第24話 更年期障害にクラリセージが効くらしい


 その日、マンションの管理人から「手に負えないから、どうにかしてほしい」というヘルプを受けて行った先で、恵はかれこれ1時間以上、屋外のゴミ集積場に立ち続けていた。


 理由は、目の前に居るこの人。明るい栗色に染めたショートカットの50代と思しき女性。山中さんという。

 彼女は、よくそんなに言うことがあるものだなと不思議になるくらい、ずっと喋り続けている。その内容も、始終変わらない。

 彼女のご不満のわけは『マンションに住んでいる、ほかの住人のゴミの出し方が悪い』だった。


 この山中さんこそ、実はこのマンションの管理人も手を焼いているトラブルメーカーだ。

 しかし、本人にその自覚はまったくない。

 むしろ自分は正しいことをしていて、自分がこのマンションの風紀を正さなければと使命感を燃やしている節さえある。


 ここは2DKや3DKが主流のファミリータイプのマンションなのだが、住民の一部にゴミだしのルールを守らない人たちがいることへ山中さんは酷く腹をたてていた。


 そして、それだけでは済まず、ゴミ集積場に捨てられたゴミ袋を開けて中を調べ、どこの住人の出したゴミかを特定してその部屋の前に戻したり、ときにはゴミを捨てにきた他の住人に出し方が悪いと怒鳴りつけて口論になることもしばしばだった。


 とはいえ、彼女の主張している『ゴミ出しのルールを守れ』ということ自体は別に何も間違ってはいないのだ。手段はともかくとして。

 なので、こちらとしても山中さんの心配のタネを取り除いて、彼女にはトラブルにならないようにお願いするしかない。


「ですから、私たちも住民の方にもっとゴミ出しのルールを徹底してもらうよう、周知いたしますから」


 と恵がもう何度目かわからないセリフを口にするが、山中さんはその程度のことで満足するはずもなく。


貴方あなたたち、前もそう言ってたけど全然周知されてないじゃないの。ちょっと張り紙張ったり、回覧板回すくらいのものでしょ? そんなの、あの人たちが守るわけないじゃない。そもそもあの人たち、何度言ったって守ろうとする気なんてないもの」


 と、こちらが一言いうと数倍になって返ってくる。山中さんは、イライラを募らせ、ますます文句がヒートアップしてきたところで、マンションの住人らしき外国人の男性がゴミ袋を持ってゴミ集積場にやってきた。彼は、ぽんとゴミ袋を置いて去ろうとしたが、それを山中さんが見逃すはずもなかった。


「ちょっと何やってんのよ。今日の燃えるゴミはもう収集車来ちゃったわよ。しかも、朝の8時までに出すルールになってるでしょ?」


 と山中さんは外国人の男性の手を強く引っ張る。男性の方も驚いたのだろう、聞き慣れない言語で何やら早口でまくし立てはじめた。いつしか言い合いになっている。

 え、どうしようと恵が戸惑っていると、山中さんと外国人男性の間に風間が割って入った。


「ちょ、ちょっと待ってください。この方には、あとで私たちの方でゴミ出しのルールを説明しますから」


 と山中さんに説明し、外国人の男性には英語で事情を話してその場はとりあえずゴミを持って帰ってもらった。


「まったく。最近、このマンションにも外国人たちが増えて困ってるの。あの人達めちゃめちゃにゴミを出すのよ」


「はぁ……」


 再び、山中さんの口激こうげきが恵の方に戻ってきたところで、恵の後ろから小さくパチンという音が聞こえた。続いて、スパイシーで甘みのある香りが当りを包む。また風間さんが何か精油の力を使ったんだなと恵が思っていると、目の前の山中さんの様子が落ち着いてきた。

 強かった口調も、段々トーンダウンしてくる。


「だからね、私も困っているのよ。変な時にゴミを出されると匂いとか衛生上もよくないでしょ?」


「はい。重々承知しております。先ほどの男性を含め、あまりルールについてご存じない方にはもう一度ゴミのルールについてご説明さしあげますので」


という風間の言葉に、山中さんは今度は溜飲りゅういんを下げた様子だった。


「そう……? よろしくお願いするわね」


「いつも当マンションを綺麗に使っていただいて、ありがとうございます」


 頭を下げる風間を一瞥いちべつすると、山中さんはひとまず納得したようで自分の部屋へと帰っていった。

 彼女の姿が見えなくなってから頭を上げた風間から、ほっとしたようなため息が聞こえる。


「さっきの精油、何の精油だったんですか?」


ふと、さっき香った精油、あまり馴染みのない香りだったなと思いながら恵は尋ねてみた。


「ん? あ、ああ……クラリセージだよ。鎮静作用のある精油だけど、特に更年期障害とか女性のホルモンバランスからくる不調によく効くらしいんだ。なんとなく年代的にそうかな?と思って使ってみたんだけど、あたりみたいだったね。さてと、次は彼んとこに行かないとな」


 風間はビジネスカバンから、英語と簡単なひらがなで書かれたパンフレットを取り出すと、先ほどの外国人の男性が戻っていった方へ歩いて行く。


「それ……自治体が出している外国人向けのゴミの出し方パンフレットですか?」


 恵も風間のあとについていく。彼が持つパンフレットの下方には自治体名が書かれているのが見えた。


「そうだよ。でも外国人向けってわけでもないみたいだけど。日本生まれの日本人だって漢字を読めない人はいるしね。……にしても、日本のゴミ出しルールは複雑だよね。僕なんて自分の住んでるマンションが24時間ゴミ出せるところだから、実は自分とこの自治体のゴミ出しルールがどんなものかよくわかってないしね」


 といって風間は笑っていたが、ふと真顔になって。


「でも、これからこういうトラブルはどんどん増えると思う。外国人の人たちはまだ説明すればわかってもらえることも多いんだ。ただ、日本のルールを知らなかったり、ゴミを出すルールを守らなきゃいけないっていう認識がなかったりするだけだから」


 彼らはまだ、きちんと説明して納得してさえくれれば、素直にルールを守ってくれるケースも多いという。


「だけど、ゴミ出しでトラブルのは外国人だけじゃないんだよね。あんな細かい分類ルールなんて、いちいち守ってるような余裕はない人も多いし。高齢の人がゴミを自宅に溜めてしまいがちになる原因の一つに、認知力が落ちてゴミ出しルールが分からなくなったあげくゴミを捨てられなくなるっていうのもあるらしいし」


「ああ……そういえば」


 恵は、かつて担当したゴミ屋敷に住む五十嵐いがらしさんをふと思い浮かべた。


「これからは、外国人の人も高齢者もどんどん増えるだろうし。ゴミとかのルールも段々維持できなくなって、変わっていくのかもしれないね」


「そうなったら、世の中どうなってしまうんでしょうね」


 恵は将来の日本の姿を思うと、少し重い気持ちになった。不安そうに言う恵に、風間は話を繋げる。


「社会的に弱い人たちに合わせた社会になっていくだろうね。そうならざるをえないしね。そうなったら……」


 けれど風間は穏やかに笑うと、穏やかな口調でこんなことを言った。


「きっと、今より優しい社会になると思うよ。自己責任論なんかで個人に責任を押しつけたりしない、ね」


「優しい社会……か。そうなると、いいですね」


 そう考えると、恵にもなんだか少し未来が明るく思えるような気がしてくる。


 そうこうしている間に、一つの部屋の前に着いた。先ほど山中さんが揉めていた外国人男性の部屋だ。風間は英語のパンフレットを片手に部屋の呼び鈴を鳴らした。


 ――――――――――――――

【クラリセージ】

 標高1000mくらいの石灰質・砂質の土壌で良く育つ1mほどのシソ科の植物。

 マスカットワインの風味付けにも使われる植物です。


 精神に対しては、幸福感を与え、気分を明るく高めて不安を和らげる働きがあります。


 身体に対しては、強い緩和作用があるため筋肉痛や生理痛、緊張性の頭痛などの改善に効果があります。


 また、この精油にはスクラレオールという成分が含まれており、これは女性ホルモンであるエストロゲンと似たような作用をすると考えられています。

 そのため、女性のホルモンバランスを整え、更年期障害やPMS(月経前症候群)、生理不順の緩和に役立ちます。


 それゆえ、妊娠中の方、ホルモン治療を受けている方、乳腺炎、乳がんなどの治療を受けている方は使わないようにしてください。




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