第11話 囚人のジレンマ(ゲーム理論・その1)

 今日は久々に、予定のない土曜日。


 瑞樹ものんびりした様子で、朝食にトーストを焼いてくれた。なんのことはない、バターを乗せたトースト四枚をオーブンに入れるだけなのだが、二人の好物だ。


 上手に作るコツはおそらく、バターの量。厚めにすくった固まりを、一切れにつき四カ所に置く。トーストが焼きあがると、溶けたバターがパンに浸み込んで、齧るとジュワッと旨味が広がる。


「美味しいよねー、これ」


「うん。日本の食パンで作ったらもっと美味しいけどね」


 日本の食パンは、私たちが懐かしく思うものの一つだ。日本国内どこにでも売っていて、沢山の種類があって、いい匂いがしてフカフカ。一斤、高くても二百円程度という破格のお値段。残念ながら、私が行動する範囲のスーパーでは手に入らない。


「瑞樹、食後は何するの?」


「読書。これ」


 そう言って見せてくれた本は、いつものように分厚い洋書。”Game theory”というタイトルが付いていた。


「ゲーム?」


「そう、ゲーム理論(※1)。もちろん、遊びのゲームじゃなくて研究するための理論だよ。実社会をゲームに見立てて分析するツール」


「へえ。面白そうだね」


「面白いよ。美緒、『囚人のジレンマ』って知ってる?」


「知らない」


「ゲーム理論の導入として有名なゲーム。じゃあ、ここで問題。考えてみて」


 瑞樹は食卓にノートを広げ、さらさらと何か書くと、私にくれた。



 <問題>


 以下の条件では、囚人A、Bはそれぞれ自白、黙秘のどちらを選ぶか?


 ・ある犯罪の容疑者A、Bが、軽微な犯罪により別件逮捕された。

 ・警察は、A、Bに司法取引を持ちかける。

 ・司法取引の内容は、「より重要な犯罪について自白すれば、罪を軽くする」というもの。

 ・警察はA、Bに伝える。「あなたが自白しなくても、相手が自白すれば、あなた

の犯罪は立証されるし、あなたの刑期は長くなります」。

 ・A、Bそれぞれに、共犯者に同じ条件を提示したことを明示する。

 ・A、Bは、自白か黙秘かの意思決定において、それぞれが独自に判断する。

 ・黙秘または自白、その結果による懲役は下記1-4となる。


 1.A、Bともに黙秘する: A、Bともに懲役1年

 2.Aが自白する、Bは自白しない: Aは無罪、Bは懲役5年

 3.Bが自白する、Aは自白しない: Bは無罪、Aは懲役5年

 4.A、Bともに自白する: A、Bともに懲役3年



 なんだ、簡単。答えは――


「A、Bともに黙秘!」


「はずれ」


「ええー? だって、A、B両方が黙秘した場合が一番だよ?」


って、誰にとって?」


「A、B二人にとって。だって、二人そろって黙秘すれば、二人とも懲役1年ずつで済むから」


「それは、AとBにとっての最適で、A、Bについての最適じゃない」


「そうかな……」


 なんだか腑に落ちない。


「じゃあ、Aがどう行動するか考えよう。Aだけに注目して。Aが、『Bは自白しない』と予想した場合、Aはどう行動する?」


「Aは自白する。自分は無罪になるから」


「じゃあ次。Aが、『Bは自白する』と予想した場合に、Aはどう行動する?」


「Aは、自白する」


 Bが自白するときにAが黙秘の場合は、Aの懲役は5年になる。だがAが自白すれば、3年で済む。


「この二つから、どういうことが言える?」


「Aにとっては、Bが自白してもしなくても、Aが自白した方が自分の刑期は短くなる……あれ? 最初は『A、Bとも黙秘』って思っていたのに。違う答えが出た」


「そう。『囚人のジレンマ』は、そういうモデル。複数の意思決定主体――このモデルでは囚人A、B――がいる場合に、それぞれが合理的に自分にとって最適な判断をすると、それは社会全体――このモデルでは囚人A、Bの二人だけど――にとって最適な判断にはならない」


「……面白いね、直感的には『二人とも黙秘』って思ってしまったけど」


「確かに、お互いが自白する状況から、お互いが黙秘する状況に移れば、囚人AもBもともに嬉しい。これは『パレート改善』という」


「『パレート改善』って?」


「社会の人すべての状態が良くなること。もっと詳しく言うと、ある集団に対するある資源の分配を変更する際に、誰の効用も悪化させることなく、少なくとも一人の効用を高めることができるように資源配分を改善すること(※2)」


「パレート改善の可能性があるのにもかかわらず、プレーヤーが各自合理的に行動して最善と思われる手を取ると、社会全体としては、好ましくない結果になる――繰り返しになるけど、これが、『囚人のジレンマ』だよ」


「わかった気がする。でも、なんだか難しくて、私には関係なさそうな話ね」


「そんなことはない。実社会でも、注意して観察すれば、囚人のジレンマをはじめとするゲーム理論で考えられる事象は沢山ある」


「へえ」


 そうかな。


 話がひと段落付いたので、私は食器を片付け始めた。もう少しで九時。楽しみにしているWeb小説が更新される時間だ。今日は最終回のはず。


 ニューヨーク公立図書館で日本語の本を借りられるとはいえ、数は限られる。もっと日本語の小説を読みたいな、と思っていた時に見つけたのが、『ヨムカク』というサイト。ここには様々な小説が投稿され、たまにコンテストも開催され、作者さんとコメントのやり取りまでできて、とても楽しい。


「瑞樹、私も読書するね。Web小説なんだけど、更新を追いかけてきた小説が完結予定で、早く読んでほしを付けたいの」


「ほし?」


「うんそうだよ、読んで気に入ったら、★を付けるの。それが、コンテストの一次選考に使われるの」


「コンテスト?」


「今、そのサイトで開催中なの――あっ、九時になった。じゃあ後でね」


 私は急いで寝室に向かった。ベッドの上でノートパソコンを開き、楽しい読書の時間が始まった。


 ――――――――


※1

社会や自然界における複数主体が関わる意思決定の問題や行動の相互依存的状況を数学的なモデルを用いて研究する学問。

参照URL

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%90%86%E8%AB%96


※2

参照URL  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E6%94%B9%E5%96%84

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