第22話 就職氷河期(その5)

 スマホの画面を見て、沈黙する伊藤さん。


 画面を下方にスクロールして、今度は上に、そしてまた下に戻ったのが、伊藤さんの指の動きでわかった。


「息子さん、大丈夫ですか?」


 瑞樹が心配そうに声をかける。


「……息子じゃないんです。あの、実は私、ずっと転職活動してまして――」


 まさか。


「内定の連絡が」


 そう口にしながらも、伊藤さんは呆然とした表情だ。内定をもらえたことが信じられないのだろう。


「やったじゃないですか!」


「良かったわね!」


 私と副島さんの声が重なる。


「ありがとうございます。うわぁ、信じられないです」


 ようやく伊藤さんが笑顔を見せた。


「どんな会社ですか? また司書の仕事を?」


「美緒、ちょっと静かに」


 興奮した私を瑞樹が制した。


「伊藤さん、内定先に電話する必要があるのでは?」


「そうなんです。電話に出ないのでメールしました、お時間のある時にお電話を頂けませんか、と書いてあって」


「じゃあ、ここでかけたらいいですよ。国際電話、格安の契約なので」


 瑞樹の勧めに伊藤さんは早速電話をかけ、無事、内定承諾の意思を伝えることができた。



 私たちは、瑞樹が急いで買ってきたシャンパンで祝杯をあげながら、転職活動の話を沢山聞いた。伊藤さんは、きらきらした雰囲気を漂わせながら、私たちの質問に答えてくれた。


 私と瑞樹はつい昨日、伊藤さんの雇用契約について心配したばかりだった。労働契約法と派遣法の改正で、伊藤さんが不遇な目に遭うのではと。


 でも、その心配は杞憂だった。

 伊藤さんは、立場こそずっと非正規だったが、出産後は短期間で復帰し、キャリアの空白をほとんど作らなった。そして真摯に業務に取り組み(資料の細かい分類方法や廃棄基準を作ったのは、伊藤さんなのだ)、長い時間をかけて司書としてのスキルと経験を蓄え、少しでも転職が有利になるようにと資格も取り、実力で正社員としての内定を得た。ポジションは、資料室の責任者。



「転職先、どんな会社なんですか?」


「K食品株式会社です」


「そうですか! それは、いいところに決まりましたね」


 瑞樹が言い、副島さんと私も頷く。


 そう、K食品株式会社はいい。食品関係の専門商社では、業界第一位だ。代々創業者一族が社長を務めていて、現在三代目。この三代目がとても優秀で財界での評価が高い。人柄も申し分なしだ。彼が社長になってから人事制度や業務体制を改革し、今では業界屈指のホワイト企業との評判だ。


 なぜ私が詳しいかというと、K食品株式会社の社長と知り合いなのだ。だからK食品関係の情報は、ついチェックしてしまう。社長と私は、ある小料理屋の常連で――私はグルメな副島さんに連れられて通っていたのだが――いつの間にか顔なじみになってしまった。もちろん、瑞樹も知り合いだ。


「はい、元から評判の良い会社ですけれど、面接でさらに実感しました。私が今の会社でどんな業務に携わってきたのか、詳しく質問してくれて。四十四歳まで派遣、というだけで面接すら受けさせてもらえないことも多かったんですけど、まさか管理職として採用してくれるとは」


「でも、T食品(というのは現在の勤務先。こちらは老舗の食品メーカー)は伊藤さんを引き留めようとするんじゃないですか?」


 あのK食品株式会社が伊藤さんを管理職として採用したと聞けば、逃した魚は大きかったと気付くのではないか。そもそも、T食品の資料室は伊藤さんがいたからこそ、しっかり運営されてきたのだ。伊藤さんが退職したら、落ち着くまでしばらくかかるだろう。


 私の問いに、伊藤さんは淡々とした口調で答えた。


「T食品には長年お世話になって、急に辞めるのは申し訳ない気はします。でも――やっぱり悔しかったですね。いくら経験を積んでも、資料室の改善のために努力しても、『正社員に』という打診はなかったので。だからもし引き留められても、揺らぐことは全くないと思います。紹介予定派遣ではなかったのに、勝手な言い分かも知れませんが」



 副島さんと伊藤さんが帰った後、瑞樹が食卓の片づけを手伝ってくれた。みんな、よく食べて飲んだ。


「良かったね、伊藤さん」


「そうだな。今までの努力が報われて、頑張ってきた甲斐があったよな」


「伊藤さんの転職って、経済学的に何か説明できることはある?」


「うーん、うまく思い浮かばない」


 あら、珍しい。


「そういえば、米国に派遣会社ってあるの?」


「あるけど、そもそも労働者の平均在職年数が五年に満たない国(※1)だから、日本社会の派遣システムと同等に論じるのは難しいと思う」


 そうなのか。私には難しいことはよくわからないのだけど、伊藤さんのように、ずっと非正規で働いてきたとしても、それまでの経験や努力を認められて正社員になれる人が増えて欲しい。


 そうなったら、日本社会が今より良くなる気がする。



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 ※1 

 第3章 第2節 日本的雇用システムと今後の課題  平成25年版労働経済の分析〔平成25年8月30日閣議配布〕

 P156に表あり。

 http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/13/dl/13-1-5_02.pdf

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