第17話 スイートマージョラムで筋肉痛をやりすごそう


「やっぱ、ないもんだなぁ……」


 恵は駅前のバス通り沿いにある小さな公園のベンチに腰掛けて、ペットボトル片手にハァとため息をついた。


 マンションからの立退き期限が迫る田中さんのために転居先を探しにきたのだが、想像していた以上に物件探しは難航していた。


 はじめは霧島エステートの管理物件から探せばいいやと簡単に考えていた恵だったのだが、残念なことにあの地域には霧島エステートが関わっている物件は少なく、あっても築年数が浅くて家賃の高いところばかりだった。


 それで駅前の不動産屋さんなどをしらみつぶしに当たっているのだが、あそこと同じくらいの家賃で契約できる部屋がなかなかみつからない。


 そのうえ、初めは営業スマイルで親身に接してくれる不動産屋さんも、住むのが恵ではなく身寄りのない高齢の男性一人で、しかも恵はその親族でもないと知ると途端に苦い顔になったり、急に「悪いけど、うちで紹介できる物件はないな」と言われてしまうこともあった。


 不動産屋さんたちが悪いのではないのは、わかっている。マンションの所有者である大家さんたちが、「この条件の人には貸さないで」といっている、その条件の中に田中さんがすっぽり入ってしまっているから断られるだけなのだ。


 そういう条件を大家さんがつける理由は、やっぱり孤独死が怖いからだろう。もし、人ひとりが亡くなってしばらく誰も気づかなかったとしたら、部屋に死臭やその他諸々のものが染み付いてしまう。


 そうなると、その部屋の床や壁の貼り替えといった原状回復費と清掃だけで100万円以上の費用がかかるうえに、その部屋は事故物件となる。しかも身寄りのない人だと、その費用の請求先がなくて丸々大家さんの負担になってしまう。


 不動産屋さんの事情も、大家さんの事情もわかる。

 でも。それでも、恵はどこかやりきれない思いを感じていた。


「そうはいってもさ……人は、みんな歳を取るのにね……」


 自分が老いたとき、果たして自分が住む家はあるんだろうか。そのとき、家族はいるんだろうか。今はまだ若くて身体も丈夫だが、もし数十年後、老いた身体で住まいを探して延々と街を彷徨うなんてことになったら、考えただけでもゾッとする。


 その思いを、いま田中さんは味わっているのだ。それは……たしかに不安にもなるし、どうしていいのかわからなくなって絶望的な気持ちにもなるだろう。


「あの部屋……よかったんだけどなぁ」


 実はついさっき入った不動産屋さんで、築年数が古いために田中さんの家賃条件に近い部屋をみつけたのだ。しかしやはり、身寄りがなく連帯保証人が立てられないというのがネックになって断られてしまった。


「残念だったなぁ。でも、もう一踏ん張り頑張るか」


 元気を振り絞って立ち上がったとき、トートバッグに入れてあったスマホが鳴った。取り出してみると、風間からの着信だ。風間も、いま、隣街を探してくれている。


『どう? 見つかった?』


 風間の声がいつもより少し疲れて聞こえる。恵は、ここまでの成果を掻い摘んで伝えながらも、さっき見つけた部屋への未練を口にした。


「あの部屋……一階にあって出入りも楽だし、同じ敷地に大家さんも住んでいるから何かあってもすぐに連絡できるし、家賃も破格で良かったんですけどねぇ……」


『いくつか僕の知っている保証会社にも当たってみたんだけど、田中さんみたいな条件だとなかなか保証会社の審査も通らないみたいだね。でもその物件、大家さんが近くに住んでいるんだ? もし、大家さんが時々様子見に行ってくれたりしたら、保証会社の心証も変わるんだけどな。ちょっと、その物件のあった不動産屋教えて?』


「は、はいっ……ちょっと待ってください」


 恵はスマホを肩に挟むと、トートバッグをまさぐって手帳を取り出し、ぱらぱらとメモを書いたページを探して連絡先を伝えた。


 その後。風間が不動産会社、大家、保証会社の間に入って上手く話をとりまとめてくれたことで、保証会社からの保証をとりつけることに成功し、田中さんは無事にその物件を借り受けることができるようになった。


 そのことを田中さんに話すと、彼は信じられないという様子で目を丸くしていた。しかも、その部屋は今住んでいるところよりもスーパーや病院などが近く、田中さんも大いに喜んでくれた。


 不動産屋さんに田中さんの付き添いとして再訪し、現地確認ののちに契約を済ませるところまで見届けると、風間と恵の二人はそこで田中さんと別れた。


 別れ際、田中さんは恵と風間の手を握ると、「ありがとう。これで、路上生活せずにすむ。助かった。ありがとう」と何度も頭を下げて、礼を言ってくれた。


 その手は固く小さくて、でもとても温かで。そこには彼の生きてきた年月が刻まれているような、そんな気がした。






「係長、ごちそうになりまーす」


 恵はフォークで切り取ったミルクレープを、口にパクリと頬張る。


 ここは駅前のカフェ。歩き回って疲れた身体を休めつつ、休憩がてらにお茶をしている。風間はブラックコーヒーだけだが、恵は小腹がすいていたこともあってレモンティーにミルクレープもつけてもらっていた。


「係長は、ケーキ食べないんですか?」


「僕は甘いのは、いいや。それより、まぁ、なんとか見つかって良かったね」


 そう言ってコーヒーをすする風間に、恵はフォークを咥えたままシュンとする。


「私から言い出したことなのに、結局、係長のお世話になりっぱなしで、すみません……」


 そんな恵に、風間は小さく笑った。


「別にいいよ。それより、こういうケースって田中さんだけじゃないんだよね。これからも、どんどん増えていくと思うし」


 風間の話を聞きながら、レモンティーを飲みつつ恵も思う。建物も人もどんどん高齢化していくのに、いまの賃貸事情がその情勢に追いついていない。そんな気がしていた。


 喉に落ちる紅茶がほっこり身体を温めてくれる。その一方で、冷えた足は疲労も重なってジンジンしていた。


「身寄りのない高齢者でも安く安心していつでも住む部屋を借りられるような体制が作れればいいんだけどな。うちみたいな管理会社にもできることはありそうなんだけど。今度、恭介になんか提案してみようかな。あいつ、一応、企画部長だし……と、それより、足痛いの?」


 テーブルの下で、足をコブシでトントンしていたのを風間に見られてしまった。


「さんざん歩いたせいか、足パンパンで。明日、筋肉痛です。きっと」


 帰ってマッサージしなきゃ、なんて思っていると。


「そうだ。なら、これあげるよ。ちょうどいいと思うし」


 と言って風間がカバンからジャムの瓶のようなものを取り出すと、テーブルに置いた。中はジャムではなく、とろっとしたオイルのようなもので満たされている。


「それ、オリーブオイルにスイートマージョラムの精油を混ぜたもの。あとラベンダーとかジュニパーベリーも混ぜてるけど。肩こり用に自分で使おうと思って作ったんだけどさ、筋肉痛にも効くし、まだ使ってないからあげるよ。嫌じゃなかったら、だけど」


「え? そんな、悪いですよ」


「別に、家に帰ればいくらでも作れるし。娘にもよく作らせられたんだ。運動部だったから」


 瓶の蓋をあけると、知っている精油の香りのほかに、スパイシーだけどどこか温かみのある香りが漂ってきた。これがきっとスイートマージョラムの香りなのだろう。試しに指で少量とり、ふくらはぎに塗ってみる。風間が指を鳴らすと、ふわりと香りが大きくなった。それと同時に、すっと足が軽くなった気がする。


「うわー! ……すごい。さっきまであんなにパンパンだったのに! ありがとうございます!」


「どういたしまして」


(いいなぁ、風間さんのその力。その力があれば、むくみも筋肉痛も治し放題。もういっそ風間さんちの近くにでも引っ越せば、いつでも頼み放題じゃない? それ、いいかも)


 なんて考えて思わず顔がニヤける恵。

 そんなこと知る由もなく、風間は「?」という顔をしてコーヒーを啜っていた。


 ――――――――――――――

【スイートマージョラム】

 20〜50cmほどの多年草。卵型の葉と白い貝のような花をつける。料理にも使われるハーブ。


 副交感神経の働きを優位にして、自律神経のバランスを調整する働きがあります。精神疲労や不安、うつ、不眠などを解消し、精神を安定させます。


 血流を良くし、炎症や痛みを抑えて筋肉を緩める効果があるため、筋肉痛や肩こり、腰痛にも効きます。


 ただし、妊娠初期は避ける方が無難です。

 また、長時間使用すると眠気を起こさせるため、車の運転時や集中したいときには向いていません。









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