第2話 サイプレスの鎮静


 恵は風間とともに、サポートデスクから送られてきたメールに書かれていた住所へと社用車で向かう。

 そこは、10階建ての分譲マンションだった。管理組合から委託を受けた霧島エステートが管理業務を行っている物件だ。

 まず管理人室に行って管理人から事情を聞く。20代と思しき若い管理人は、風間たちの顔をみるとホッとした様子で問題が起こっている部屋へと案内してくれた。


 なんでも、揉めているのは607号室の住人と、707号室の住人らしい。つまり、この二つの部屋は上下にあることになる。607号室の住人は707号室の住人が毎晩夜遅くに帰ってきて部屋を歩き回る足音がうるさいと言い、707号室の住人は607号室の住人が朝っぱらから鳴らすテレビの音がうるさいと言って、それぞれの部屋から苦情が出ており収拾がつかないのだそうだ。


「この部屋です」


 まず607号室を尋ねてみると、出て来たのは高齢の男性だった。数年前に仕事を辞め、今は現役時代の蓄えと年金で妻と二人、静かに暮らそうと思っていたのだという。夜寝静まったころに響く上の階の足音に困っているようだった。


 次に707号室に行ってみると、住んでいたのは若い夫婦だった。夫は去年リストラされ、今はダブルワークでなんとかマンションのローンを工面しているのだそうだ。夜遅いため朝は少しでも寝ていたいのに、朝5時ごろから大音量で響いてくるテレビの音に辟易へきえきしているらしかった。


 話を聞いた恵にも二つの家庭の生活時間の違いが原因だろうなと察しはついたが、どちらも『相手が悪い』と主張するばかりでらちが明かない。そのうち、707号室の若夫婦と話しているところに、607号室の高齢男性もやってきて、双方でお互いをののしりだした。


「や、やめてくださいっ。落ちついて」


 仲裁に入ろうとする恵だったが、邪魔だと言わんばかりに弾き出されてしまう。


「きゃっ」


 押されて後ろ向きに倒れそうになった恵だったが、誰かが背中を支えてくれたおかげで尻餅をつかずに済んだ。振り返ると、風間の冴えない顔が見えた。


「あーあ……ヒートアップしちゃってんな。お互い気づかい合わなきゃ、収まるわけないのにな」


 風間はそう、恵にだけ聞こえるような小さな声で呟くと、自分のコートのポケットをまさぐりだした。そして、そこから小さな茶色い小瓶を取り出す。


「?」


 風間が何をしようとしているのか見当もつかず恵が呆気にとられていると、彼はその小瓶の蓋を開けた。


 その瞬間、ツンと鼻を刺激する針葉樹のような青い香りがほのかに漂う。風間は小瓶を持ったまま小さく指を鳴らす。すると、小瓶から漂う香りが洪水のように膨れ上がり、辺りを濃厚な香りが満たした。恵は一瞬、自分が針葉樹の森にいるような錯覚を覚える。


「え? え?」


 しかし、その香りはすぐに消えてしまった。目の前で争う住人たちは、何も気づいてはいないようだ。


 会社を出る前にもあったけれど、あれは一体なんだったんだろうと恵が不思議に思っていると、いままでいがみあっていた住人たちの様子がみるみる変わってきた。

 つい先程まで双方掴みかからん勢いで怒鳴り合っていたはずなのに、いつの間にか両者とも声のトーンが落ちて、穏やかな声音で話し合うようになっている。


「すみません。あの時間にもうお宅は寝てるなんて気づかなくて。これからは夜は静かに歩くように気をつけます。防音のコルクマットも敷こうかな」


「こちらこそ、最近耳が遠くてね。ついテレビの音も大きくなってしまう。これからは、朝はイヤホンで聞くことにするよ」


(あれれれ!? なんだかいつの間にか解決しだしたぞ!?)


 訳がわからず目を白黒させている恵を他所よそに、住人たちは穏やかに自分たちで問題を解決してしまった。もうこうなってしまうと、恵たちの出る幕もない。


 あとは管理人に任せることにして風間とともに社用車に戻った恵は、彼に一気に疑問をぶつけた。


「なんだったんですか!? あれ。係長が何か瓶を出したかと思うと、あんなにいがみ合っていたのに急に穏やかになって」


「ああ、あれね。精油だよ。サイプレスの精油。普通に店で売ってるやつさ」


 風間はポケットをまさぐると、先程と同じ茶色い小瓶を出して恵に見せた。


「彼らにも自分たちが何をすべきかっていう答えは、すでに分かっていたんだ。でも、被害者意識と相手への苛立ちから譲り合えずにいた。それを、サイプレスの精油の力でイライラを取り除いてやっただけさ。そうしたら自分たちだけで解決できただろ?」


 風間が小瓶をコートのポケットに仕舞うと、カチャカチャとポケットからガラス同士がぶつかる音がした。あの中には他にも色んな精油の小瓶が入ってるんだろうか。


「僕は、精油の力を何十倍にも何百倍にも強める力があるんだ。ただそれだけだよ」


 荒唐無稽な話にも思えたが、二回も目の当たりにすれば信じないわけにもいかない。彼には確かに、そういう不思議な力があるようだった。恵には、この冴えない中年男性がなんだか魔法使いか何かのようにすら思えてくる。そう、二つをつけるとしたら、『香りの魔術師』。


 ここでの仕事も、案外楽しいものになりそうな予感がしていた。



 ――――――――――――――

【サイプレス】

 30mほどの常緑樹。イスラム教やキリスト教では弔いに使用したり、墓地に植えられることの多い植物です。特にキプロス(サイプレス)島では信仰の対象となっており、1000年以上の樹齢になる木もあることから『永遠』を意味する言葉が学名につけられています。


 心に落ち着きを与え、ヒステリーやイライラ、怒りを鎮める作用があります。


 収れん作用に優れ、静脈瘤に効くと言われています。また、むくみやたるみ、毛穴の開きすぎや皮脂分泌過多、赤ら顔などのスキンケアにも使われます。

 さらに、エストロゲンに近い作用をもたらすため、更年期障害や生理不順にも良い作用をもたらします。


 エストロゲン様作用があるため、妊娠中やエストロゲンにより症状が助長される症状のある方(子宮筋腫や乳腺症など)は使えません。

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