第20話 ソクラテスの熱狂的な弟子


 恋と哲学!?


「そうなんすか!?」


 まさかの予想だにしなかった組み合わせに驚いて、小さく叫んでしまった。

 これ以上にないというくらい興味津々に喰らいついた俺を見て、田上先生は満足そうに桃色の唇の端を吊り上げる。

  

「そうよ。しかも、私はその哲学者の名前を、もう既に天野君の前で一度口にしているわ」


 しかも、もう既に、俺が名前を聞いたことのある哲学者……!?

 

「と、言われましても……ソクラテスとプロタゴラスしか出てこないです」

「流石は天野君。不出来な生徒程、教え甲斐があるわね」

「あたかも褒めているような口ぶりで貶さないでください……!」


 恨めしい声を出す俺に、田上先生はころころと鈴を鳴らしたような声で笑う。

 でも、なんだかこの清涼な声に貶されることにすら馴染んでいる自分も心のどこかにいて、空恐ろしい気持ちになった。いや、これは気のせいだ。俺には虐げられて喜ぶような性質は断じてないはずなんだ……!


 俺のひそかな憔悴など知る由もなく、先生はこの上もなく楽しそうに話を続けていく。


「天野君一人で悩んでいたらあっという間に日が暮れてそのまま解散する時間になってしまいそうだから、ヒントをあげるわ。『プロタゴラス』という本を書いた人は、誰だったっけ?」


 『プロタゴラス』を書いた人……!


 どんな時代・場所でも通ずる絶対的な真理は存在しないという【相対主義】を説き、当時のギリシャにおいて当代随一の知者と称されたというプロタゴラス。

 先生の語ってくれた内容は隅々に至るまでくっきりと覚えているのに、今問われている肝心のその著者の名前は、霞がかっていて朧気だった。


 たしか、名前の最初の文字が、プロタゴラスと一緒だったような……?


 ああ、喉まで出かかっているのに、中々出てこない! タンスの引き出しが物でつかえてしまって、すっと引けないあの感じだ。


 死ぬほどもどかしい気持ちに襲われながら、うーん、と首をひねる。


「たしか、名前の最初にプがついたことは覚えてるんすけど、その先があと一歩のところでどうしても出てこなくって…………あっ! あと、もうちょっとで出てきそうだから絶対に言わないでくださ「そう、プラトンよ。よく思い出せたわね、偉いわ天野君」」

「あああああああああ……!!! 今の、絶対、わざとでしょ!?」

「もちろん、わざとに決まっているじゃない。ふふ。本当に、予想以上に良い反応をしてくれるものだから、天野君といると退屈しないわ」


 本当に、あともうちょっと待ってさえくれれば、ちゃんと自分で思い出せてすっきりアハ体験になりえたのに……! と恨み言を言いたい気持ちでいっぱいになりながらも、目の前の先生が無邪気な子供のように笑っているのを見ると、あっという間に毒気を抜かれていく。


 まあ、先生が楽しそうだから良いか……と、いつも簡単に流されてしまう俺はかなりのちょろい男だとそろそろ認めざるを得ない。


 でも、目の前で、文句のつけようのない美人先生にこんなにもあどけない表情で微笑まれて、ひれ伏さない男がいるだろうか? いや、いない。こうやって自分を正当化することにですら手慣れつつある恐ろしい事実からは、全力で眼を逸らす。


 田上先生の大きな瞳が夢見る少女のように閉じられた時、その大きな瞳を縁取る睫毛のあまりにの長さに見惚れてしまった。


 真珠の肌がほんのりと桜色の上気していく様子を見て、先生が哲学熱弁モードに切り替わったことを確信したのと同時に、俺の心もわくわくと浮き立ってきた。


 今日の先生は、一体、どんな話をしてくれるのだろうか。


「プラトンは、紀元前427年に生まれた古代ギリシャの哲学者よ。本名はアリストクレスというの。このよく知られているプラトンという名前は実は本名ではなくて、図体が大きくて肩幅が広いという意味のあだ名なのよ。要は、天野君が、軽音部所属の地味眼鏡と呼ばれているのと一緒ね」

「そんな不名誉な呼ばれ方はしていないし、仮にもそう呼んでいる人間がいるとすればあなただけです……!」


 というか、そのフレーズ自体、ものすごく久しぶりに聞いた気がする。


 田上先生と初めてこのカフェで邂逅を果たしたのはつい数週間前のことだけれども、この間に様々な問題が怒涛の勢いで勃発したからかとても懐かしく感じた。


 そして、最初は度肝を抜かれるほどに驚愕させられた目の前のこの人の毒舌は……着実に、会うたびごとにレベルアップを遂げている。


「そういえば、真偽の程は定かではないのだけれども、その軽音部所属の地味眼鏡がなんと女の子から愛の告白を受けたそうよ。もしそれが本当の話なら、軽音部所属の地味眼鏡から、軽音部所属のモテ眼鏡に昇格ね」

「本人を目の前にして神妙な顔つきで言わないでください! ああ……突っ込みどころがあまりにも満載過ぎて、もはや俺の手には追いきれない領域に入ってきました……」

「そ、そんな……! どんなボケにもキレよく突っ込んでくれるところだけが、天野君の唯一の存在意義だったのに……! ツッコミスキルを失った天野君なんて、苺の載っていないショートケーキくらいに残念だわ」

「うわ、想像を絶する残念さだ……! って、ちょっと……!! 勝手に存在意義をそんなちっぽけなものに規定された俺の悲しみはどうしてくれるんですか!?」


 先生の中での俺に対する認識の方こそ、想像を絶する残念さだよ……! 

 

 ツッコミ過多による疲労でぜえぜえと息を吐いている様子の俺を見て、田上先生は、上品にくすくすと桜色の微笑をこぼしている。最近ひそかに思っていることだけれども、俺をからかっている時の先生は、哲学について語る時並に生き生きしているような気がしてならない。


「さて。天野君いじりはこれくらいにして、そろそろ本題に入ろうかしらね。このプラトンという人は、二十歳の頃にソクラテスに出会って弟子となったの。ところで、無知の知をはじめとして膨大な思索を後世に遺しているソクラテスだけれども、実は、彼自身は一作たりとも著作を遺していないのよ」


「ええっ! あれだけの膨大な思索を遺しているのに、そんなことがありうるんすか!?」

 

「驚くでしょう? でも、ホントなのよ。今を生きる私たちがソクラテスの叡智を知ることができるのは、プラトンの三十作以上にもわたる著書によるところが極めて大きいわ。ソクラテスのことを熱狂的に師事していたプラトンの初期の著作は、ソクラテスの問答を多くの人に伝えることを目的としたものだと言われているの。天野君も、私の有難い教えを克明に記録に残して、より多くの人に自分の受けた感銘を布教してくれても良いのよ」

「……遠慮しておきます」


 これまで先生から受けた教えには実際にものすごく感動したし、ノートには取っていないけれども、心の深い部分に刻みこまれている。かといって、実際に先生とのやり取りをノートに取るようなことをしたら、その半分ほどは見事な毒舌で埋め尽くされることになって見るに堪えない代物ができあがるのは想像に難くないから、絶対にやらないけど。


尊敬する師ソクラテスの思索を世に広めようと邁進していたプラトンだけれども、後の作品では彼自身の思索を展開していくようになるわ。そして、ここが少し分かりづらいところなのだけれども、プラトンの著作は全ての作品においてソクラテスが登場して問答する形式をとっているの。ソクラテスの思索も、プラトンが独自に産み出したと思われる考えも同じように描かれているからこそ、明確にソクラテスとプラトンの思想を判別するのは難しいともいわれているわ」

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