第28話 どうしようもない感情をベチバーは優しく癒す
気が付いたら風間はスマホを手にしていた。
頭のどこかで、こんな時間に電話なんてしたら迷惑だと冷静な自分が忠告してくる。しかし、報告しなきゃと思った。いや、そんなこと単なる言い訳で。本当は、ただ声が聞きたかった。ただ
しばらく呼び出し音が鳴り続ける。やっぱりもう寝てしまったのだろうと、通話終了ボタンに手を伸ばしたとき。
『……はい。風間さん?』
相手が出た。恵だ。いつもより、どこかぼんやりとした声をしている。やっぱり、寝ていたのを起こしてしまったらしい。
「……ごめん。平野さん。寝てたよね」
『……風間さん? どうしたんですか?」
自分では努めて平静を装って話したつもりだったが、声の違いは隠しきれなかったのだろう。泣きそうな声をしていたのかもしれない。恵が心配するような、慌てるような声で何度か名前を呼んできた。何度も呼ばれて、ようやく次の言葉が口をついて出てくる。
「うん……。注文してた香水が届いたんだ。……やっぱり。香奈の手についていた香りは、君から借りたあの香水とシトラスの香水を混ぜた香りだった。間違いないと思う」
それだけで、彼女はわかってくれたようだった。彼女にはここまでの調査の結果は全て伝えてあったから。
『……そう、だったんですか。じゃあ……』
彼女の声は驚いたように
『風間さん。風間さん! 大丈夫ですか? いま、一人ですか?』
「うん。亜里沙は寝てる。平野さん……僕はどうしたらいいんだろう。どうしていいのかわからない。もう、何も信じられない」
声が震えて、上手くしゃべれない。
『風間さん。待っててください。私、今からそっちに行きますから』
それから小一時間後。
風間はマンションのエントランスホールにおかれた共用ソファにぼんやり座り込んでいた。どれくらいそうしていたのか覚えていないが、しばらくすると前の道路を車のヘッドランプが照らすのが見えた。マンションの前に一台のタクシーが止まる。
そのタクシーから降りてきたのは恵だった。
彼女は風間の姿をみつけると、小走りにかけてくる。
「風間さん!」
「ごめんね……こんな時間に、君みたいな若い女の子を呼び出すなんて。僕、どうかして……」
謝ろうとする風間に、恵は首を横に振った。
「風間さんが心配だったから。まるで……このまま、マンションから飛び降りてしまうんじゃないかって、心配で……」
そう言う恵に、風間は口端で小さく笑った。
「亜里沙がいなかったら、突発的にそうしてたかもしれないね」
冗談とも言えない雰囲気を感じたのだろう。恵は、そのことには触れず彼女は風間の隣に腰を下ろした。
「……やっぱり、香奈さんを殺したのは石田部長……?」
「……その可能性が否定できない」
そうは言ったが、心の中ではもう、殺したのは間違いなくあいつだろうと風間は確信していた。恭介がつけている香水は、香水としてはかなり高価な部類のものだ。たまたま別人がシトラスとあの恵が持っていた香水の両方をつけていたとは考えにくい。でも、恭介なら充分にありえる。
「あいつは、香奈の葬式にも来たんだ。式の間中、僕のことをずっと支えてくれていた。そのあともことあるごとに助けてくれた。職場では成績を競ったりしてた間柄だったけど、親友だと思っていた。でも……あいつが香奈を殺したなんて。なんで……なんでだよ……なんでなんだよ……」
そう吐き出すように呟いて風間は頭を抱えた。身体の中を吹き荒れる、どす黒い感情と喪失感。自分を保っているのすら、難しかった。叫び出したかった。大声で泣き出したかった。でも、涙はこぼれない。思えば、香奈が死んだと知ったあともしばらく泣けなかったな……なんて心のどこかで思い出す。涙が出たのは、香奈の四十九日が過ぎてからだった。亜里沙に見られてはいけないと思って、自室で泣いた。それから何度も泣いた。何晩も泣いた。
「僕は……大切なものを二つも失った。大好きな妻と、信頼してた親友と。僕にはもう、何もない……」
亜里沙はもちろん大切だけれど。彼女はいずれ、あと数年もすると自分の元を巣立ってしまう。
そうなったら、もう自分には何も残らない。
「もう誰も信じられない。僕はこれからどうやって生きていいのか、わからない。香奈が死んだあと、あれ以上辛いことなんてもうないだろうって思ったのに」
頭を抱えたまま吐き出すように呟く風間。
その肩に、ふぁさっと温かいものが被さった。なんだろうとわずかに顔をあげた風間の目に映ったのは、すぐ間近に見える黒い髪。恵が彼の肩を抱きしめていた。
「……風間さん。辛かったんですね。いままで、いっぱいいっぱい辛かったんですね。でも、いままでずっと一人で耐えてきたんですよね。風間さんは強い人だから。……ううん。亜里沙ちゃんを抱えて、強くならなきゃいけなかったから。そうして全部自分で抱えてたんですよね」
恵の体温が伝わってくる。その仄かな温かさに照らされて、少しだけ心が溶けだしたような気がした。
自然と双眸から涙がこぼれた。一粒流れると、次から次へと止めどなく溢れてくる。
「ごめん……顔、見ないで。ごめん……」
風間は恵の肩に顔を押しつけるように隠す。でも、嗚咽までは隠せなかった。それを、恵は何も言わず、抱きしめてくれた。そこにいてくれる、それだけで有り難い。今だけは身を委ねていたかった。
ひとしきり泣いたあと。風間はポケットから一つの茶色い小瓶を取り出す。その蓋を片手で開けると、雨上がりの土のような清々しい香りが漂いだした。
それが一瞬にして濃さを増すと、小瓶から溢れるように広がって彼らを包み込む。
「風間さん……いつもの、パチンってやつしなくても……」
「あれは、自分の合図としてやっているだけで。鳴らさなくても力は使えるんだ」
目をつぶると、雄大な大地の姿が瞼の裏に浮かぶようだった。大地に包まれているような安心を与えてくれる香り。
『鎮静の精油』といわれるベチバーは、その香りを感じた者を
静かに目を開けたとき、風間の心は固まっていた。
隣にいる恵に視線を向けて、柔らかく笑みを浮かべる。
「平野さん。ありがとう。僕は……これから、徹底的に調べあげようと思う。そして、あいつを追い詰める。匂いが同じでした、というだけでは警察は動いてくれない。でも、もしあいつのアリバイが嘘だったとしたら全てが変わってくるんだ。もっと証拠を固めて、なぜあいつがそんなことしたのかつきとめて。確実にあいつを立件する。すべてを償わせる。香奈のためにも」
恵は、その真っ黒い大きな瞳で風間を見上げると、こくんと大きく頷いた。
「ありがとう。君がいてくれて良かった。僕一人だったらきっと、ここまで来られなかったし、ここから進むこともできなかった」
「えへへ。あまりお役にたってる感じはしないんですけど、何かの助けになれてたら嬉しいです」
そう言って微笑む恵に、もう一度風間も笑みを返したところで、恵がクシュっとくしゃみをした。
「あ、ごめん。ここにずっといると寒いよね。うちで温かいものでも飲んでく? こんな時間だし、別に泊まってってもいいけど」
「……え? え!? 私が、風間さんちにお泊まりしてもいいんですか?」
目を白黒させる恵を見て、ああ、そうだよな、若い女性がいくら子持ちの既婚者だからって男の家に泊まるなんて警戒されて当たり前だよなと気づく。
「えっと……ソファくらいしか寝るとこないけど、それでもよければ。……変なことしたりしないから安心して」
一応、念のためにそういう風間に、恵からはぼそっと。
「……別に、してもいいですけど」
そんな呟きが聞こえた気がして、風間は思わず「え?」と聞き返した。
「な、なんでもないです。私、ソファでも床でもどこでも寝れるタチなんで。どこでだって、大丈夫です!」
そう言って元気に立ち上がる恵に、風間も小さく笑うとカードキーでオートロックを開けて、二人でエレベーターの方へと歩いて行った。
前を歩くその小さな背中を見ながら、風間は心の中でもう一度「ありがとう」と呟いた。
君がいてくれたから、一人じゃないと思えた。
――――――――――――――
【ベチバー】
熱帯で育つ2m程の草。
『鎮静の精油』と呼ばれるほど強い鎮静力のある精油です。気持ちがピリピリして、感情の起伏が激しく、過度な攻撃性があるときなどには、心の中の熱を冷まして昂った感情を鎮静し精神を安定させてくれます。
また、ストレス性のめまいや不眠、軽いうつ状態、精神疲労なども改善します。離婚や、死別など人生における大きなショックを感じているときや、自分を見失いがちで不安定になっているときにも、深いリラックスを与えて地に足をつけさせてくれる精油です。
身体への作用としては、血行を良くする作用があるので冷え性や肩こり、筋肉痛にも効果があります。
また、ベチバーは中枢神経に働きかける効果があるため、免疫力向上にも役立ちます。
さらに、もともとベチバーという植物は原産国のインドでは日よけと虫よけをかねて吊り下げたり、防虫マットとして使われてきた植物です。またロシアでは毛皮に虫がつくのを防ぐために使われていたこともあるなど、防虫効果の高い精油でもあります。
ついでに催淫効果もあるようです。軽いホルモン作用もあるため、妊娠中は使用を避けましょう。
幼児も使用しない方がいいでしょう。
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