卒業式

 

 2106年 3月25日。世田谷中学校、卒業式。

 午後3時20分。


 広い校舎で桜の花びらが舞い散る中、友達と抱き合いながら泣く卒業生も、記念にと写真を撮る父兄の姿も、さすがに疎らだ。


 式が終わってから既に1時間は経っており、金城は未だに会場となった講堂の周辺をウロウロと彷徨っていた。


「どこだよ……」


 眉を顰めながら彼方此方へと視線を走らせる金城。脳裏に先ほどの母の言葉が蘇った。


 ――私はあっち探すから、理人は此処お願いね。


「ったく……なえセンの奴。仮にも実習生なんだから他の教師陣と一緒に行動しろよな」


 知れず溜息が漏れた。

 そう、金城たちは土宮香苗を探していた。なんでも母がお礼をしたいらしく、やたらと高い茶葉を買ってきたのだ。「あれだけお世話になったのだから、これぐらいは当たり前」と鼻息を荒くしながら揚々と去っていった母を、金城が半目で見送ったのは、まだ記憶に新しい。


「……まさか母さん、なえセンを気にいったとかじゃねーだろーな」


 先程も、いつの間にかゲットしていた土宮香苗の電話番号にかけていたのを思い出す(結局、相手が出ることはなかったが)。

 面倒なことにならなければ良い、金城はそう願いながら再び嘆息を漏らした。すると、


「金城くん!」


 不意に後ろから声をかけられて金城は振り返った。


「伊奈瀬」

「土宮先生、見つかった?」

「いや、まったく」


 困ったように眉尻を下げる伊奈瀬、彼女も金城たちと共に土宮香苗を探していた。

 ふう、と憂い気に息を吐きながら、伊奈瀬は口を尖らせた。


「プレゼント、渡せないのかな……」

「いや、大丈夫だろ。まだ、どっかに居るよ。さっき、高野先生たちと最後の挨拶してたって言うし」


 土宮香苗を探している最中、担任の高野に声をかけられ、先ほどまで彼女が居た場所を教えてもらった。講堂を出たばかりだから、まだ校内のどこかには居るはずだ。


(……けどほんとうに、どこ行ったんだ?)


 探しても探しても見当たらない影に金城は頭を抱えそうになった。ちらり、と伊奈瀬の手に抱えられている小さな箱へと目を向ける。赤いリボンで綺麗にラッピングされた箱は小さく、可愛らしい。


「せっかく、金城くんと二人で選んだのに……」

「……」


 そう、それは金城たちが土宮香苗へと、受験のサポートをしてくれた感謝の意味を込めて贈ろうとしていたものだった。

 学校帰りに二人でプレゼント探しをしたときの事を思い出したのか、ポリポリと金城が頬を掻いた。どうやら伊奈瀬とのデート(?)は楽しかったらしく、頬がほんのりと赤く火照っている。


(あれは、役得だったな……)


 いつもの如く、顔をだらしなく緩ませるところであった金城。だがふと見つけた人影のおかげで、すぐさま我に返った。


「居た!」

「……え?」


 金城が振り向いた先、其処にはちょうど校門から出ようとしていた土宮香苗が居た。

 首元まで綺麗に切り揃えられた髪。その後ろ姿はいつもと違うぴったりとしたスーツを着ているせいか、華奢な身体つきが際立って見えた。


「なえセっ……土宮先生!」


 突如聞こえた大声に、土宮香苗はピタリと足を止めた。周囲の視線を一瞬だけ集めてしまったが、伊奈瀬と金城は構わず彼女の元へ駆け寄った。

 近づくたびに段々とハッキリとしてくるシルエットはやはり土宮香苗で、その顔には相変わらずのようにあのビン底眼鏡が鎮座していた。今更ではあるが、厚化粧をしていたあの頃と比べてだいぶ雰囲気が変わっている。全く逆のタイプに見えるその背格好は当初、金城にとって躊躇するものがあった。


「伊奈瀬さん、金城くん……卒業おめでとう」

「ありがとうございます」

「あ、ありがとうございます」


 いつもの(主に金城に対して)毒舌な言葉が吐き出されるかと思いきや、祝いの言葉をもらえて金城は一瞬戸惑った。

 今日の土宮香苗はやはりいつもとどこか違う。着ているスーツのせいだろうか?

 いつもは暗く、安っぽい色の制服を着ているのに、今日の彼女はやたらと小奇麗に見えた。だからか、今の彼女からは普段と違う雰囲気が漂っている。

 おまけに少し高そうなスーツは綺麗な形をしており、土宮香苗の体の曲線を美しく強調していた。

 金城は不覚にもドキッと心臓を高鳴らせた。


(そういや、このダサビンになる前……確かにいい体してたもんな)


 なんてオヤジみたいな思考をしながら、ふと記憶を辿ってみた。

 夏になる前、世田谷中学へとやってきた土宮香苗の当初の姿は本当にすごかった。最も印象的だったのはその厚化粧だったが、以外にも綺麗な身体つきをしていたことも金城の記憶に残っていたのだ。あの頃は本当にぴっちりとした服を着ていて、彼女のそのスタイルの良さをありありと見せていたが、それもあの顔と嫌味な性格のお蔭ですぐに霞んでしまった。

 確かに(厚化粧した顔以外は)見目は良いが、その性悪説ですぐに彼女は生徒から気分が萎える“残念な教師”、なえセンと呼ばれるようになってしまっていたのだ。


「……それでどうしたのかしら? 私になにか用?」


 小首を傾げながら二人の生徒へと視線を向ける土宮香苗。金城はそれでふと我に返り、伊奈瀬は彼女へと目的の箱を差し出した。


「先生。7ヵ月間、本当にありがとうございました」

「私に?」

「はい、ささやかなものですが……」


 照れくさそうにはにかむ伊奈瀬から、土宮香苗はそれを受け取った。


「開けてみても?」

「はい!」


 了承の意を貰い、土宮香苗はしゅるりとリボンを解き、箱の蓋をあける。するとそこには、


「これ、藪柑子やぶこうじ?」


 藪柑子――小さな赤い実に、緑の葉っぱ。夏にささやかな白い花を咲かせる植物の名前だ。秋に色づく実は宝石のように紅く、美しく、不思議な魅力を持っていることで知られていた。

 土宮香苗の掌に転がるそれは本物ではなく、銀細工で作られたものらしい。赤い実は硝子のような何かで出来ているようで、太陽の光を眩く反射している。


「それ、チャームなんです。ほら、葉っぱのところに鎖か紐を通す穴が開いているでしょう?」

「本当だ」


 物珍しげにそれを繁々と見つめる土宮香苗。どうやら、気に入ってくれたらしい。

 その様子を見て、伊奈瀬はくすりと笑みを零した。


「それ、選んだの金城くんなんですよ?」

「……は?」


 思わぬ方向から矢が飛んできて、土宮香苗は呆気にとられた。つい、と金城へと視線を向けると、どこか居心地が悪そうに身動ぎをしている。


「私がチャームがいいって言って、近くの小物屋さんへ行ったんですけど、なんか沢山ありすぎて、すごく迷ったんですよ……そしたら金城くんがこれはどうかって、」

「いや、その……」

「土宮先生、藪柑子の花言葉は知ってますか?」


 弾んだ声で話す伊奈瀬の問いに土宮香苗は目を少し伏せて、再び手の中に納まるチャームへと視線を向けた。その表情はどこか遠くを見つめているようで、伊奈瀬はなんだか疎外感を覚えた。


「先生……?」

「藪柑子の花言葉は……」


 ゆっくりと、その唇は言葉を紡いだ。


「――明日の幸福」

「あ、知ってたんですね!」


 優しく、暖かい意味を持つ花言葉に食いつく伊奈瀬。その時、土宮香苗が少しどこか寂しそうに笑ったことに金城は気付いた。


「なえセン……?」

「よく、知っていたわね。まさか貴方にこんな可愛らしい嗜好があったなんて」

「いや、俺は別に」


 金城がこの花言葉を知っていたのは偶々だ。実家の書庫に花言葉を綴った書物があったので、金城は其れをなんとなく覚えていた。それにその花は金城の恩人――“Faith”のシンボルでもある。忘れるはずがない。

 気まずい思いを誤魔化すように頭をボリボリと掻く金城。それを見て、伊奈瀬は可笑しそうに笑った。


「ね、そうですよね? 私も意外でした」


 今にも土宮香苗との会話を続けようとする伊奈瀬。だが、それは直ぐに講堂から出てきた職員の声によって打ち切られてしまった。


「伊奈瀬さん! 悪いけどちょっとお願いしてもいいかな!」

「え、あ、はい!」


 伊奈瀬は式の実行委員の一人だ。その頼みを断れず、彼女は渋々と名残惜しそうに土宮香苗から離れていった。


「えと、すいません……私はこれで」

「ええ、プレゼントをありがとう。嬉しかったわ」

「そんなことないです! それ、そんなに高いものじゃないし……あれだけお世話になったのに、それだけしか私、返せなくって」

「十分よ、ありがとう。大切にするわね」

「はい!」


 嬉しい言葉を貰えて、喜ぶ伊奈瀬。陽だまりのような笑顔を見せて、最後にもう一度だけ頭を垂れた。


「土宮先生、本当にありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。ありがとう」


 微かに、ほんの少しだけ口角を上げた土宮香苗を見て、伊奈瀬は少し寂しそうに笑いながら、講堂の方へと駆けていった。

 ぽつり。空気と化していた金城が心中で呟く。


 ――いや、おまえ誰だよ。


 その疑心に満ちた視線の先には土宮香苗。金城はいつになく、しおらしく、妙に優しい彼女を怪しんだ。これこそ天変地異の前触れ、明日には槍でも降ってくるのではなかろうか。

 以前とは全く違うその態度に金城は一株の不安を感じた。


(最初は伊奈瀬にだってあんな嫌味を言ってたのに、本当にどうしたんだこいつ?)


 確かに土宮香苗の伊奈瀬に対する以前の厳しげな態度は、ここ最近で、いつの間にか失せていた。


「それじゃあ、私は行くわね」

「へ……?」


 不意打ちの言葉に呆ける金城。口を間抜けにもポカリと開いた奴を置いて土宮香苗は悠然と去ろうとした。

 3メートルぐらいだろうか。それぐらいの距離が広がって、正気に戻った金城は即座に声を上げる。


「なえセン!」

「……なに?」


 まさか声をかけられるとは思わなかったのか、土宮香苗は少しだけ驚いたように振り返った。気のせいか、その口調はいつもと違うように聞こえる。

 だが金城は構わず、丁寧に彼女へと頭を下げた。


「その……なんつーか、本当に、ありがとうございました。

 なえ、じゃなくて土宮先生のおかげで行政高校に入ることが出来ました……

 本当に出来の悪かった俺を見放さず、最後まで勉強を教えてくれたことを感謝してます」


 それは心からの言葉だった。確かに彼女には色々とムカついたし、沢山ひどい目に遭わされた。それでも彼女のお蔭で金城がここまで来れたのは事実なのだ。土宮香苗という人間がいてくれたからこそ、金城は成績を伸ばし、行政高校に受かるという奇跡を成し遂げることが出来た。

 だからこそ、金城は彼女へと深く頭を垂れたのだ。その心情には彼女に対する奥深い感謝の気持ちがあり、また、彼女へ足を向けて寝られない程の恩義があったため、口からその言葉はスラスラと簡単に出た。


 いつまでも頭の旋毛をこちらへと向ける金城に、土宮香苗は少し戸惑ったように身体を揺らした。しかし、その表情は相変わらずのように能面を被っている。所在無げに泳いでいた手は自然と止まり、ソロソロと彼女が左手に抱えていた鞄へと向かっていった。黒いビジネスバッグの口へと手を差し入れ、何かを取り出す。


「金城くん」

「……はい?」


 突然名を呼ばれて顔を上げる金城。すると何かがポーン、と飛んできた。

 金城は条件反射でそれを慌ててキャッチする。


「……これ、」


 両手に収まるは透明なボックス。その中には黒いイヤホンが見えた。コードが見当たらないそれは恐らく無線式だろう。耳を覆いかぶすタイプのイヤホンは頑丈そうで、彫られた白い輪っかの中にはまた小さな円が描かれており、シンプルなそのデザインは、金城の目には格好よく映った。


「《無線通信機むせんつうしんき》。行政高校では演習とか、訓練の時とかに必要になるだろうから。あげるわ」

「え!?」


 まさかのプレゼント発言に、思わず目を剥く。

 明らかに、かなりの額が付きそうなそれは正直、受け取りがたい。何故それをくれるのかは分からないし、卒業祝いにしても、世話……と言うよりは迷惑をかけた教師(実習生)から貰うのは気が引けた。

 金城は狼狽えながら、首を振った。


「いやいやいやいや! え、は!? ちょっ、なんで!?」

「もう使わないだろうし、どっかの物置に仕舞うよりは、誰かに使ってもらった方が良いでしょう」

「っなえセン、どうしたぁ!? 春になって頭に花でも湧いたか!?」


 彼女にしてはあまりにも不自然な厚意に、金城は混乱した。


「湧いたか、じゃなくて、咲いたか、でしょう。行政高校に入っても勉強をおこたわらないようにしなさい。

 ――それじゃあね」

「ちょっっとォォォおおおお!?」

「May you be victorious。武運を祈ってるわ」


 立て続けに投下された爆弾に金城は大いに驚愕した。もう、何が何だか分からなくなって、思考が真っ白に塗りたくられそうだ。

 土宮香苗の頭は大丈夫なのだろうか、何か悪いものでも食べたのではないだろうか。

 そんな金城の心情など露知らず、土宮香苗は颯爽と去って行った。慌てふためき、終いには放心する金城。そんな茫然自失とした奴の耳に、おそらく彼女の最後の言葉は届いていないのだろう。


「ありがとう……」


 ――何を意味するのかは、彼女以外、まだ誰も知らない。



◆  ◆


 午後4時10分。世田谷中学、からの帰路。

 幾多ものビルが並ぶ街中は相変わらず騒々しく、喧しい。車道は自動車で混雑しており、その隣の歩道にはたくさんの人が歩いている。その中で一組、暗い雰囲気を負った親子が居た。


「もう、なんで引き止めてくれなかったのよ? せめて電話ぐらいしなさい。そしたらお母さん間に合ったかもしれないのに……」

「ごめん……」


 溜息を吐く母に金城は、罰が悪そうに顔を歪ませた。周りは休みになったこともあってか、人で賑わっている。四方八方から女性や、子供の軽やかな雑談が聞こえてきて金城は僅かに目を細めた。

 結局、金城は土宮香苗の豹変(?)した態度に呆気にとられ、母に連絡をすることを忘れてしまった。お蔭で件の高級茶葉は渡せずじまいで、今も母の手にぶら下がる紙袋の中で鎮座している。


「……しかも、携帯が壊れたから、番号も変わってるって、」

「……先生たちもあいつの新しい番号知らねぇの?」

「こら、“あいつ”じゃなくて先生」


 金城の失礼な物言いを母は咎めながら溜息を漏らした。


「そうなのよ、まだ携帯を買い換えてないみたいで……土宮先生、新しい番号送ってくれないかしら」

「まあ、母さんが無理やり押し付けたようなものだからなぁ……てか、携帯が壊れたってことは中身のアドレス帳とかも全部消えてんじゃね?

 あの人、うちの番号覚えてんのか?」


 とどめを刺すような金城の言葉に、母はズん、と肩を落ち込ませた。


(あ、やべ……)

「……もう、連絡もできないのね」


 名残惜しそうな母に金城は僅かに眉を顰めた。


「なんで、そんなになえセンのこと気にしてんの? 確かに茶葉を渡せなかったのは痛かったかもしんねーけどさ、伊奈瀬と一緒に俺からプレゼントも渡して、ちゃんと礼も言えたんだし……」

「そうだけど、」


 金城の言葉に母は口を少し尖らせて、ゴニョゴニョと拗ねたように言葉を紡いだ。


「だって、あんな先生なかなかいないし、やっぱりもう少し仲良くしたかったというか……」

「……はあ、」


 ――よく分からん。


 それが金城の正直な意見だ。なぜ母がそこまで彼女に固執し、また、気に入っているのか金城には理解できなかった。確かに土宮香苗は良い教師だった。悔しいが、百歩譲って認めてやろう。奴には多大な恩があるし、礼を言わずに別れるのは否める。

 だが、それでもやはり金城には分からない。一体、彼女のどこが母の琴線に触れたのか。


「寂しいじゃない……」

「……ふぅん」


 感慨なげに声を漏らす金城。その態度に母は僅かに顔を顰めた。


「なによ、理人は寂しくないの? もう二度と土宮先生に会えないのかもしれないのよ?」

「……それは、」


 完全に否定はできない、かもしれない。

 なんとなくではあるが、金城の心にもほんのちょっぴりだけ、切なさはある。毎日のように聞いていたあの毒舌的な言葉を聞くことは、もうないのだろう。そう思うと、ホッとすると同時に、少しだけ寂しさを覚えた。


(けど、俺はMじゃない)


 ギュッと拳を握りしめた。

 土宮香苗にいびられた日々は金城にとって苦い思い出であり、出来れば脳裏の外へと放り出したい記憶である。僅かに頭痛を感じはじめて、金城は空を仰いだ。そんな時だった、


反逆者リベルの行方は未だに分からず……』

「あ、」


 ふと、聞き覚えのある名称が耳元へと流れ着いた。後ろを振り向けばビルに設置された巨大スクリーンに、例の仮面が映っているのが見える。


「あ、反逆者リベルだ」

「まだ見つかってないんだー」


 傍で誰かが口を開いた。周りを見渡せば、スクリーンを見上げている通行人が何人か居た。皆、反逆者リベルに対して何らかの興味を示しているようだった。

 金城は複雑な気持ちを味わいながら、もう一度スクリーンへと視線を向けた。


(……随分と、有名になっちまったな)


 そのニュースを、名前を聞くたび、金城は少しの不安を覚えた。

 いつか見つかってしまうのではないだろうか。皆、自分を疑っているのではないだろうか、と疑心暗鬼になってしまう。

 時折、周囲の目が金城にとっては恐ろしく思えて、足が竦みそうになってしまうこともあった。


「理人?」


 再び思考を闇へと浸からせてしまいそうになったとき、自分を引き止める声がした。隣へ視線を向けると其処には不思議そうにこちらを見つめる母が居た。


「なんでもない……」

「そう?」

「おう……それより今日の夕飯は何?」

「春巻き、餃子、麻婆豆腐、ワンタン麺、ローストビーフ、寿司、ツナサラダ、と白米」

「まじで!?」

「卒業祝いと入学祝いね」

「うおっしゃぁ!」


 思わぬ豪華なメニューに金城は拳を突き上げた。それを金城の母は苦笑しながら眺める。

 金城は己の不穏な感情が少しだけ薄らぐのが分かった。


「ありがと」

「いいえ」


 小さく礼を零すと母はいつもの朗らかな笑顔を見せてくれた。

 それにホッと息を吐く。


(大丈夫だ……俺の日常はまだ、此処にある)


 もう既に足を踏み出してしまった。罪を犯してしまった。

 だからこそ、金城はもう戻れない。残されたのは何処へと続くか分からない果てしない道。それは暗く、もろく、不安を煽るような作りをしていた。

 だが、金城に与えられた選択肢は突き進むことだけ。


 行政高校が一体どのような場所なのかはまだ正確には分からない。そのカリキュラムがどれほど難しく、険しいものなのか、金城は知らない。それでも、


(……俺は、俺を、俺たちを認めてくれる“世界”が欲しい)


 ――そのためなら、どんな危険だって冒そう。


「母さん……」

「何?」

「俺、絶対に機関士になるよ」


 見つめる先、スクリーンに映るのは黒いフードを被った異質な仮面。不敵に笑うその顔は憎たらしく見えると同時に、頼もしく思えた。


 紺色へと、暗くなり始める空の下、少年は力強く笑った。


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