第13話 一緒

敏彦の言った通り、認知症と思わしき老人の話は要領を得なかった。若い人がおばあちゃんの話を聞きに来てくれるのは嬉しいと、わざわざお茶まで出してくださったご家族には申し訳ないのだが、私は命がかかっている。段々苛立ちが態度に出てしまう。本件と関係のない富山の文化にいちいちはしゃぐるみを睨んで、「要点だけ聞け」と口を動かす。

――それにしても、改めてこの写真、作り物と思えない。

モニター越しでない実物の白黒写真は、一層不気味だ。

それにこの写真……


「海の臭いがする」


思わず口に出してしまうと、それまで曖昧な笑みを浮かべていた老人が天井のある一点を睨みつけた。るみに受け答えしていた、か細く弱い声とは打って変わってドスのきいた太い声で怒鳴る。


「なーん、すきなながいちゃ。だらないがけ。いじくらしい、いじくらしい、いじくらしい、いじくらしい」


「あーん、急に方言、分からないでござるよぉ」


空気を読まずるみが甘えたような声を出す。老人は、るみには目もくれずさらに声を荒げた。


「こっちゃなんなが。なして。そんなことしられんなま」


やおら、すっくと立ち上がって老人と思えない力で私を突き飛ばした。


「でていかれ!で、て、い、かれあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


「おばあちゃん!どうしたの!」


隣の部屋から老人の孫である女性が駆け込んでくる。その間も老人は大声で叫びながら何度も私を殴打した。


「おばあちゃん!やめて!」


孫の女性と、敏彦が取り押さえる。100歳を超える老人のどこにここまでの力が隠れていたのか、二人がかりでやっと、動きを止めた。殴打された肩がじんわりと痛む。

よく見ると老人は、涙を流していた。


「おかんまいけ。おかんまいけ。おとろしい、おとろしいおとろしい」


老人は号泣しながらなおも私を殴ろうとしている。騒動に気付いた他の家人も続々と到着し、驚いた表情を見せ、どうにか彼女をなだめようとする。


「本当におばあちゃんが申し訳ない、でも、今日のところは」


三人で逃げるようにその場を離れる。外に出てもしばらくは老人の泣き声が響いていた。あの老人が何を言っていたかは分からない。でも、老人はサカナを見ていた。写真を見て、海の臭いを感じたすぐあと、私も見てしまった。天井から垂れた、長い黒髪を。


「いやあ収穫がありましたな。途中でまたえっちゃん氏の特殊能力で女が狂ってしまわれましたがな、フハハ、年をとっても女は女というわけですな。え?ワシですか?ワシは完全に女を捨て去っているゆえ、えっちゃん氏の魔力は効かぬ、効かぬのでござる」


見た目も話し方も鬱陶しいるみだが、その鬱陶しさに救われる。るみがいなかったらまた失神してしまいそうだった。

老人が突き飛ばしてので、すんでのところで顔を見ずに済んだ。しかし、あのとき恐らくサカナは私を見ていたに違いないのだ。天井からぶらさがって。小さな目を吊り上げて。大きな口を、限界まで開けたあの顔で。


「しばしお待ちを。東大氏、なんぞ書くものを貸してくださらぬか」


「いいけどさ。なんでタブレットにしないの。えっちゃんもそう思うよねえ?」


「こういう場所では手書き、と相場が決まっているのでござるよ」


るみは恐ろしく早く、そして意外にもとてもきれいな字で老人から聞いた話の要点をメモに書き連ねていく。書き終えると、私と敏彦に見えるよう、地面に置いた。


・おかえりさんに来てもらうには、体の一部と、来てほしい姿の写真が必要。

・おかえりさんはほとんど喋らない。おかえりさんを呼んだ人とだけ意思の疎通が可能。

・おかえりさんは何も食べない。代わりに海水を飲む。

・おかえりさんはだんだん小さくなる。

・おかえりさんは海に還さなくてはいけない。


「こないだ来た時は作り方しか分からなかったでござるよ。大進歩でござる。早速まとめて記事にしなければ」


るみは満足げな表情で頷いた。


「つまりこれからの俺らの目標はおかえりさんを海に戻す方法を見つけることってわけだね」


それまで黙っていた敏彦が口を開く。


「でもさ、肝心の海に還す方法が聞けなかったんだよねえ。俺ら三人で話し合って考えて分かるかなあ。俺は無理だと思う。えっちゃん死んじゃうのかな」


顔色も変えずにそんなことを言う。なにそれ。こいつ、私のこと、大好きだとか言ってなかったか。驚いて振り返ると、また道で会ったときのようにニヤニヤとねばついた笑みを浮かべている。


「あ、えっちゃん俺がそんなこと言うの変だと思ってるでしょ。でもさ、えっちゃんにやる気が感じられないんだもん。猿の手さんと俺に任せてばっかりだよね。ずっと不機嫌だしさ。友達がいないからかなあ。えっちゃんは他人に何かしてもらって当たり前だと思ってるよね」


敏彦は頬にたっぷりとついた贅肉を引っ張ったり押し戻したりする。


「それとも、シンプルに頭が悪いのかな」


私は耐えられず、思いっ切り敏彦の向う脛を蹴り飛ばした。風船みたいな胴体の割にはとても細い脚。敏彦がバランスを崩して倒れこむと、その上に馬乗りになる。上を向くと顔の贅肉が後ろに流れ、かつての美少年の姿を想起させた。


「あんたはいいよね。昔からチヤホヤされて、嫌われたことなんかなかったでしょ。変な女に迷惑かけられたことも、そのせいで病んだこともないでしょうよ。勝手に大学休んで、太って、家族に迷惑かけたって、それでもちょっと本気になればイケメンの東大生に返り咲けるもんね」


るみは我関せずと言った調子でタバコを吸い始めた。タバコの臭いなんか大嫌いだ。私の左手がうまく動かない原因は、兄の恋人だった坪井奈津子が、喫煙者であることを兄に告げ口されたら困るなんて言う理由で、私をバイクで撥ね飛ばしたからだ。


「もううんざりなんだよ。何にもしてないのに、キチガイ女がいつも邪魔してくる。あんたみたいなキモい男までいる。おまけに気色悪いバケモノが、見えるようになっちゃってさあ。もうどうしていいかわかんないんだよ。誰か助けてくれよ。もう……嫌だよ」


敏彦は私の顔を見てなおも笑っている。


「えっちゃんかわいい。かわいいよ。大好きだよ。ずっと困っててほしい」


私を軽く後ろに押しのけると、敏彦はでっぷりとしたお腹をさすりながら立ち上がった。


「えっちゃんに会わせたい人がいるんだ。もうすぐ来るってさ、それに……」


敏彦は私の目をまっすぐ見て言う。


「俺もさっきアレが見えたよ。死ぬときは一緒だから」




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