第14話 火傷にはラベンダー

 秋の、ある麗らかな平日の午後。

 ノートパソコンに向かっていた風間は、営業第三係の島に近づいてくる人影に気づいた。顔を上げて確認するまでもなく、それが誰なのかは風間にはわかっている。

 そいつは、昔から一度何か気に入るとずっとそればかり使う癖があった。ファーストフード店に行けば、季節限定なんかには目もくれずいつも同じ物を頼み、靴もずっと同じブランドのものを履いていた。

 香水もそうだ。会ったときからずっと、同じ香り。

 漂ってくるシトラス系のさわやかな香りがそいつとともに近づいてくる。


「恭介。なんの用だよ」


 顔を上げると、背の高い二枚目がにっこり笑ってこちらを見下ろしていた。


「お前、すぐ気づくよな。俺が来ると」


「香水付けすぎなんだよ」


「それ、お前の鼻が敏感すぎるだけだって、ほんとに。そんなことよりさ、士郎。来週の日曜日、暇? もし暇だったらさ。バーベキュー行かない?」


 恭介は夏頃から総務の小川さんと付き合っている。それで今度、季節もいいし自然の多いところに遊びに行こうと、奥多摩のキャンプ場にバーベキューの予約をしていたそうだ。

 ところが、小川さんのお母さんが急に腰の手術をすることになり、この週末は遠方にある実家に帰ってしまうことになった。


 そんなわけで、キャンセルするのも勿体ないからと風間を誘いにきたらしい。


「人数はあとでも増やせるらしいからさ。亜里沙ちゃんも一緒にどう?」


 そういえば、バーベキューなんてここ何年も行ってなかったなと風間は思い出す。娘が小さかったころは、よく行ったものだったけれど。ここ数年はアウトドアどころか、一緒に遊びにでかけることすらほとんどなくなってしまっていた。


「亜里沙が、行くって言うなら別にいいけど」


「ダメそうなら言って。そうだ。平野さんも、一緒に来ない?」


 なにげない調子で発された恭介の言葉に、風間だけでなく、自分のデスクで仕事に専念していた恵まで驚いた様子で「え!?」と声をあげた。


「私もですか? 石田部長と、風間係長に……そのお嬢さんも一緒に?」


 虚を突かれたようにきょとんとしている恵の表情を見て、風間は、ほらみろ、休みの日にまで職場の上司に付き合いたいわけないだろという目で恭介を見る。しかし風間の予想とは違い、恵の返答は思いのほか好意的だった。


「いいですよ。私も、ちょうどその日、何もないですし」


「え……」


 驚く風間に、恭介は「部長に恩なんて売るからだ。お前の態度、わかりやすいんだよ。昔から」と、ニヤリと口端をあげてみせた。その恭介の笑みを見て、風間は気づく。風間自身も扱いに困っている恵へのほのかな感情を、恭介に見透かされていたことに。


「お前……ほんと、余計なことを……」


 風間は急に恥ずかしくなって、二人から顔を背けるようにノートパソコンに視線を戻した。






 次の土曜日は、秋晴れの良い天気になった。

 川の上流にある郊外のキャンプ場は、バーベキューを楽しむ若者や家族づれで賑わっている。


「わぁ! すっごい! それ、水切りっていうんですよね。前に、テレビでやってた! リアルにできる人いたんだ!」


 きゃあきゃと喜ぶ亜里沙の声に、恭介は得意げに笑う。

 恭介の投げた石は川の水面すれすれに飛んで三回バウンドしたあと、ぽちゃっと水の中に沈んだ。


「実家が大きな川の近くだったからね。よく弟と競って投げて遊んでたんだ」


「私もできるかな」


「やってみる? ちょうどいい石を探して……あったあった。これなんてどう?」


 恭介に渡された石を亜里沙は見よう見まねで投げてみるが、すぐに川の底に沈んでしまう。こうやって持って……などと恭介に教えてもらっている亜里沙の様子を見ながら、風間は自分の作業に戻った。


 レンタルしたバーベキューコンロに炭を入れて着火剤を垂らすと、火をつける。そこへ、炊事場で切った野菜をトレーに入れて恵が戻ってきた。


「あ……ありがとう。そのテーブルに置いておいて」


 恵はトレーを折りたたみテーブルに置くと、川岸で遊んでいる恭介と亜里沙に目をやる。


「亜里沙ちゃんと石田部長って、仲いいんですね」


「まぁ、うちにも何度も来てるしね。あいつ、僕と違って子どもの扱い上手いから」


「係長が、自分のこと『パパ』って言ってるの見るのも、なんか職場とは違う顔って感じでいいですよ」


 なんて恵が笑って面白そうに言うので、風間はちょっと返答に困った。

 そのとき。


「きゃっ……」


 川原の不安定な石に足をとられたのか、コンロのそばに居た恵がバランスを崩して後ろ向きに倒れそうになった。

 風間は咄嗟に倒れる恵の右腕を掴む。なんとか、恵がコンロに倒れ込むことは防げたが、彼女の左腕がコンロのフチに当たってしまった。


「大丈夫!?」


「だ、大丈夫で……痛っ……」


 恵が顔を歪めて、左の前腕を押さえた。コンロに触れたところがかなり赤くなっている。水仕事をするために袖をまくっていたのが災いして、素肌を直接コンロに当ててしまったようだ。


「火傷してるね。痛みある? ちょっと、こっち来て」


 風間は恵を炊事場に連れて行くと、蛇口を捻って水道の水に恵の腕を晒させた。


「しばらく冷やしてて。冷たいけど、我慢してね」


 そこへ、騒ぎを聞きつけた恭介と亜里沙もやってきた。風間は彼らに事情を話す。


「結構範囲広いし水ぶくれっぽくなってるから、念のために近くの休日診療やってるところに連れて行ってみる。恭介たちには、先に食べててもらっていいかな」


 風間の言葉に、恭介も頷く。


「ああ。わかった。亜里沙ちゃんのことは任せとけ」


「すみません、部長……」


 申し訳なさそうに頭を下げる恵に、恭介は「災難だったね。全部食べたりしないから、診察終わったらゆっくり戻っておいで」とにこやかに言うと、亜里沙を連れて川岸の方へと戻っていった。


 30分ほど冷やしたところで水道を止めると、風間はポケットから茶色い小瓶を取り出してその原液を恵の腕に振りかけた。風間が指を鳴らすと、甘みと酸味のある爽やかな香りがふわりと立ちのぼる。


「あ……この香り、知ってます。ラベンダーだ! よく、安眠グッズとかについてる香りですよね」


 恵の言葉に風間は頷きながら、患部にカーゼをあて、その上からさらにハンドタオルでくるんだ保冷剤を添えた。


「そうだね。安眠に効く香りとして有名だけど、昔から火傷の治療にも使われてきた精油なんだ。皮膚の再生を促してくれるから火傷の跡が綺麗に治るし、殺菌と痛みを和らげる効果もあるからね。と、準備できた。おいで。念のためにお医者さんに診てもらおう」


 風間は駐車場から車を出すと、助手席に恵を乗せて麓の診療所へと向かった。


 ――――――――――――――

【ラベンダー】

 シソ科の低木で、その葉と花を蒸留して精油を取り出します。

 精油は基本的に原液を直接肌につけることはしませんが、この精油は例外的に直接肌につけることのできる数少ない精油のひとつです(注:必ず不純物の入っていない100%精油を使用してください)


 その香りは自律神経系のバランスを整え、イライラや不安、うつ状態を緩和します。また、鎮静効果やリラックス効果も強いため不眠の解消にも使われます。


 古代ローマ人はラベンダーを浸した水を傷の治療に使っていました。1950年代に戦場でラベンダー精油を兵士の傷や火傷の治療、鎮痛剤として使い効果をあげたという記録もあります。このように、傷・火傷の薬として長い間使われてきました。

 この精油には、細胞の成長を促進する作用、殺菌作用、消炎作用、鎮痛・鎮静作用があると言われています。

 ほかにも、デオドラント作用や発汗作用、血圧降下作用、防虫作用など様々な作用があります。


 また、分娩スピードを速める効果があるため、出産中に使われることもある精油です。そのため、妊娠初期の方や、妊娠が安定していない方の使用は避けた方が無難です。

 安眠効果がありますが、高濃度で使うと覚醒してしまってかえって眠れなくなることもあるため、安眠目的で使う場合は低濃度を心がけてください。

 血圧降下作用があることから、低血圧の方が使用するとダルくなったりすることがあります。

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