三章 『弱者の砦』 ②

 ロータムの部屋に入ってから約二時間が経過した頃だろうか。

 突如、廊下の奥で甲高い金属音が立て続けに四度、打ち鳴らされた。

 今まで身動き一つせずに蹲っていた彼は、音が鳴るのと同時に顔を上げて扉を睨む。

『お前らっ……飯の時間だ!』

 廊下の何処か遠くで、誰かが声を張り上げた。

 それと同時に、一斉に扉が開け放たれる轟音が部屋全体を揺らした。

「行かないと」

 ロータスも例に漏れず、私達を一瞥しただけですぐさま部屋を飛び出した。

 何事かと身を乗り出して見た廊下の外は凄まじい喧騒に包まれていて、多くの少年や少女達が声のした方角へと駆けて行くのが見える。

 統制や順番なんてあったものではない。

 皆が皆、飢えたハイエナの様な血走った目をしていた。

 そして何より不気味なのが――。

「子供ばかり?」

 駆け抜けて行くのは十八歳以下の未成年ばかりで、大人が一人も見当たらない。私は音を立てない様に立ち上がると抜き足で扉の縁まで移動し、皆が一目散に走って行く方向に視線をやった。

 そこには既に黒山の人だかりが形成され、悲鳴にも似た喧騒が巻き起こっていた。

 誰もが我先にと他人の背中を押し、倒れかけた者を足蹴にしている。悲鳴と怒号が重なって、心臓を抉るような不協和音を廊下いっぱいに残響させていた。

 余りに異様なその光景に、私はそっと扉から体を離し、エリス様を守る様に元の場所へと収まった。

「エリス様の回復を待って、早々にここから立ち去らないと」

 しかし、回復は何時になるのか。

 今は容体が安定しているとはいえ、起きてすぐ出発となれば、外でテントを張って籠っている時と大差は無い。最低でも二日は休息が欲しい。

「……戻りました」

 ついつい思考に意識を傾け過ぎていたらしい。顔を上げると、扉の前には小さな缶詰を抱えたロータムが立っていた。右肩は僅かに下がり、頬には苦渋の色が浮かんでいる。

 彼は言葉少なく部屋に入り、扉をゆっくりと閉めた。そして半ば崩れ落ちる様に座り込むと、所々がへこんだ缶詰を足元に投げだした。

「これが、食事ですか?」

「うん。食事は一日に二回だけ。貰えなかったら、無し」

「無しって、人数分が用意されているのではないのですか?」

「もう殆ど、残ってない。一日に二度、適当な場所で配布が始まる。配布される缶詰の数は大体、人数の四分の三」

「そんなっ……」

「取れなかったら、死ぬよ。弱って、死ぬんだ」

 最悪だ。いくら食料が少ないからと言って、均等に分配する事も出来る筈だ。

 しかし、ロータスを含めた全員が、この異様な状況を受け入れている。

 彼は私の疑問を察した様に、扉の方を見て人の気配が無い事を確認してから口を開く。

「逆らえない。ここでは、フラッツが仕切ってるんだ」

「フラッツとは、あのリーダーですか?」

「……うん」

「でも、そんなの酷い」

「前はもっと酷かった。それをリーダーが変えた。だから逆らえない」

「一体、何があったんですか?」

 ロータムはやはり眉間に皺を寄せて俯きかけ、しかし意を決した表情で私に向き直った。

「半年前の事、だけど――」



 シェルターは想定以上の避難者により、限界を迎えつつあった。

 否、瀬戸際の状態で三年間、辛うじて踏み留まっていただけだ。

 予定よりも早く消費されていく食料に、この場を仕切っていた者達は焦り始めた。

 このままでは、食料は後十年と経たずに無くなるのは明白。状況を打破するには、人数を減らさなければならない。

 勿論、「出て行ってくれ」と言って出て行く人が居る筈もない。シェルターの外は一歩足を踏み出せば数日で死を迎えるこの世の地獄だ。退去命令は死刑宣告と同義。

 故に、皆が人口削減を望んでいようが、計画が実行に移される事は無かった。

 ――無い、筈だった。

 間が悪い事に、追い打ちをかける事件が発生する。空調機器トラブルで、一階フロアと地下フロアの空気循環が上手く機能しなくなったのだ。当時、溢れた避難者は一階中央の広場や地下で空いた貯蔵室を使っていたが、移動を求める人々が二階へと詰めかけ、いよいよ人口過密によるいさかいが激化し始めた。

 無数の怒号はシェルターの発する悲鳴だったのか。

 この一件は人員削減を思い留まっていた管理者達の肩を押した。

 まず、誤作動の原因が調べられ、それを起こしたとされる――そのようにでっちあげられた――地下区画で生活していた人々が荒野へ追放された。

 無論、大きな抵抗があったが、多勢に無勢で上層階の住人達に殴り殺された人も少なくなかった。死体も漏れなく外に放り出され、シェルター内は一時的に平穏を取り戻したかに見えた。

 しかし、追放された人々も黙っている筈が無かった。何の準備もないままに追い出され、他のシェルターに向かえる筈もない。彼らは入口のトンネルに居座り、中に戻るべく一つ目の扉を破壊した。

 二十日に及ぶ激しい抗争が続いたが、食料も無く外の劣悪な環境を背負って戦う追放民に端から勝利は無かった。日に日に抵抗する人は減り、気付けば死体の山でトンネルが埋まろうとしていた。この攻防でシェルター側にも多くの死傷者が出た。

 生き延びた人々は、口減らしの手間が省けたと、喜んで仲間の死体を地下に詰め込んだ。

 抗争に参加した住人の中には、外の砂塵を吸い込んだ影響で酷い喘息を発症する人間が後を絶たず、死体をシェルターの外に捨てに行くという発想は起こらなかった。

 この時既に、モラルや倫理はこの場所から消え失せていた。其々が己の生きる為だけに他人を蹴落とす事を是とし、嬉々として殺人に手を染め、死体をゴミとして扱った。

 そうして約半月。多くの死傷者を出した抗争は追放側が全員死亡、シェルター側に九二人の死傷者を出す悲惨な形で幕を閉じた。

 一連の排斥運動はいせきうんどうが収束するかと思われたのも束の間、人々の間に凝ったストレスという名の黒い感情は収まる事を知らず、更なる暴動が巻き起こる。

 まず、全員の食事を管理していた大人の一派が食糧庫を完全に制圧。更に幾人かの仲間を得て住人を閉めだして籠城を始めたのだ。

 彼らが提示した条件は一つ。

『老人と子供を一人残らず追放する事』

 既に彼らは気付いていたのだ。

 どう足掻いた所で、あと十年も自分達が生きていられない事を。

 このシェルターに先細りの運命しかないのなら、老人や子供を残す必要は無い。

 ――自分が最後の瞬間まで生きていたい。

 浅ましい感情が常識として蔓延まんえんし、彼らを凶行きょうこうに駆り立てた。必然と言うべきか、大多数の大人がこの考えに賛同し、老人や子供を弾圧し始めた。

 そんな中、一人の青年が立ち上がる。彼こそが現リーダーのフラッツ・ロンメンだった。彼はいち早く少年少女達だけの巨大なコミュニティーを形成する。

 肩を摺りあっての生活が強要されるシェルターの性質上、子供の間には元から太いパイプがあった。フラッツはそれを最大限に利用して仲間を集ったのだ。

 そして大人の打倒を掲げ、生き残る為に戦うべきだと仲間に説いた。

 どうせ手をこまねいていれば、待っているのは惨めで苦しい死だけ。

 彼の言葉に賛同しない者は殆どいなかった。皆が皆、彼の言葉を馬鹿正直に信じて、この不毛な戦いに勝利すれば全てが元通りになると、甘すぎる考えを抱いていた。

 その曖昧な幻想は大きな波となり、双方に多くの犠牲者を出しつつも最終的には大人達を圧倒した。本来なら、力関係から鑑みても子供側に勝ち目は無かった筈だ。

 しかし、大人達の協調は壊滅的だった。慾に塗れて互いを信頼しない疑心の軍に、勝利の女神がほほ笑む事は無かった。

 全てが終わった後、そこには数多くの死体と啜り泣く少年少女の姿だけがあった。

「俺達の勝利だ!」

 皆が泣き崩れる中、フラッツは声高らかに宣言した。

 彼にとって、目の前の惨状はどうでも良かったのだ。邪魔な大人さえいなくなれば自分こそが頂点に立てると信じて疑わなかった彼は、見事にリーダーという皮を被った独裁者の地位を手に入れた。両親を亡くして頼る者を失った者達が反逆するだけの余力を残している筈も無く、全員が盲信的に彼の傘下に下った。

 そうしなければ、待っているのは、……やはり死だ。

「死体を片付けろ」

 全ての死体を地下の倉庫に押し込め、目につく痕跡も皆が手分けして消した。誰もがそんな事に意味は無いと思ったが、口に出した者は皆無だった。

 恐らくフラッツは、大人の痕跡が目に入るのが嫌だったのだ。ただそれだけの理由で、彼は仲間を馬車馬のように使った。

 この頃から、彼に取り入ろうという頭の回る奴らが出始める。中には、大人が支配する構造を打破したと、彼を神格化して敬う輩も居た。

 彼の思い描く独裁の帝国は着実に土台を固め、大きな抵抗も無いままに完成する。

『今日から正式に、俺がリーダーだ! 俺が、ルールだ!』

 彼が声高らかに宣言したその日から、地獄の様な日常が幕を開けたのだ。



「――これが、この場所であった事です」

 話を終えたロータムは、憑きものが落ちたような大きな溜息を吐き、肩を落とした。

 私はただただ唖然として、彼の話が終わった後も数秒、状況を飲み込むのに必死で反応する事が出来なかった。

「……それで、こんな競争を?」

「それがここのルールだから。外の見張りをしてると、奪い合いをしなくても缶詰が一つもらえる。今日は仕事を外されたから、取りに行った」

 彼は虚ろな目で、缶詰を見下ろした。私もつられて視線を落とす。

 これっぽっちの缶詰を、毎日二度奪い合わなければならない。

 それが、ここでの絶対的なルール。

「……狂ってます」

「知ってる。でも、ここではこれが普通。奪い合うのが嫌で、死んだ子も居る。死んだら地下に放りこまれて、その分また配られる量が減るんだ」

 なるほど、残酷だが合理的な人数の減らし方だ。

 誰の手も煩わせる事無く、徐々に人を減らしていく。食事を確保できなければ、次の配給に余力が残っているかは怪しい。それが何度か続いて栄養失調を引き起こせば、争奪戦から脱落。

 後は緩やかに死んでいくだけだ。

「結局、貴方達のリーダーは――」

「そうだよ、自分が最後まで生き延びたいだけだ」

「戦うべきではないですか?」

「無理だよ。もう皆、毎日の食事を奪い合うのに精一杯だから。それに、あちこちにスパイも居る。人を集めようとしたら、直ぐに密告されて、生きたまま死体の詰まった倉庫に入れられるんだ」

 この構造はもう変わらないのだと、彼は俯く。

「今ここには何人居るんですか?」

「だいたい、百ぐらいだと思う」

「百って、それこそ十年は食料が持つ人数じゃ……」

「リーダーは半分になっても、それどころか三十人ぐらいになっても止めないかもしれない。あの人は自分が死ぬまで安心して食料が続くようにしたいんだ」

 ロータムはそこで一旦言葉を切り、私達を気遣う様に再び顔を上げた。

「本当は喋っちゃ駄目だから、今のは聞かなかった事にして欲しい」

「……分かりました」

 元より、何かできる様な状況でも身分でもない。下手に動けばエリス様を危険に晒す事になるばかりか、旅の続行が不可能な状況になりかねない。

 色々と含む所はあるものの、目的はあくまでエリス様と無事にシェルターへ辿りつく事だ。

 この理不尽な状況にも目を瞑らざるを得ない。

「それで、食べないんですか?」

「……これは貴方達の分も兼ねてるから」

 この現状を聞いた上なので、特に驚きは無かった。面倒を見ろと言う事はつまり、自分の食事を減らして分け与えろという事なのだ。

 それによってロータムが体調を崩そうと、きっと彼らは何とも思わない。

 馬鹿正直に食料を分け与えた愚か者と卑下するに決まっている。

「私達は自分達の分がありますから」

 ――とは言い出せなかった。

 これほど逼迫した状況の中、私達が食料を所持していると知られれば、たちまち皆に取り囲まれかねない。強引に奪われる事も十分にありうる。

 あまり考えたくは無いが、ロータムが他の誰かに情報を流す可能性もある。表向きはフラッツを嫌っている雰囲気だが、密告で何らかの報奨が望めるのなら、部外者の私達を売るのは造作も無い事だろう。

「ありがとうございます。でも、私は結構です。出来れば、エリス様に……」

 彼は私の言葉の真意を見極める様に二十秒近く私の瞳を見つめ、続いて視線をエリス様へと落とした。そして、置いていた缶詰を数秒弄び、懐に仕舞って頷く。

「分かった。起きるまで待つよ」

「申し訳ありません」

「いいんだ。僕は見張りで毎食……」

 言葉を詰まらせたロータムの口から大きな咳が漏れ、部屋の中に残響する。

 エリス様が眉間に皺をよせ、僅かに身をよじった。

「大丈夫ですか?」

「……ごめんなさい。大丈夫だから」

 言葉の端々に咳を絡めつつも、彼は私が傍に寄ろうとするのを手で制止した。

 薄々気付いていたが、彼は門番の仕事で肺と器官を随分と痛めている。

 空気循環が上手く行っていない一階の、閉まりきらない扉の近くで延々と待機していなければならないのだ。そんな事を続けていれば、肺がやられるのは必然。

 毎回の食事が出るのはつまり、いずれは確実に駄目になる事をフラッツが知っているからに他ならなかった。

 それから沈黙の中で二時間。ロータムがトイレの為に部屋を出た。

 彼が部屋を出ている間、誰かが来るのではないか、もしかすると彼は私達の事を報告しに行っているのではないか、という不安がぐるぐると巡っていた。

 この陰鬱で閉鎖的な空気に呑まれてしまったのかもしれない。

 私はエリス様の額に滲む汗を拭き、彼が居ない間に水筒と栄養剤を取り出して錠剤を砕き、それを水に混ぜて彼女の口に運んだ。私も別のコップに注いだ水を一口含み、口の中を濯ぐ。使っているマスクもそろそろ換え時かもしれない。

 ロータムが返って来て、更に一時間ほど経過した頃。

 エリス様が、小さな呻き声と共に瞼を開いた。

「わたし、寝てた?」

 体を起こそうとする彼女の肩を、私は慌てて押し留める。

「大丈夫です。ここはシェルターの中ですので」

「そっか、三つ目、着いた、……んだっけ?」

 ここに到着した時には、既に意識が朦朧としていたのだろう。

 エリス様はロータムを見て、「初めまして」と小さく笑みを作った。

 彼は驚いた様な、困った様な表情で視線を彷徨わせた後、頬を掻きながら「初めまして」と答える。ロータムは他人と会話するのに慣れていない、あるいは酷く怯えている印象を受けた。この劣悪な環境を考えれば、当然だろう。

「エリス様、まだ安静にしておかないと」

「大丈夫。もう随分良くなった、と思うから」

「しかし――」

 エリス様は上半身を起こし、薄暗く狭い部屋の中を見回す。

「なんだか、暗くて静かな所だね」

「エリス様、よく聞いてください」

 私はこのシェルターでのルールを掻い摘んで説明する。

 勿論、このシェルターを取り巻く裏の事情は伏せた最低限のルールのみだ。

 仮に真実を聞いた彼女が、何かしら感情的に行動してしまう可能性も拭えない。

 簡略化した説明だけでも十分に悲しそうな表情を浮かべたので、尚のこと真実を伝えられる筈が無かった。

「トイレ、行きたい……」

「えっと、トイレは」

「そこの廊下の突き当たりを右に曲がった奥です」

 ロータムは扉の外を指さす。

 私はエリス様の手を取って立ち上がろうとして、動きを止める。このまま彼女をトイレに連れて行くと、部屋の中には私達の荷物が置きっぱなしになってしまう。

 しかし、エリス様一人をトイレに向かわせるのも不安だ。仮にロータムが彼女に付き添ったとしても、不安が拭いされる訳ではない。

 逡巡し、やはりエリス様について行く事に決めた。

 あまり迷っていては、不信感を見抜かれる。

「荷物、お願いします……」

「わかりました」

 彼の返事に一抹の不安を覚えつつも、扉を押し開いて外へ。部屋の中の暗さに慣れていた為か、廊下の明るさに目を合わせるのに数秒の時間が必要だった。

 ゆっくりと足音を消して廊下に這い出て、長い廊下の奥へと視線を定める。

 周囲から感じる視線は消えていない。長い廊下の閉塞感と、扉の隙間から感じる圧迫感で、百十メートルにも満たない廊下が二百、三百メートルにも感じられた。

 そうして一つ目の角を折れる際、私は不安から視線を部屋の方へ向けてしまう。

 もし、彼が私達の荷物を運び出してしまっていたら。

 もし、他の誰かが私達の荷物を奪っていたら。

 決して消える事の無い不安を抱いたまま、奥のトイレへと歩を進める。出来るだけ耳をそばだて、何かあればすぐに引き返せるように身構えた状態で。

 私の心配を余所に、トイレまでは何事も無く到着出来た。

 トイレの中は、お世辞にも綺麗とは言えない有様だった。青かった筈の床のタイルは黄ばみ、隅の方には髪の毛の塊の様な、黒々とした何かが堆積している。洗面台周りは水垢や手垢でべっとりと茶色に塗り固められ、姿見の鏡も割られていて、辛うじて残った残骸も手垢で曇り、ぼんやりとした光しか反射していない。

 三つある個室うち、二つは壁に穴があいていた。

 エリス様が個室に入っている間に、私は洗面場の蛇口を捻って手を洗い、続いてその水を口に含んで水質を確かめる。

「……これなら、大丈夫ね」

 トイレの汚さの割に、水だけはまともらしい。少し浄水カルキの臭いがきついが、飲むに耐えうる状態だ。既に水は尽きかけているので、食料以上に補給は必須だ。

 私は水を手ですくい、曇った鏡の残骸を指の腹で擦った。

 ぬめっ、とした鏡面に指を往復させる事、数回。私の顔が辛うじて確認できる程度に、曇りが消える。僅かな鏡面を頼りに、自分の顔の周りを入念に調べ、異常が無いかチェックする。

 今、私が動けなくなる訳には行かない。些細な変化も見逃すわけには行かなかった。

「ジュゼ、何してるの?」

「いえ、髪の手入れを少し」

 個室から出て来たエリス様に嘘の答えを返す。彼女はまだ本調子ではない様子で、うつむき加減に洗面台の前に立った。この劣悪な景色に気分を害したのかもしれない。私が蛇口を捻ると、エリス様は流れ落ちる水流に両手を浸す。

 白くしなやかだった彼女の手は、うっすらと筋が浮くほどに衰えていた。

「ひっ……」

 エリス様は突然、怯えた声と共に手を引いた。

 手を揉んだ瞬間、古い角質がでろりと剥け落ちたのだ。

 考えてみれば、もう八日近くお風呂に入っていない。見た目にはそれほど汚れている印象は受けないが、古い角質や汚れが体中に浮いている。

「大丈夫です」

 私はエリス様の背中に回り込んで体を抱き止め、小さな手をそっと己が両手で包み込む。

 そして再び洗面台の前に立ち、ゆっくりと丁寧に彼女の手を洗う。ぬるりとした手触りと共に、古い皮がボロボロと剥がれ落ちた。

「大丈夫、です」

 呪文の様に言い聞かせながら、手首までの垢を丁寧に洗い落す。

 タオルで全身をくまなく拭ってあげられれば良いのだが、残念ながらそんな余裕も綺麗なタオルも持ち合わせていない。今は手首の辺りまでの垢を落とすのが精いっぱいだった。

「顔も洗いましょう」

 続いてエリス様に洗面台に向かって顔を突き出して貰い、目を閉じさせる。

 私は掌で水を掬ってエリス様の頬にかける。手ほどではないものの、やはり顔からも泥の様な垢がはげ落ちた。

 洗顔が終わると、エリス様は振り返り、「ありがとう」と弱々しい笑みを浮かべた。

「それでは、戻りましょうか」

 本当はトイレをすませて直ぐにでも引き返したかったのだが仕方ない。私は出来るだけ早足で、しかしエリス様に勘付かれない程度の早さで廊下を引き返す。一歩一歩、不安が増していく異様な感覚に、周囲からの視線は殆ど気にならなくなっていた。

 部屋の前に戻り、間髪いれずに扉を開く。

「……おかえりなさい」

 そこには、出て行く前と何も変わらぬ光景が広がっていた。荷物を開けられた形跡は無く、ロータムがその場から動いた気配もない。

 私は安堵し、同時に彼を疑った事に対する罪悪感が湧きあがる。

 その罪悪感から返事のタイミングを逃し、無言のまま部屋に入ってしまう。

 エリス様は、「ただいま」と明るい声で返事をして、扉を閉めた。

「……荷物を取って逃げると思ったんでしょ?」

 座ると同時に、彼は私だけに聞えるようにぼそりと呟いた。寝耳に水の一言に私は硬直し、エリス様が隣に収まるまで身動きを取る事すら出来なかった。

「すみません」

 謝る以外に他無かった。見苦しい言い訳をして状況が好転する事はあり得ない。

「別にいいよ。僕が同じ立場なら、きっと同じ事を考える。それに……ちょっと迷ったからさ」

 ロータムは自嘲的に頬を歪め、その乾いた笑みは誰に受け止められるでもなく部屋の最も暗い場所へ流れ、堆積した。

「辛い暮らしをしてるのね」

 いつになく真剣なエリス様の声が、嫌な空気を割った。

 自然と私達の意識が彼女に定められる。

「私、難しい事は良く解からないけど、悲しそうな、辛そうな顔してるのは分かるよ。だから、私に出来る事があったら――」

「無いよ。むしろ、何もしないで居てくれたらそれで良いから」

 本当は手を差し伸べて欲しい筈なのに、彼はあえて突き放す様な言葉を選んだ。

 それは、私達ではこの状況を変えられないと彼が確信している以上に、捲きこまない様にとの配慮が透けていて、胸が詰まった。

 額面通りに受け取ったエリス様は悲しそうな表情をしたが、私が肩を抱いて慰める。

「エリス様、ここにはここのルールがあります。私達に出来る事は無いんです」

 そう言い聞かせつつ、彼に感謝の意を込めた首肯をする。エリス様はそれでも苦い表情をしたが、最後には納得してくれた。

「それで、そろそろ食事にしたいんだけどいいかな」

 ロータムは懐から例の缶詰を取り出す。随分と我慢していたのだろう。取り出すとほぼ同時に、彼の腹の虫が重低音を奏でた。エリス様もそれ見て、思い出したように小さく腹の虫を輪唱させ、恥ずかしそうに顔を赤らめて俯く。

「それじゃ、二人分に分け――」

「待って下さい。私達は……自分達の分で何とかします」

 ロータムの言葉を、私は遮った。

「でも、もう食料は残り少ないんじゃ?」

 彼は手を止めて、怪訝な表情を浮かべて顔を上げる。

「ここまで誠実にして頂いて、その上に食事まで頂ける筈ありません」

 詳しい状況を理解していない筈のエリス様も、会話の流れを読み取ったのか、深く頷いた。

 私はリュックから、残り僅かな合成肉の干物を取り出す。

 これを含めて、私達の残りの食料は約四日分。目的地までの食料としては心もとないが、少なすぎる量でもない。此方の食料を提示すると、彼も納得した様に小さく頷いた。

 干物は洗面所で調達した水をコップに入れて、その中に漬けて解し、エリス様の口に運ぶ。エリス様は固い肉を、四苦八苦しながら奥歯で噛みしめていた。ある程度回復したとはいえ、干物の咀嚼に手古摺てこずるほどに彼女は疲弊している。

 そんな私達の食事を見て、対面で缶詰にスプーンを入れていたロータムが手を止めた。

「あの、よかったらこれと交換とか駄目、ですか?」

 差し出された缶詰は、まだ半分ほど残っており、中身は柔らかそうなシーチキンだった。対して、私達が口に運んでいる乾燥肉は固く微量だ。

 明らかに、交換材料として釣り合っていない。

「……いいんですか?」

「むしろ、僕からお願い。毎日同じ缶詰で飽きてるから」

 私は彼の好意に頷き、しかし缶詰を彼の手元に押し返す。

「残すのは三分の一程度で良いです。そうじゃないと、量が釣りあいませんから」

 彼は頷き、スプーンで缶詰の中身を更に切り崩して口に運ぶ。そしておよそ三分の一が残った所で、再び缶詰を私に差し出した。私が提示した条件よりもやや量が残っていたが、そこは彼の好意に甘える事にする。つまらない事で意固地になっても良い事は無い。

 私は感謝の言葉と共に缶詰を受け取り、代わりに乾燥肉を差し出した。

 ロータムも差し出された肉を僅かに震える手で受け取る。そして恐る恐る口に運び、前歯で少し千切って、もごもごと咀嚼する。

 瞬間、彼の表情がぱっと明るくなった。こんなおいしい物は食べた事が無いという表情で無心に口を動かし、ものの数秒で乾燥肉は彼の胃の中に消えていた。

 私達はその光景に茫然と見惚れ、彼が食事を終えてようやく、手元の缶詰に視線を落とした。

 そんなにこの缶詰は味気ない食べ物なのだろうか。缶の表記を見る限り、保存期限が切れている訳ではないらしい。私はエリス様に了承を得て、先に小指で油分を僅かに掬って舌に押し当てる。

 やはりそれは普通のシーチキンで、無味であるとか、味が悪いという事は無さそうだ。本当に缶詰ばかりの生活に辟易していたのだろう。

 兎も角、ロータムの好意で交換されたシーチキンを、エリス様の口元へと運ぶ。元から身の解れたそれは、瞬く間にエリス様の口の中へと消えた。私は安堵から目を細め、エリス様も満足そうに眼を細めた。

 その傍らで、彼が不思議そうに首を傾げる。

「ジュゼさんは食べなくて平気なの?」

「……ええ、私は大丈夫です。ビタミン剤もありますから」

 私は曖昧に言葉を濁しつつ、再度感謝の言葉を述べる。

 彼はそれ以上追及するでもなく、小さく頷いて空になった缶詰を引き寄せて部屋の端に置いた。

 私はエリス様を再び毛布に横たえる。ここに居る間は、少しでも体を休ませなければ、という強迫観念にも似た考えばかりが頭を巡っていた。

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