Episode9 ~紅眼の悪魔~

 目の前に広がる余りに突飛な出来事に、アンリは頭が全く追いつけなかった。

 反動で体が硬直してしまい、代わりに思考を全力で走らせる。


 ──思えば、不可解な点は幾らでもあった。

 そもそも、あれだけノアが泣き叫んでいたのにも関わらず、なぜ生徒達が誰一人として気にかけなかったのか。


 その時点で、感づくべきだった。

 ──あたしがこんなミスを犯すなんて……最初に違和感を感じた時から、もっと警戒しておくべきだった!


 自らの不甲斐なさに後悔するが、今更悔やんでも後の祭りだ。

 恐らく、最初に違和感を感じたあの時には、他の教室は同じ様な状態になっていたに違いない。

 そんな状況の中に、平然と居た事に今更ながら悪寒が走る。


 こんな大掛かりなテロ、一体誰が起こしたというのか。


 アンリが固唾を呑み込んだ瞬間──廊下の方からガラスが割れた様な甲高い轟音が耳をつんざいた。


 恐怖で知覚が敏感になっているのか、ひっ⁉ と、か細い悲鳴を上げる。ノアの側にアンリが歩み寄る。

 コツ、コツ……。

 続いて接近してくる足音が一つ。廊下の方から聞こえてくる。


「な、なに……?」


 接近してくる微かな重苦しい足音が、二人の恐怖心を更に煽る。

 ドガァァン──ッ! 凄まじい轟音が空気を振動させた。

 突如、教室の扉がくの字に屈曲して吹っ飛んだのだ。

 床を削りながら端の壁に衝突して、やっと停止する元の造形が残らぬ扉であった物。

 

 それを見た瞬間……今まで懸命に取り繕っていたアンリの心は、遂に瓦解した。

 

「きゃあああああああああ──ッ⁉」

 

 アンリは情けなくも、絶叫しながら尻もちを付く。

 がくがくと膝が痙攣する。全身から冷や汗が止まらない。

 最早、あれこれと巡らせていた思考は、埃を払うがごとく真っ白に消え去っていた。


 残ったのは、扉を壊したあの攻撃を生身で喰らえば、確実に死ぬであろうという恐怖だけ──。

 

 それだけ畏怖していようと、流石は精神を鍛え上げた魔術士なのか。

 アンリとその隣で身体を震わせているノアも、不思議と教室の出入り口から眼を逸らそうとは思わなかった。


 そして足音の正体は──ぬらりと、音もなく滑らかにその姿を表した。

 

 全貌は、ドス黒い赤銅に塗りつぶされたローブに身を包んでいた。

 更には深々と被るフードが影を落とし、中の表情は一切伺えない。

 だが、唯一血を垂らしたかのような鮮血の双眸だけが、不気味に揺らいでいる。


 言うなれば──虚無。

 一切の光明の侵入を許さぬあかは、まるで無機物を見ているかのようだった。


 ぎり、と。紅眼が動き、教室の一角に居座るアンリ達を捉える。

 それだけでも心臓が大きく跳ねてしまう。

 もう──立ち向かおうなどという意思は、アンリには無かった。

 このまま最愛の親友と共に命を落とすのならば、本望なのではないか、とまで思っていたのだ。

 

 そうしている間も、謎の不審者はアンリ達とは対角線上にある階段を上り、着々と距離を詰めてくる。

 両手をローブに突っ込んでいる姿は、隙そのものだ。あれでは咄嗟に魔術による反撃はできまい。

 

 アンリは一瞬──先制攻撃を撃つべきか迷った。

 ……だが、それで何になるというのか。

 一度敵意を見せれば殺される。そう思わせる圧倒的な殺意と威圧が、オーラとして滲み出ている。


 果たして自分は勝てるのか? こうやって竦み上がることしかできないというのに?

 どうすべきか決めかねていると、不意にアンリの右袖を掴んだ者がいた。とても弱々しく震える手だった。

 

「……ッ⁉」

 

 親友の助けを乞うような行動に、アンリはハッと目を剥いた。


 ──あたしは、一体何をしているのか。誓ったはずだ。

 入学時から、すり減っていた心身にいつも活力を漲らせてくれた──ノア笑顔を取り戻すと。

 だからこそ今まで、本来の笑顔を枯らせたさえぎってまで、側で尽くしてきたんじゃないか。

 ──あたしが、あたしが……ノアを守る!

 

 途端。身体の震えが嘘のように収まり、凍てついた両手に熱が戻る。

 もう自分を戒めるものは何もない。


 アンリは脱兎のごとくその場を飛び出すと、しっかり二足で直立しながら、丁度階段を上りきった不審者と一直線上で対峙した。

 流れるように右腕を水平に伸ばし、不審者を捉える。

 

 魔術士にとって最も攻撃呪文ソルセリーを放ちやすい構え──即ち、臨戦態勢を示していた。

 

「止まりなさいッ! それ以上近づいたら、自己防衛として全力で魔術を行使さえてもらうわッ!」

 

 先程の怯えた様子からは想像持つかないほど、決意に満ちた声に流石に驚いたのか。

 不審者が歩を止める。

 そして──静かに告げた。

 

「……ほう。それで?」

 

 感情が枯れ果てた様な低い声。

 まるで無機物と対話しているかのような奇妙な感覚を、奥歯で噛み殺しながら、アンリは先程よりも張り上げた声色で突き放す。

 

「決まっているでしょう! 貴方を拘束、無力化するわ。これでも魔術には自信があってね。抵抗しない方が身のためよッ!」

 

 更に一歩踏み出し、今にも魔術を撃たんと威嚇する。

 しかし、そんなもの脅しにもなっていないのか。呆れ果てたように鼻で笑う。

 

「……愚かだな」

 

「な、なんですって⁉」

 

「……俺を無力化できるなどと、付け上がるその浅はかな考えこそが愚かなのだ。人間」

 

 その意味ありげな言葉に、アンリはある事に気付いた。

 いや、気付いてしまった。

 まさか──と、不審者を一層鋭く睨む。

 

「アンタ、どうやって此処まで来たの」

 

「……無論、普通に赴いた。少しばかり近道はしたがな」

 

 あり得ない。あり得るはずがない。

 に来れるわけがないのだ。

 何故なら──。

 

「まさか、殺したの……衛兵をっ!」

 

 はち切れんばかりの怒声にも、「さぁな」と無機的に告げる不審者。

 その一言で、アンリは確信した。

 ──恐らくこいつは、此処に来るまでの道中、少なくとも十人以上は殺している。

 

 本来グラーテ魔術学園の敷地内には、常に見回りの衛兵が徘徊しているはずなのだ。

 至る所に抜け目なく配置された衛兵の目を盗んで、校舎内に忍び込むなど不可能。

 つまり、こうして不審者が校舎に侵入できているという事は、その全ての衛兵を打ち倒してきたに他ならない。

 

 ならば不審者の言葉とも辻褄が合う。

 

 グラーテ魔術学園に雇われた衛兵は誰も、中央エリアから直属で派遣された空挺軍に成り上がれなかった兵士──。

 そう聞くと聞こえは悪いが、それでも実力は魔術士の中でも、限りなく一流に近い二流なのである。


 少なくとも、それ以上の実力を秘めている不審者に、たかが魔術士見習いであるアンリの攻撃呪文ソルセリーが通用するとは、到底思えない。

 

 しかし。

 ──だとしても、此処で引き下がるわけにはいかないッ!

 恐怖が完全に消えたわけではない。

 必死に左手で押さえているが、伸ばされた右腕は未だに微かな震えが止まらない。


 だが、殺された衛兵のかたきをうつという正義感が、己の誓いを果たすという責任感が、アンリを恐怖の深淵から引き上がらせた。

 

 頭の中の何かが切れたように、凄まじい剣幕で叫ぶ。

 

「《ライトニング》──ッ!」

 

 瞬時にてのひらから魔術陣が展開される。

 まるで術者の怒りを反映するように、荒々しく金色に漲る光は、魔術陣の中心に集束していき──。

 激しく服をたなびかせる程の凄まじい衝撃を持って、一筋の雷閃らいせんが迸った。


 その全てが一瞬。瞬きも許されぬ、刹那の如く早業。

 これほどまで迅速に魔術を起動できる者など、この学園でアンリだけだ。

 

 彼我の距離──三○メルト。

 この至近距離で速力と貫通力が凄まじい雷性呪文スペルを避けるのは不可能。ましてや、障壁呪文エオスを起動しようとも、もう遅い。


 まばゆく視界の中、アンリは静かに勝利を確信した。

 

「……ほう、この起動の速さ。どうやらさっきの発言はブラフではないらしいな」

 

 だが不審者は眉一つ動かすことなく、ただ無機的に迫りくる雷閃を見据え──。

 ふっ、と。フードの影に潜む口角がつり上がった気がした。

 

「──だが、遅いな」

 

 それは、一瞬のうちに起きた。

 ぼこり、と。突然アンリの足元から《黒い影》の様な液状のものが突起し、猛然と飛び出してきたのだ。


 ──いつの間にッ⁉

 逡巡する暇もなく、後方へ飛ぶ。

 が、不審者の言葉通り、何もかもが遅すぎた。

 どす。鈍い音を立てて黒い影が上腹部に直撃する。

 

「かはッ⁉」

 

 あまりの衝撃に身体が宙へ浮く。慣性に従うがまま、アンリは背後の壁に衝突し、肺の空気を余すことなく吐き出す。

 術者の精神力が途切れた雷閃は、軌道が大きくそれて不審者の頬を僅かに掠めるだけに終わってしまう。


 喉を鳴らし、アンリは身体を震わせながらも何とか立ち上がった。

 負傷した箇所を治癒しようと、上腹部に手を当てると──。

 

「え……」

 

 思わず肉声が漏れた。

 外傷が酷かったから、ではない。むしろ逆である。

 。出血もしていなければ痛みもない。少し痺れはするが、その程度だ。


 それどころか、あれ程の勢いでぶつかったというのに、服すら無傷である。

 得体のしれない怖気が背筋を伝う。焦燥を色濃く浮かびながら、アンリは口走った。 

 

「アンタ何を──ッ⁉」

 

 刹那──心臓が一つ、破裂せんと大きく跳ねた。

 同時に、頭の奥の致命的な何かが途切れる音。

 

「あ……れ……」

 

 気付けば。

 がくん、と。膝を折り、アンリは無残にも倒れ伏していた。

 下へと流れ行く視界に、何処までも無表情に見下す不審者の顔が目に入ったが、もはや悔やむ余裕すら無かった。

 

「アンリッ!」

 

 ──今の声は、果たしてノアのものか。

 そんな事の認識すら曖昧になるほど、意識と五感が朦朧としていた。

 まるで、死神の鎌を喉元にあてがわれた様な感覚。

 一瞬の油断で意識を刈り取られてしまうそうだった。

 間違いない……皆はこれにやられて意識を失ったのだ。

 

「……さっきの攻撃呪文ソルセリーは中々なものだった。まぁ、相手が悪かったな」

 

 不審者の声が、水中に居るかの様に歪んで聞こえてくる。

 終わり──なのか。

 結局、何もできずに親友が連れ去られていくのを、ただ眺める事しかできないのか。

 違う。それじゃあ、と同じだ。

 

 胡乱うろんとする意識下で、アンリは右手から熱が漲るのを感じた。

 

 そうだ。

 自らを偽り、いつまでの逃げているだけの臆病者とは違う。

 ──あたしは、あんな奴とは違うんだからッ!

 

 その意思に応える様に、死にものぐるいで右腕を動かすことに成功する。

 そのまま横を通過しようとする足首をガッと掴んだ。

 意識が刈り取られぬよう、不審者の顔を鋭く見上げながら、何とか声を絞り出す。

 

「待ち……な、さい……ッ!」

 

 この時だけ、不審者の顔に少しだけ驚愕の色が差した気がした。

 

「……驚いたな。この攻撃を食らって意識を保っていられたのは貴様が始めてだ。

 その据わった根性だけは褒めてやるが……」

 

 不審者が著しく声色を下げて、威圧するかのように告げた。

 

「離せ。余り俺の手を煩わせるな。……命は惜しいだろう」

 

『お願い手を話して! このままじゃアンリが──っ!』

 

 この至近距離だからこそ不審者の声は聞こえるが、ノアの声までは不明瞭すぎて聞き取れない。

 だが、心優しいノアの事だ。きっと自分を心配してくれているに違いない。

 

 不意にアンリが不敵に笑う。

 ──でも、ごめんね、ノア。あたしはあいつとは違うから。違うと想いたいから! 自らの誓いを最期まで果たして見せるッ!

 

「ノアは……絶対、渡さない……ッ‼」

 

 あらん限りの力で足首をきつく握って、尚も抵抗する。

 アンリとて、これは蛮勇である事は分かっていた。

 この程度で不審者を本気で止めなれるなど、到底思っていない。

 だからこれは……自らに対するケジメなのだ。

 

 少女の皮肉にも勇猛あふれる行動に、不審者は深い嘆息を吐く。

 そして、確かな殺意をもってアンリを睥睨へいげいした。

 

「……そうか。覚悟ができているようで何よりだ──ッ!」

 

 直感的に死を悟り、耐えきれずアンリはきつくまぶたを閉ざした。

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