星の旅人

卯月

第一章 始まり

第1話 空より来たる



 ――――――――走る、走る、走る。

 人気のない石畳の裏路地を、一人の少女が美しく色素の薄い金糸の髪を靡かせながら、蒸気機関車に匹敵する速さで疾走している。病を患い、うずくまる浮浪者の老人も、男女問わず生まれ落ちた時より路地で過ごす浮浪児の集団も、あまりに現実離れした光景に目を丸くし、呆気にとられつつも、本能的に少女を避けていた。それは両者にとって幸運であり、やや遅れて少女の後塵を拝する屈強な男達にとっては不幸と言えただろう。もし浮浪者の一人でも少女の行く手を阻むか足を止めていれば、彼等はこれ以上余計な仕事に労力を割く必要が無くなる。

 屈強な男達、それも服装から察するに、このメロディア王国の王宮警護兵の制服に身を包んだ類稀なる身体能力を有する益荒男達が、一人の華奢な少女に追い付くどころか一方的に引き離される光景は、どこか冗談か滑稽な歌劇を彷彿とさせた。

 対して少女の方も余裕があるわけではない。生来運動というものとは無縁の生活を送っていた彼女にとって、生まれて初めての全力疾走は極めて大きな負担となって心身を痛めつける。いまだ余裕はあるが、このまま逃げ続けても先に根を上げるのは自分だと、誰よりも自分自身が理解していた。追い縋る集団から完全に逃れるには、一度彼等の視界から完全に姿を消さねばなるまいと現状を鑑みた矢先、おあつらえ向きに高い壁が少女の青い瞳に映る。

 高さはおよそ少女の背丈の二倍。いつの間にか袋小路へと追い立てられた少女だった。しかしながら常軌を逸した速度で疾走する少女には何の障害にもならない。彼女は一段速度を上げると、躊躇う事なく草臥れた煉瓦の壁へと突き進んで行く。通常ならばそこで足を止めねばならないが、少女は意を決して大地を蹴る。

 ―――――跳躍、飛翔、飛越。驚くべき事に3m近い煉瓦の壁を少女は一足飛びで超えてしまった。これには後に追い縋る男達も唖然とし、あらん限りの罵倒と悪態を吐いたものの、集団の纏め役がすぐさま来た道を引き返して壁の先へと回り込もうと指示を飛ばした。


「あのくそ小娘が、これで俺達の出世もパーだ」


 全速で命令遂行する配下をよそに、一人残った中年の男は誰もいない吐瀉物まみれの路地の壁に向かって呪詛の言葉をぶつけた。



 男達を撒いた少女は当面の脅威は去ったと判断したが、楽観はしなかった。相手は王宮の警護を預かる精鋭中の精鋭。いずれは自身を見つけ出すだろう。それまでにどうにかして身を隠しつつ、一刻も早くこの街から離れねばなるまい。

 憧れの自由、何物にも縛れぬ世界。この世に生まれ落ちた時より手にした経験の無い至宝の宝石。それがもうすぐ手に入る。

 この時、三つ目の壁を飛び越えていた少女は確実に油断していた。目につく脅威が視界より外れた事に安堵して気を抜いていた。それが特大の失態を生み出してしまった。


「―――おっ、赤の花柄か」


 中空に留まる自身の下から聞こえてきた言葉に気を取られて着地に失敗した。正確には勢いを殺しきれずに、前のめりで転がりながら藁山に頭から突っ込んだ。スカートの裾を腹まで捲り上げて、尻を丸出しでだ。

 これが少年と少女の初めての出会いである。後に少女は一生忘れる事の出来ない恥辱だと余人に語っていた。



      □□□□□□□□□



 藁山に頭を突っ込み、下半身だけ露出させた女性を、赤みがかった茶髪の少年は珍妙な生物のように胡乱げに見下ろしている。先ほどの独り言は、いまだに声変わりの済んでいない少年特有のやや高い声だった。おそらく歳の頃は15歳前後といった所か。手に持つ一枚の紙きれから視線を放して、空から降って来た尻に向けている。

 『良い尻だ』―――――それが色を覚えたばかりの少年の率直な感想だった。この国の、メロディア人に多い小麦のような温かみのある赤みがかった黄色の太ももと、何種類もの花が描かれた絹製の光沢のある赤地の下着に覆われた小ぶりな尻が、少年の翡翠色の瞳に映る。

 ずっと眺めていたい煽情的な光景だったが、それは叶わなかった。尻が小刻みに動き出すと、藁山に突っ込んだ上半身がずっぽりと抜け出し、藁まみれになった少女の姿が現れる。


「――――ああもうっ!!なんなのよ!!」


 体中にくっついた藁を必死で手で振り落として憤慨する少女。そして彼女は樽の上に座ってニコニコと自身を眺めている年下らしき少年と視線が交差する。途端に今までの自分の痴態を見られたと悟り、羞恥心から頬に朱が差す。


「そ、その――――見た?」


「うん。その下着、工場製品じゃないよね。しかも絹製だし、刺繍も色付けも、細部にまで拘った、それでいてぴっちりと身体に密着して布ずれを避けて機能的に作られている帝国製輸入の一級品。いやー良い物を見せてもらったよ。ありがとう」


「だ、だれもそこまで言えって言ってないわよ!!それになんでお礼なんて言われないといけないのよ!!」


 少年の言葉にさらに顔が赤くなり、たまらず少女は絶叫した。ただでさえ藁山に突っ込んでみっともなく足掻きまわる恥をさらしたというのに、その上で下着と肌を晒してしまったなど、末代までの恥である。こうなったら目撃した不埒者を殺害してこの世から恥の痕跡を抹消しなければと使命に燃えるが、それは叶わない。

 樽に腰かけていた少年が何かに気付いたのか、表通りに通じる道を凝視する。首を傾げながら、思い当たる所があったのか、少女に訪ねる。


「姉さん、誰かに追われていない?かなり鍛えた男が複数人こっちに駆け足でやって来てるよ」


「―――あ、しまった!ちょっと、貴方のせいで追い付かれちゃったじゃない!責任取りなさいよ!」


 完全に言いがかりでしかないが、精神的にも状況的にも追い詰められている少女には正当な言い分だった。本来そんな身勝手な要求に応える謂われは無いが、良い尻を見せてもらった手前、ちょっとだけ手助けしてやろうかと腰を上げて、座っていた樽の蓋を外した。その後、少女に近づいて両手で抱きかかえる。左腕で足を、右腕で背中を抱える、いわゆるお姫様抱っこという奴だ。

 突然の行動に少女はびしりと固まる。少年も騒ぎ立てる様子が無いのでやりやすいと思いながら、少女をそのまま樽の中に放り込んで蓋をした。そして何事も無かったかのように再び樽に座って地図を見始める。



 その十数秒後、先ほど少女を追いかけていた男達がやって来て、周囲を見渡して少女が居ないか探索する。


「おい小僧!ここに藍色の服を着た金髪の若い女が来なかったか!?」


「服も歳も知らないけど、赤い絹製の下着を履いた女性なら、西の壁から這い上がって来て、東の壁を乗り越えて行ったよ。あれは良い尻と脚をしていた人だった。特にシミ一つ無い小麦色の細い脚は一日中眺めていたいぐらい綺麗な脚だったよ。軍人さんたちもあの綺麗な脚が見たいから探しているの?」


 少年の言葉に椅子代わりにしていた樽の内側を叩く音が聞こえる。きっと少女が羞恥心から無言の抗議の声を上げたのだろう。そして男達も少年の微妙に的外れな言葉に一瞬面食らったが、おそらく自分達の探していた少女だと判断した。


「や、やかましいわマセガキ!お前達、聞いての通りだ。西を重点的に捜索しろ」


 それだけ言うと男達は来た道を戻って行き、少年は一人その場に残された。

 頃合いを見計らって樽の蓋を外すが、少女は立ち上がらない。少年がどうかしたのかと覗き込むと、急に少女は立ち上がって両手で少年の頭を掴んで前後に激しく振り回す。


「なに恥ずかしい事口走ってるの!!私が声を抑えるのどれだけ苦労したと思ってるのよ!!市井の人間ってこんなに恥知らずばかりなの!」


「ちょ、やめ、やめてよ姉さん。助けた相手にこれは礼儀知らずにもほどがあるよ!俺があいつ等から助けてあげたでしょうが」


 必死に抗議して年上の少女の蛮行を止めさせようとするが、彼女は聞く耳を持たない。両手を引き離そうとしても、ものすごい力でとてもではないが頭から外せない。少年はこのか細い腕がどうしてここまで剛力なのか甚だ不思議がった。

 ひとしきり暴れて落ち着いた少女は、一応助けてくれた眼前の少年に遅れながらも礼を言うが既に時遅い。しかし少年も何故少女が王宮警護兵に追われているのか気になったので、先ほどの蛮行は一旦棚に置いて質問する。


「大した理由じゃないわ、結婚が嫌で逃げてきたのよ。相手はお父様と同じぐらいの中年よ。それも私より年上の子供が何人もいる相手の後妻だったの。そんな相手に嫁ぐなんて嫌。だから警備の隙をついて逃げてきたの」


「それ大問題じゃん。しかも王宮勤めの兵士が探しに来るって、姉さんひょっとして畏き辺りの人?」


 少年の言葉に無言でうなずく。まだ藁まみれで農民かくやという風体だが、服装は間違っても平民のそれではない。動きやすさを重視した軽装だったが全て絹製である。特に胸元の金糸の刺繍は見事な出来栄えで、これ一着でも平民の一年分の給金を凌ぐ価値があるだろう。手首にも左右対に幾つもの宝石を埋め込んだブレスレッドを嵌め、耳飾りには大粒の真珠、それも極めて貴重な黒真珠が使われている金細工が。おそらく見えない部分にも相当数装飾品があり、そのどれもが超一流の職人の手による逸品に違いない。

 まず間違いなく眼前の少女は王族、もしかしたらこの国の王女の一人の可能性がある。


「私の事はもういいでしょ!で、貴方は?名前ぐらい名乗りなさいよ」


「俺?俺はただの旅人だよ。探し物があって、この大陸を西から東にフラフラしてる。名前はステル、星って意味らしいよ。歳は15だったかな」


「ふーん、結構良い名前を持ってるのね。私はク―――やっぱり無し!悪いけど名前は言えないわ。貴方には一度助けてもらったから、これ以上は私の面倒に付き合わせちゃ悪いもの」


 それはつまり自分が厄介事の元凶だと分かっていながら騒動を起こしているという事だ。これでは思慮深いのか傍迷惑なのか判断に困る。そして名前を教えたがらないのは、ひとえにステルへの配慮だろう。身分を明かせば、その時点で少年が巻き添えになる。


「分かった、なら年上みたいだから便宜上姉さんって呼ぶけど、これからどうするの?さっきみたいに兵隊が探してるから、ぐずぐずしているとすぐに見つかるよ。そもそもどこに逃げるつもり?匿ってもらえる人とか誰か居る?」


「―――全然考えていないわ。私はただ、このまま誰かの言いなりになって生きていくのが嫌なの。馬鹿みたいって思うでしょうけど、後悔はしてない。だからこのままやるだけやってみる。それだけよ」


 それはつまり勢いに任せての行き当たりばったりではないかとステルは内心呆れたが、同じぐらいに面白い人だと感じていた。それに何と言うか、このまま放ってはおけない、この人を側で見続けていたい。不思議な感情が少年の心に湧き上がってくる。決して尻の所為ではない。

 しかし現実問題として、彼女は追われている。おそらく今日の内に捕まって王宮に連れ戻されるのは想像に難くない。ステルはこの国の人間ではないが、王宮勤めの人間の優秀さはよく分かっている。だからどうにかして、この考え無しを助けてやりたいと思案する。


「―――姉さん、行く当てが無いなら俺と一緒に旅をしない?明日にでもこの王都を離れるから、当面の目的は同じだよ。一人旅もちょっと飽きたから、姉さんみたいな人がいると俺も退屈しないし」


「貴方と?……そうね、このまま一人でいたら連れ戻されちゃうか。いいわ、しばらく一緒に居てあげる。よろしくねステル」


 置かれている状況に比して上から目線な物言いは、彼女が生来人の上に立つ血脈だからだろう。あるいは年少者へ優越性を示すためかもしれないが、ともかく二人の意見は一致した。

 とりあえず落ち着ける場所を確保したいので、宿に移動しようとステルは提案し、少女もそれに同意する。そこでふとステルはいつまでも『姉さん』呼びでは都合が悪いと感じたので別の呼び名が欲しいと告げる。


「なら貴方が付けてくれない?私が考えると元の名前に影響受けそうだし、ステルの感性に期待するわ」


 挑発的な言葉に少しカチンときたステルの心に、悪戯心が湧いてくる。いっそ尻とでも名付けてやろうかと思ったが、そこで少女の瞳の色が深い海のような青だったのに気付く。その瞳には覚えがあった。


「じゃあこれから姉さんの事はキティって呼ぶよ」


「キティ?変わった響きね。でも悪くないわ」


 流石に尻扱いは怒っただろうが、ステルの表向き真面目な提案は悪い物ではなく、少女改めキティに受け入れられた。

 旅の少年ステルと家出少女キティの出会いはこうして無事に終わった。


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