしょう? 坂本様」


 それは『旧幕府軍』と『新政府軍』だ。

 『旧幕府軍』である榎本武揚率いる軍勢が、今年の一〇月に箱館を制圧することになる。

 『新政府軍』は彼らを討伐するために、箱館を舞台とした戦争を起こすのである。

 

「とにかく一〇月までに戦争の『火種』をどうにかしなくちゃならんぜよ」


 俺が与太郎の問いに答えることなく、低い声でぼそりとつぶやいたものだから、二人とも目が点となってしまっている。

 俺は慌てて手を振ってごまかした。

 

「い、いやぁ! 半年単位で何でも考えよ、というのが勝先生の教えでな! 今から半年というと、一〇月ではないか! あははっ!」


「そ、そうでしたか……しかし今年は『閏月』がございますので、半年と言うと九月になりましょう」


「そ、そうか! さすがは与太郎だ! あははっ!」


 閏月というのは、月の満ち欠けを基準にした太陰暦に設けられたもので、季節のずれを少なくするために数年に一度、一年を『一三ヶ月』とする調整のことを指す。

 今年は『四月』が二回、つまり『閏四月』があるという訳だ。

 

「とにかく急がなくてはならないということですね。しかし敵が分からねば、どう守ったらいいものか……」


「与太郎。『敵』まだ箱館にはおらぬ。勝先生の手紙にもあるように、榎本なる者が率いる軍勢のことだろう」


「なるほど……。彼らが箱館を火の海に変えるのですね!」


「いや、それは違う。実はな……」


 俺はついに彼に俺の知る『未来』を話そうとした。

 しかし……。

 

「があっ……!? ぐわっ……!!」


 なんと喉が焼けるように熱くなり、それ以上は何も口にできなくなってしまったのである。

 

「龍馬さまぁ!! 大変じゃ! 与太郎! 水! 水じゃ!」

「あ、ああ!」


 雫の剣幕に押されるようにして与太郎がお椀に水を注ぐ。

 雫はそれをひったくるように与太郎の手から奪い取ると、俺の口に水を含ませた。

 

――ごくっ……。


 冷たい水が喉にしみわたると、ようやく声が戻ってきた。

 どうやら俺が知る『未来』については話すことができないらしい。

 どこかでこの制約は体験したような不思議な気分だが、今はそのことに頭を巡らせている時ではない。

 口に出せないということは、書くことも無理だろう。

 つまり俺は未来からきた人間でありながら、未来の知識を自分自身の行動でしか利用できないということだ。

 なんという『やっかい制約』なんだ……。

 俺は思わず歯ぎしりしてしまった。

 

 その時だった……。

 

――ふわっ。


 と、目の前が暗くなったかと思うと、顔全体が柔らかな感触に包まれたのだった。

 

「龍馬さまぁ! よかったぁぁ!」

「雫殿! く、苦しい!」


 また俺の『理性』がいらぬことを口走ったが、雫は俺を抱きしめたまま離そうとしなかった。

 そして都合の良いことに、俺を心配したのは彼女だけではなく、与太郎もまた同じだったようだ。

 彼女の行動を責めることなく、与太郎は「坂本様、無理はしないでくださいね」と安堵した口調で俺をたしなめている。

 

 これは……。

 待ちに待った幸せの瞬間ではないか!

 俺は雫の胸の中で、しばらく至福を堪能することにした。

 

 だが、俺は顔が塞がれていたために気付かなかったのだ。

 最初の『火種』が、すぐ側までやってきていたことに……。

 

――ムギュゥゥゥゥ!!


 と、何かをつねる音が鼓膜に直接響いてきたかと思うと、次の瞬間に右耳に激痛が走ったのである。

 

「いててててっ! 引きちぎれる! 俺の耳が引きちぎれちゃう!!」

「りょうまぁぁぁ!!」

「げっ!! その声は! もしやっ!!」


 俺は急いで雫から離れると、声の主の方を向いた。

 するとそこには、鬼のような形相をした良く知る美女が仁王立ちしていたのである。

 俺は思わず彼女の名を叫んだ。

 

「さな子か!?」


 そう……彼女は『千葉さな子』であった。

 しかしなぜ彼女がここにいるのだろうか……。

 俺がにわかに混乱する中、顔を真っ赤にさせたさな子が青筋を立てながら吠えた。


「龍馬っ!! なかなか帰ってこないと思ったら……絶対に許さないんだから!!」


 いつの間にか彼女の手には『竹刀』がきつく握られている。

 

「ちょっと待て! これには事情があってだな……」

「事情って何よ! 言ってみなさいよ!」


 よしっ! なんとか弁明のチャンスをもらえたぞ!

 考えるんだ! この危機を乗り越える術を!

 そこで俺は現状の整理をすることにした。


 『俺はさな子に絶対に迎えにいくと約束していた』

 『江戸開城が終わり、人の行き来が自由になっても、俺は何の連絡もしなかった』

 『美少女と必要以上に仲良くしている』……。


 これだけ揃えば十分だ。


――俺はとんだゲス野郎じゃねえか!


 こうなれば仕方ない!


――開き直って、押し通す!


 俺は舌をぺろっと出して、笑顔で言った。


「……ごめん! 何も思いつかなかった! てへっ!」


――スパァァァァン!!


 こうして俺の意識はいつかのように薄れていったのだった――


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