第26話 殺菌といえばティートリー


 風邪をひいた亜里沙は、昼に卵入りのお粥とアイスを食べたあと、また自室のベッドで眠ってしまった。


 静かなダイニングのテーブルで、風間はノートパソコンを広げて仕事を片付ける。カタカタとキーボードをうつ音が響いていた。


 自分も有給休暇をとったのだから、本当は仕事なんてしないでのんびりしていてもいいはずなのだが、明日の会議の資料やら上にあげる報告書やら書かなきゃ行けない仕事が沢山あるので、パソコンに向かっていないと落ち着かない。

 職場と違って、電話や急な用事が入ってこない分、自宅の方が仕事がはかどりもする。


 そして仕事のかたわら、あちこちに電話をかけたりメールを送ったりという作業も並行して行っていた。

 例の香水を購入した顧客情報を探すためだ。二年前に個人情報流出事件を起こしているとなると、まだその生情報を持っている者もどこかにいるかもしれない。

 

 そこで都内や関東で個人情報の売買をしている業者、いわゆる名簿屋などと呼ばれる業者を中心に当たってみることにしたのだ。ネットなどでできるかぎり名簿屋をピックアップして、恵と手分けして片っ端からコンタクトをとってみている最中だった。


 電話やメールでのやりとりのほか、場合によっては実際その業者の営業所まで行って、目当ての情報が売られていないか調べたりもする。通常、名簿屋で売られている情報は、名前・住所・年齢などの情報が整理された状態で売られている。しかし風間たちが探しているのは、その元データである、あのブランドから流出した顧客情報そのもの。


 個人情報の流出は違法だが、そこから流出されたデータを流出元がわからない状態で売ることは現在の法律では取り締まることができない状態にある。しかし、さすがに流出された時のままの元データを持っているとなると、違法性はより強くなり摘発されるリスクが高くなる。


 そのため元データをもつ業者を探すことは難航を極めた。名簿屋に持っているのかどうか問い合わせても、はぐらかされたり、相手にしてもらえないことも多い。しかし、事情を話し金額をちらつかせると「表沙汰にはしないでほしいが」という条件付きで、調べてくれる業者も少しはあった。そういう細い糸のような情報をたぐりながら、風間と恵は調査を続けていた。


 正直、恵に手伝ってもらうのは、とても有り難い反面、心苦しくもある。なぜ、そこまで親身に手伝ってくれるのだろう。それを考えると、なんとなく落ち着かない。


 そうこうしているうちに、今、自宅でできそうな仕事は全て終えてしまう。あとは、職場に行って資料をさらわないとできそうにないものばかりだ。


 風間は両腕を上に上げて、軽く伸びをした。


「はぁ……まだ、こんな時間なのか。どうしよう……」


 なにげなく、室内を見渡す。週末に簡単に掃除しただけなので、リビングは結構散らかっていた。


「せっかくだから、片付けでもするか」


 部屋を片付けて掃除機をかけたあと、スプレーボトルを振ると、部屋のカーテンやソファに吹きかけた。ふわりと青くシャープな香りがあたりに漂う。


 スプレーボトルの中身は、無水アルコール5mlにティートリーの精油5滴ほどまぜて、さらに精製水45mlを加えたもの。

 ティートリーは、強い殺菌作用があるうえ、体内に入ると白血球の働きを活性化させて免疫力を高める働きもするんだそうで、掃除にも風邪の予防にも最適だったりする。


 ついでにフローリングにもティートリーのスプレーを吹きかけたあと、フローリングワイパーで拭き取れば完了。


「よし、さっぱり」


 風間は満足げに言うと、指を鳴らした。

 ほとんど消えかけていたティートリーの香りが蘇り、そのクールな芳香が床から天井へと駆け上って室内をキンと冷やしたような感覚が沸き立つ。


 精油の力が効き過ぎたのか、目にヒリヒリきて風間は数回瞬きをした。


 と、そこへ聞き慣れた呼び出し音が聞こえる。スマホだ。

 ズボンのポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを見ると、『平野さん』と表示されていた。応答ボタンを押して、耳に当てる。


「はい。風間です」


『あ、風間さん。お嬢さんの具合、いかがですか?』


 風間はフローリングワイパーを傍らに置くと、スマホ片手にソファに腰を下ろした。


「うん。幸いインフルエンザじゃなかったよ。薬飲ませたら、だいぶ熱下がったし。明日には仕事行けるかも」


『ああ、良かったですね。あ、でも、ご無理なさらないでくださいね。こっちは今日は特に緊急な案件とかきてないし。それより。電話したのは、仕事のことじゃないんです。連絡とってあった新橋の名簿業者から連絡があって。それらしい個人情報に覚えがあるから、興味があるなら売ってあげてもいいっていう返答がきたんです』


「え……ほんとに?」


 思わず風間はスマホを持ったまま立ち上がる。


『私、今日、仕事の帰りにその業者に寄ってみようかと思って』


「ちょ……待って。僕も一緒に行くから。あ……でも、今日はちょっと行けそうにないけど。僕が行くから。お願いだから、君だけで一人で行ったりしないで。あまり筋のよくない業者もあるみたいだから」


『はい。分かりました。じゃあ、次に風間さんが出社された日の帰りに一緒に寄ってみましょう?』


「うん。そうしよう」


 とりあえず、それだけ話して電話を切る。切れたスマホに視線を落として、風間はしばし考えに沈んだ。


 その個人情報に、本当に手がかりはあるんだろうか。それすらわからない。もしかしたら、単なる徒労に終わる可能性だって高い。


 犯人が、通りすがりなのか、それとも知り合いなのかすら現状ではわかっていないのだから。


 警察は、香奈があの日、私鉄の高架をくぐった先にあるコンビニに行こうとした途中で事件に巻き込まれたと考えているようだった。

 でも、その想定に風間はどこか違和感を覚えた。


 たしかに、うちから最寄りのコンビニはあそこしかない。でも、なぜあの時間に行く必要があったのだろう。その一時間後には、娘の塾のお迎えのために車で駅のほうへ行く予定になっていたはずだ。コンビニに行く必要があるなら、その途中で寄ればよかったんじゃないのか。


 なんらかの理由があって、香奈はあの時間、あそこを通る必要があった。どうしても、そう思えてならなかった。

 あの香りが、あの時、あの時間のあの場所へ、風間の意識を連れて行ってくれるようなそんな気がしていた。


 ――――――――――――――

【ティートリー】

 オーストラリア原産の低木。

 オーストラリアの原住民、アボリジニーたちが皮膚の消毒や化膿止めとして用いてきた植物です。


 強い殺菌消毒作用があり、殺真菌作用、抗炎症作用、抗ウィルス作用、殺虫効果などがあります。


 また、体内に入ると白血球を活性化させて免疫力を高め、感染症の予防や改善に役立ちます。


 キャリアオイルなどにまぜて皮膚に塗ったり、風呂や足湯などにまぜて使ったりすると、水虫、ニキビ、傷、化膿した傷、虫刺されなどにも効果があります。


 妊娠初期は避けたほうが無難かも。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る