第26話 君が真剣そのものだからこそ

 兎みたいに真っ赤になった瞳を大きく見開いて、君がきょとんと年相応のあどけない顔で俺をぼんやりと見つめるものだから、急に気恥ずかしくなってきて誤魔化すように笑った。


『まぁ、そもそも、こんなんで彼女ができるかどうかも危ういんだけどさ……。今はどっちにしろ、ベースのことしか考えられてないし。って、もうこんな時間か。そろそろ帰んなきゃだわ』


 それまでぼうっと呆けていた君は、俺が立ち上がった途端、こっちが心配になってしまうほど慌てふためき始めたんだった。


『ちょ、ちょっと、待ってください……! クリーニング代とかっ』

『君、見たところ中学生でしょ? 俺さ、最近、短期のバイト始めて初任給はいったばっかなんだ。だから、全然、平気』

『そんな……! たしかに中学生ですけど、お小遣いはもらってますしっ』

『無理すんなって。中学生は中学生らしく、高校生に任せておきなさい』


 ほんとは初任給といっても微々たるものだったから、ほんの少しだけ無理をして、格好をつけたのだけれども。そうしてでも君に、この日アイスクリーム屋に来たことを、後悔してほしくなかったんだと思う。

 

『じゃあね。君が今度はもっと良い恋愛ができることを、俺も祈ってるよ』 


 時がゆっくりと巻き戻っていき、目の前で泣きそうになっている三村さんが、記憶の中の泣いていたあの子と繋がったその瞬間、ぞくりと肌が粟だった。


 当時の三村さんは今みたいにふわふわの茶髪でもなかったし、眼鏡もかけていなかったから、言われるまで全く思い当たらなかった。


 女の子って、こうも変わってしまうものなのか。

 愕然として、唇がわなわなと震える。


「……全然、わかんなかった。君、変わりすぎだよ」

「……遊ばれて泣いてた女の子だなんて思い出されたくもなかったから、変わったんですよ。結局自分からバラしちゃったから、何の意味もないですけど……」


 熱い吐息を漏らしながら、三村さんは眼鏡の奥の大きな瞳をそっと伏せた。長い睫毛の上に載った涙が光って、胸をじわじわと抉ってゆく。


「合格した高校が、あのアイスクリーム屋の近くにあると分かった時……もしかしたらまた先輩に会えるかもって胸がドキドキして、仕方なかったです。先輩はベースをやっているって言っていたから、新歓ライヴを観に行ったんですよ。また会えたあの日は、感動して、泣いちゃいました。生き生きとベースを弾いている先輩があまりにも眩しくて、きらきらしていて……っ」


 三村さんが、ふうと心を落ち着かせるように息を吐く。

 彼女が胸に秘めていた思いがけない真剣な想いに呑み込まれて、息苦しい。


「でもっ…………天野先輩には、もう、他に好きな人がいるんですね」

「……う、ん。どうやっても、報われないのに……その人のことしか、考えられなくて」


 自覚するたびに、鋭利なナイフで臓腑をかき回されているような激痛が走る。


 手を少し伸ばせば触れられるほど近くに、自分のせいで泣いている女の子がいてさえも、変われない。心臓を激しく揺り動かすのも、使い物にならないほどにダメにしてしまうのも、絶望的なまでにあの人だけなのだ。


「……先輩の、片想いなんですよね」

「…………そう、だね。好きになっちゃいけない人を、好きになったんだ」

「それなら、その人への想いを忘れるために、私を利用しても良いですよ」


 ハッとして、うつむきがちになっていた顔をあげる。


 目の淵にたまりはじめた涙で歪んだ視界の向こうで、三村さんは、あの夏の日と同じように大きな瞳からぽろぽろと涙を零しながら、俺をじっと見つめていた。


 危うさを感じるほどに、ひたむきな恋心。


 これ以上にないくらい真っ直ぐに向かってくるこんな想いが、俺に向けられているなんて信じられない。自分はなんて贅沢者なんだろう、とまた胸が熱く震えてくる。


 でも、君が真剣そのものだからこそ、その想いは受け取れない。

 君は、もっと自分を大切にしなきゃダメだ。


「そんなのダメに、決まってる。だって、それじゃあ君は、また幸せになれない」


 頬に涙を滑らしながらなんとか三村さんに微笑みかけた時、彼女の大きな瞳が悲痛に歪んで、見たこともない程の絶望に染まってゆくのを狂おしい気持ちで見つめる。


 それでも、今度こそ、君にはちゃんと幸せな恋を掴んで欲しいんだ。 


 今の俺にそんな都合の良いことを言う資格はないってことも、苦しいくらいに分かっているから、代わりに三村さんに背を向けた。


「……ゴメン、なさい。叶わないと、分かっていても……諦めきれないのは、私だって、同じです」


 空き教室に残された三村さんがぽつりと漏らしたそのか細い声は、俺の耳に届く前にするりと床に吸い込まれた。



 あの胸が千切れそうなほどに苦しかった木曜日からあっというまに時は流れていって、ついに運命の日曜日がやってきた。


 この一週間、学校でも、先生の顔を一目見ることすら叶わなかった。


 先生は俺のクラスの授業を持っているわけでもないし、一週間全く見かけないこともざらにある。だから、本来ならそう落ち込む事案でもないのだけれども、こうなると徹底的に避けられているのではないかと疑ってしまうのだから嫌になる。


 今日という日が、永遠に来なければ良いとすら考えた。


 そうすれば、もしかしたら先生がまた二人で会ってくれるかもしれないという、蜘蛛の糸よりも細く、淡い希望を持ち続けていられる。


 でも、今日、もし先生が来なかったら。


 永遠に出口の見えない、ねっとりとした暗闇に思考を埋め尽くされそうになりながら、一握りの希望だけを胸に、あの喫茶店に重い脚を引きずってゆく。


 会いたい。

 少しでも特別に思われたいだなんて、もう、思わないから。

 ただ、ただ、会いたい。


 もしかしたら、もう会ってすらくれないかもしれないという恐怖に打ち負かされないように、歯を食いしばりながら歩みを進めていたら。


 奇跡が、起きた。


「天野君、一分遅刻よ。私の授業に遅刻してくるなんて、良い度胸ね」


 驚きのあまり、心臓を吐き出してしまうかと思った。


 だって。


 心が擦り切れそうなほどに待ち望んでいたその人が、何事もなかったかのように喫茶店の前に立っていて、ふわりと微笑んでいる。


 艶やかなシルク生地の、一目見ただけで高級そうだと分かるネイビー色のワンピース。ほとんど無地に近いシンプルさが、逆に彼女の魔性的な可憐さを際立てているように思えた。しかも、品を損なわない程度に少しだけ胸元が開いている。そのなまめかしい程に白い首筋と、細い鎖骨に否が応でも目を惹きつけられて。たったそれだけのことで、息が上がり始める。


「せ、んせ……」


 その見る者を吸い込んでしまいそうな透明な瞳も、柔らかそうな瑞々しい唇も、華奢だけれども女性らしい丸みを帯びた手足も、全てが泣きたいくらいに綺麗で。

 

「どうして、泣きそうなっているの?」

「っ。先生は、もうここに来ないんじゃないかって、思って」

「バカね。私が、哲学の授業を途中で放り出すわけがないでしょ?」


 春のうららかな日差しに洗われた先生は、道行く人々の視線をあらいざらい釘付けにしながら、俺だけをじっと見つめた。


 それから、地上に舞い降りた天使のように微笑んだ。


「いっつも喫茶店の中じゃ飽きちゃうでしょ? だから、今日は課外授業をするわ」

「……へ?」


 目の前の先生は、今日に限って、その小さな手の先を桜色のネイルで輝かせている。それだけじゃなくて、いつにも増して可憐で、綺麗で、色気がある気がしてならないのは……俺の恋心が為せる妄想を差し引いても、お洒落をしてきたからに見えてしまう。


 課外授業、というけれど。


 これは、つまり、その………………デート、ということにならないだろうか?


「ほら、早く行きましょう?」


 !?!!?!


 先生の白い手が、さらりと俺の手を取った瞬間。


 その手のあまりの柔らかさと、彼女に見惚れていた多くの人間の殺気と羨望に充ちた眼差しに本気で昇天しかけた。

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