第24話 揺れる感情

「話が、逸れてしまったわね。ここからが、この本の一番の見所なのに」

 

 微熱の灯り始めた空気を冷ますように、田上先生は、曖昧に笑う。

 先生は、あたかも何事もなかったような顔をして時間を巻き戻そうとしていた。


 舌の根が、ひりひりと渇いて仕方がなくって。

 胸が、圧迫されるように、苦しくなっていく。


 なんで。


 あなたは今、何か、俺に伝えようとしていたことがあったんじゃないんですか。

 それなのに、どうして、なかったことにしてしまおうとしているんですか。


 それとも、これはただの俺の考えすぎで、思い上がりなんですか?


 それならどうして、何かを諦めてしまったような淋しそうな瞳で、俺を見るんですか。


 本当になんでもないんだったら、お願いだから、いつもみたいに毒舌で地獄の底まで叩き落すように罵倒してください……! こんな風に憔悴して、バカみたいにぐるぐると考えて苦しくなってる俺の目を、どうか醒まさせてくださいっ。

 

 言いたいことはこんなにも沢山あるのに、ただ、先生に熱を孕んだ瞳を向けることしかできないでいた。先生の作り物の笑顔が、その熱に溶かされるようにして、徐々に泣きそうに歪んでいく。

  

 多分、今一番楽なのは、何も変えないことなのだろう。


 先生にあわせて無理に作り笑いをすれば、きっと、簡単に今まで通りに戻ってしまう。


 でも。


 理性では抑えきれないくらい、今はどうにも、あのいつになく感情の透けて見えた先生の言葉をかき消してしまうことなんて、できそうになかった。


「…………先生。さっき、なんて、言おうとしたんすか」


 大きな漆黒の瞳が、掠れて震えてしまった俺の声に、怯えたように揺れる。


 鼓動がこれ以上にないくらいに高鳴って、先生にまで聴こえてしまいそうなくらいで。


 息苦しい程の沈黙に、圧し潰されそうになった後。


 ややもして、一度、ぎゅっと瞑った後の先生の瞳には覚悟が灯っていた。

 

 そして。


 先生は、望んでいたものとは正反対の言葉で、俺の胸を刺し抜いた。


「……だから、なんでもないって言ったでしょう? 天野君は私の生徒で、それ以上でも以下でもない」


 ぴたりと、ざわついていた心臓がとまった。


 時を止められてしまったかのように固まってしまった俺から、その小さな顔を隠すようにして先生が立ち上がる。


「……ゴメンなさい。随分と中途半端だけれども……今日は、この後、雪乃と約束しているの。そろそろ、行かなきゃ」


 嫌、だ。

 行かないでくださいって、その細い腕を掴みたかった。


 でも。

 残酷なほどに、俺には何の資格もなかった。

 その手を取ることはおろか、言葉で引きとめることすらも、赦されない。

 

 だって、これは、受けてしかるべき当然の罰だった。


 田上先生の華奢な背中がどんどん小さくなっていくのを、焼き切れそうなほどに見つめていた。眦にたまってきた涙が、重力に引っ張られて頬を滑り落ちてゆく。


 こんなの、前々から分かりきっていた、当たり前のことだった。


 先生にとって俺は、あの学校の何百人といる生徒の内の一人でしかないなんて、あまりにも分かりきっていたことだったのに。


 どうして、少しは特別に思われているかもしれないだなんて勝手に期待して、先生の唇から望む言葉を引きずり出すような真似をしてしまったんだろう。


 本当に、どうかしている。





「天野先輩っ。ちゃんと、私の話を聞いていましたか?」

「へっ? あっ……ごめん、ちょっとぼうっとしてた」


 三村さんが赤い眼鏡越しのフレームから、訝しむように俺を見る。


「むーっ。先輩って、いっつもそんなにぼうっとしてるんですか?」 

「ホントにごめんって……! 最近、あんま寝れてなくて」


 手を合わせて謝ってみたけれど、そんなに簡単に機嫌をなおしてくれるほど女の子という生き物は甘くないようだ。


 目の前の三村さんは未だに面白くなさそうに、頬を膨らませている。その様子が、なんだかひまわりの種をほおばったハムスターみたいで和んでしまったけれど、そんなことをうっかり口にしようものならまた怒られそうだから、とりあえず黙っておく。


 虚ろな頭でぼんやりと、強引に始まった三村さんとのこのランチタイムも、もう四日目を迎えるのかと考えたりする。


 ということは。


 先生が立ち去ったあの日曜日から、もう四日も経つということだ。


 他人に言われるまでもなく、自分でも嫌になるくらいにおかしくなっているという自覚はある。


 あの日の出来事が、未だに、心臓に喰い込むように突き刺さっていた。血だらけになって必死で抜こうとしたけど、びくともしないのだからほとほと困っていた。

 

 まず、何をしようとしても全く身が入らない。


 大好きなベースを親に取り上げられているということすらもどうでもよくなってしまっているという危機的状態だった。


 先生と別れたあのすぐ後は、これまでに味わったこともないような酷い虚無感に襲われて、何もできなくなって部屋でずっとうずくまっていた。


 ぽっかりと大きな穴の空いた心に、先生のキツい眼差しと、はっきりとした拒絶の言葉が交互に襲ってきて、全身が炎で炙られているみたいに汗ばんだ。

 

 一晩寝て流石に少しは落ち着いたけれど、それからも後遺症のように、魂の抜き取られた人形のようになってしまった。あの日から俺は、ずっと、どこかぼうっとしている。


 あの日以来、学校でも、先生と一度も顔を合わせていなかった。

 でも、今は、それが救いでもあるような気がした。


 まるで、先生が俺の前から立ち去っていったあの日に、心だけが置き去りにされてしまったみたいだ。


 だからこそ、三村さんが月曜日のお昼休みに俺の教室まで押しかけてきたことにすら、さほど驚けなくなってしまっていた。


『先輩! 一緒にお昼ご飯を食べましょうっ』


 ぴかぴかの制服をまとった可愛い新入生の女の子が、二年生の教室の中まで堂々と入ってきただけでも事件なのに、その上、誘う相手が地味な俺。


 これを、事件と呼ばずして何と呼ぶ。


 実際、その注目され度といったら、クラスメイトからの好奇の視線で串刺しになりそうな程だった。目の前でにっこりと微笑む三村さんに、正常な俺だったらきっとものすごく慌てふためいて、たじたじになってしまっていたと思う。


 でも、そんな大事件すらも、些細などうでもよいことに思えてしまった。

 だから、ドキドキして顔を真っ赤にするどころか、あまりにも平常心で、さらりと対応してのけていた。


『あ、うん。ここだとちょっとうるさいから、とりあえず外出ようか』


 三村さんは、クラスメイトの野次を鎮めるでもなく随分と落ち着いた様子で対応する俺にきょとんとした後、嬉しそうにこくりとうなずいた。


 その後、適当な空き教室に着いた俺たちは、もぐもぐとお昼ご飯を食べながらぽつりぽつりと会話をした。


 基本的には、三村さんの好きなバンドや、軽音部に入ったらやってみたい曲を俺が聞いているのが主だった。


 でも、このどうかしてしまった心では、何を言われても「うん」とか「そっかぁ」とか中身のない返事をすることしかできなくて。お昼休みが終わって、三村さんと別れた後になってようやく、目の前にいる彼女に全然向き合えていなかった罪悪感でつぶれそうになった。


 それでも、三村さんは、そんな俺に愛想をつかしてしまうことはなかった。

 その日から、彼女は、昼休みになると必ず俺を教室まで迎えに来るようになった。


 そんな奇妙な彼女とのランチタイムも、もうこれで、四日目になる。


 これ以上にはないというくらいに雑な返事をし続けている俺に対して、目の前の三村さんは、今でもめげずに意思疎通をはかろうとしてくれている。

 

 それが泣きそうになるくらいに申し訳なくて、でも、どうやっても応えられそうになくて。


 もう、心が限界だった。


「ギターって、たくさん弦があって押さえるの大変じゃないですか。ずーっと練習してると、指が痛くなってきちゃって。むうー、練習し続けてれば、分厚くなりますかね?」

「ゴメン、三村さん」

「えっ?」

「本当に、本当にゴメン。でも、もう、やめよう。三村さんも、こんな俺と話してても、絶対つまんないっしょ」

「……っ」

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