第22話 白熱する愛の議論

 愛する人の前でこそ、人は最も格好良く、美しくありたいと願う。


 どんな臆病者をも勇気ある者へと変える力があるからこそ、愛は称賛に値するというのが、一人目のパイドロスの主張。


 そんな彼に対して、パウサニアスは、ひとくちに愛といってもすべてが称賛に値すべきものではないという。人をダメにする悪しき愛もこの世には存在するのであって、愛し合うものを互いに高めあえるものこそ善い恋愛であると彼は主張した。


 どちらの主張も、想像以上に腑に落ちてしまって、驚く。


 そこには、今しがた恋ってなんだろうとガキ臭いことを考えていた俺でも、たしかにそういうものなのかもしれないと頷いてしまうだけの説得力があった。


 これが二千年も前に行われていた愛の議論だなんて、到底、信じられない。


 しかも、この二人の主張は結論でもなんでもなくて、序の口も序の口らしい。


 初っ端からこれだけの高水準で始まるこの議論。

 その終着点は……? と、興味を掻き立てられずにはいられない。


「その次の人は、なんて主張をしたんすか?」


「三人目のエリュクシマコスの主張は、前の二人に比べて少しだけとっつきづらいかも。彼は、善き愛と悪しき愛に区別して考えたパウサニアスの説を発展させていくのだけど、大胆にも、エロースは世界全体の本性であるとまで述べてしまうのよ。彼は、エロースとは、美しい人々に向けて起こる心の反応というだけにとどまらず、あらゆる動物や植物を含めた全ての事象に対して働いているものなのだと話を飛躍させていくわ。随分と風呂敷が広がってしまったように感じられるけれど、実際にエリュクシマコスは、前の二人が述べていたように、所謂人間の抱く恋心という意味でのエロースについては触れていないのよ」


「む、それは個人的にはちょっと残念っす……。じゃあ、その次の人は?」


「ふふ。天野君も、『饗宴シュンポシオン』の世界に魅入られちゃった? 四人目のアリストファネスは喜劇詩人なのだけど、詩人らしく、恋の捉え方もトリッキーで惹きつけられてしまうわ。彼の神話によれば、太古の昔、人間は男と女と両性をあわせもつアンドロギュノスという三つの性に分かれていたのだそうよ。太古の人間の身体は、真ん丸だったわ。手足はそれぞれ四本ずつ、顔も二つくっついていて、まるで二人の人間をぴったりとくっつけたような姿をしていたのですって。でもね、この太古の人間たちはあまりにも強大な力を持っていたから、神々に反抗してしまったの。怒った神々は、最初は人間という傲慢な種族を根絶やしにしてしまおうと考えたのだけど、絶滅させてしまったら、自分たちへの信仰と供物も一緒に葬られてしまうことに気づいたわ。絶滅はさせたくないけど、厚かましい振る舞いは止めさせたい……と悩む神々に、大神ゼウスが妙案をもたらすわ。人間の身体をまっぷたつに分断し、奴らを弱体化させてしまえば良いのだとね。こうして神の裁きが下り、人間が元来もっていた丸い身体は、真っ二つにちょんぎられてしまったわ」


 なるほど……!? 


 これまでの議論からは予想だにしなかったとびきりファンタスティックな主張に、眠っていた厨二心がうずいて仕方ない。


 正しいかどうかという以前に、まず面白い。

 

 興奮ゆえに自然と拳を握り締めていた俺は、アリストファネスの語る神話世界を頭いっぱいに広げながら、自信をもって先生の瞳を見て応える。

 

「それで、分断されちまった人間が、今の俺らの姿というわけですね?」


「ご名答! 分断されてしまった人間たちは、失った半身を焦がれるように追い求めて、腕を巻き付けあった。でも、とにかく盲目に一体化しようとした彼らは、ただ抱き合ったまま食べることすらしなかったから、どんどん死んでいったの。このままだとやはり人間という種は絶滅してしまうと考えたゼウスは、もともと後ろの方にくっついていた人間の生殖器を移動させて、男性と女性による性交渉によって子孫が残せるようにしたのよ。こうすれば、種を存続させていくことができるわね。それに、男性同士の場合でも性的な満足を得ることはできる。こうして、人間の中に、互いを求めあうエロースが生まれたというのがアリストファネスの主張よ。私たち人間は、元来二人で一人だった。この太古の姿の回復を求めて失った半身を恋い慕う欲求こそがエロースであり、この神に付き従ってこそ私たち人間は幸福になれるというわけ。中々にロマンティックじゃない?」

 

 なんというか……想像を遥かに超えた壮大な愛の起源論だ。


 その壮大なスケールに呑み込まれて、その説が正しいか否かを考える余地すら奪われてしまうくらいに。


 愛とは、太古の昔に失った半身を追い求めて、一つになろうとする強い気持ち。


 だからこそ、愛とは、頭ではなく心で分かるものだということなのだろうか。

 遥か昔に失った記憶に、呼び覚まされるように。


 人はそれを、運命の恋と呼んだりするのだろうか……?


 目の前の田上先生は、俺が血管にそよそよと小魚が泳いでいるような不安定な気持ちになっているこんな時に限って、花咲くように可憐に微笑む。


「アリストファネスの主張も中々に読みごたえがあるけれど、五人目のアガトンの主張は別の意味で素晴らしいわ。彼の主張は、この五人の中でも群を抜いて、最も美しく修辞的に飾り立てられているの。魅力的な比喩の数々によって、天上に舞い上げるようにエロース神を賛美する様は圧巻よ。彼はその主張の最後に、仕上げとばかりに、思わずため息が漏れ出てしまうほどに美しい賛美の詩を述べるのよ」


 頬を薄紅色に紅潮させながら、先生は、アガトンの紡いだ詩を脳裏に思い浮かべるようにそっと瞳を閉じた。瞳を閉じた先生の細面は、巫女のように清らかな神聖さが滲んでいる。


 その桜色の唇が、一つ一つの言葉を大切に、丁寧に繋いでゆく。

 今正に、アガトンの言葉を蘇らせようとするように。


『(この神エロースは、)艱難のさなかで、震撼のさなかで、念願のさなかで、

 弁論のさなかで、最良の導き手にして、守り手にして、助け手にして、救い主。

 神々と人間すべてを飾り立てるもの。

 最も美しく、最もよき指導者。

 人はみな、美しき賛歌をうたいながら、この神につき従わなければなりません。この神の歌う、神々と人間すべての心を魅了する歌に声を合わせながら――』


 先生がゆっくりと言葉を紡ぎ終えた時、何の変哲もないこの喫茶店が、あっという間に厳かで神聖な場所に塗り替えられてしまったような気がして、心臓がドキドキした。


 ゆっくりと瞼を押し上げた先生の双眸のあまりの透明さに、息を呑む。


「今私が口にしたのは、彼の紡いだ詩のほんの最後の部分だけど、少しは雰囲気が伝わったかしら。うっとりとため息が漏れ出てしまうほどに素敵でしょう? この本に出てくる人々も、みな口々にアガトンを誉めそやしたわ」


 言葉も出せないくらいに、未だに心臓が脈打っていて。

 代わりに、こくりとうなずいた。


「でもね、皆が無条件でひれ伏してしまったほどに美しいアガトンの詩にも、決して屈しなかった強者が最後にラスボスとして登場するのよ。そんな彼は、美しく言葉で飾り立てることに関しては、アガトンに快く負けを認めるわ。でも、そんな風にいくら極上の珠のような言葉の数々でエロースを飾り立てたって、エロースの本当の姿は見えてこないだろうと主張するの」


 なるほど。


 熱に浮かされたようにぼうっとしかけていた頭でも、はっきりと、この流れには覚えがあった。もはや、細胞レベルにまで刻み込まれてきた、お決まりの流れだ。


 プラトン作品で、常に一番良いところを掻っ攫っていくのは、もちろんあの人以外にありえない――


「その人が、ソクラテスなんですね」

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