第13話 話が無駄に長い相手へのとどめの一言

「この本では、五十代後半のプロタゴラスに対して、ソクラテスは三十六歳ころに設定されているのよ。ソクラテス側からすると、年齢的にも立場的にも、圧倒的に上の立場に君臨している相手と対峙していることになるけれど、ソクラテスが少し過剰とも思えるほどにプロタゴラスに対して下手に出ているように感じられるのは、そういう事情もあってのことなの。『プロタゴラス。あなたは、【徳】なるものを人に教えてその謝礼を受け取っていると聞いておりますが、果たして【徳】とは人に教え授けられるものなのでしょうか? 無知な私めにご教授ください』 誰でもこんな風にお願いされれば悪い気はしないわね。プロタゴラスも鼻高々に『それは、もちろん可能である』と答えて、それはもう長ったらしく講釈を垂れるの。でも、ソクラテスは、その無駄に長ったらしい割に、肝心な要点を得ない解答にどうも納得することができなかった」


 自分の得意分野について教えを請われれば、誰だって嬉しくなって心が飛び跳ねる。いざそんな風に頼まれたら、『待ってました!』とばかりに飛びついて、語りだしたくなってしまうのが人の性だ。しかも、簡潔に言えばたったの一言で済むようなことを、長々ともったいぶって語ってしまったりする。プロタゴラスの気持ちも分からないこともない。


 でも、長い話を聴かされている側としては、よく舌が回るなぁと圧倒されて目を回している内に気がつけば話が終わっていて、『で、結局、あいつは何が言いたかったんだ?』と首を傾げてしまうこともしばしばだ。


 そうはいっても……、


「自分の方が若造で立場的にも下だけど、だからといって彼は決して相手の話を鵜呑みにはしないんすね」


 自分よりも何十年も生きている上に、世間からもその功績を称えられているひとかどの人物が堂々としゃべり終えた後に、あえて水を差すようなことを言うのは想像するだけでもかなりの勇気がいることだろう。

 

 自分の頭で考え抜いて、本当に納得できたことをのみ信ずる。


 それは、相手がどれだけ目上の人であろうとも、絶対に揺らがない。

 一見ひょうひょうとしているように見えなくもないのに、その胸に秘めた熱く燃え滾るような信念は、断固として誰にも曲げさせない。

 

 ソクラテス、冷静に格好良すぎないか?


 ゲームの話でも、漫画の話でもなくて、こんなにも格好良い人がこの世界に本当に生きて存在していたということに驚く。


「ここから、さらに激熱な展開が待っているのよ! プロタゴラスの説明を聴き終えたソクラテスが、『大変丁寧に説明してくださってどうもありがとうございます、とても勉強になりました。しかし、プロタゴラス。あなたの考える【徳】とはそもそも一体、何なのでしょうか』と問い詰めるのよ。このあとプロタゴラスは、徳について長々と論じることになるのだけれども、彼がようやく説明し終えた後、ソクラテスはナイフのような鋭さをもって、斬りこんでいくのよ!」


 その瞬間、田上先生の瞳がキラリと音が出そうなほどに理知的に輝いて、思わず息を呑み込んだ。


 まるで、すっかりソクラテスに魂を乗っ取られてしまったかのように、先生は熱弁をふるう。


「『プロタゴラス。どうも私は、あまりもの覚えの良くない人間でして、人に長い話をされると、何の話だったか忘れてしまうのです。だから是非、忘れっぽい私のためにも、もっと答を切りつめて、短くしてください。あなたは討論にかけては誰にも負けない腕をお持ちなのだから、長々とお話することだけに限らず、短く端的にも答えられるでしょう』とね」


 凄い。


 あなたは素晴らしい腕をお持ちなのだから、未熟な自分に合わせることだって当然できますよね? と無邪気を装って相手を着実に追い詰めるなんて、実に頭が良い。


 何か偉そうに語ってくるけど、いまいち何が言いたいのか分からない。

 そういう相手を手短に刺し抜ける、鋭い発想だ。


 しかも、これほど賢いことを思いつくソクラテスが、本当に忘れっぽかっただなんてことは絶対にありえない。プロタゴラスからしたら、相当、厄介な相手だっただろう。


 田上先生は俺がしきりに感心しながらこくこくと首を縦に振っているのを見やると、嬉しそうにますます口元を綻ばせた。


「これに対してプロタゴラスは、『ソクラテスよ。そうはいっても、もし私がその都度、相手の希望の方法にあわせて話をしていたら、議論に打ち勝ち続けて、これほどまでにプロタゴラスの名をギリシア中に広めることはできなかっただろう』と渋るのだけれども、二人の話をずっと聴いていた他の若者から、『しのごのいってないで、ソクラテスの言うように一問一答式に応じなさい。私も、長々と喋って相手を煙に巻いてしまうようなやり方はどうかとおもいます。プロタゴラスがもし、一問一答式に関してはソクラテスに負けると認めるならば、話は別ですが』と追い詰められて、ぐぬぬ……となったプロタゴラスが、苦い顔をしながらソクラテスのペースに巻き込まれていくシーンはほんっとうに痛快なの! 何か質問をされた時に、問われていることだけを短く端的に答えるのは、就活の面接においても必須事項よ。天野君が就活生になった際には、是非、実践してね」


「就活に例えるの好きっすね……」


「ちなみに、この対話の中で、ソクラテス自身が徳をどのように捉えていたのかということも示されていくのよ。曰く、彼は、徳とは知に他ならないと言っているわ。そもそも人間はだれしも善を求める性質を持っているけれど、何が善いことで何が悪いことかを知らないから、悪の道に走ってしまうことがある。要するに、悪い行為は、善悪の基準に関する無知から生まれる。だから、徳に関する正しい知を身に着ければ、自然とその知に導かれて、善い生活を送ることができる。この考え方を、【知徳合一ちとくごういつ】というのよ」


「ついにはスルーっすか!?」

 

 突っ込みながらも、無知の知という考え方を知った後だからこそ、ソクラテスが徳に対してこのような考えを示したこともうなずけてくる。


 すべての悪は、無知であることを自覚していないことによって生まれる。

 だからこそ、正しい知を求めることによって善き生が実現する。


「もちろん、かの有名なソクラテスが唱えたからといって、知徳合一こそが唯一無二の真理というわけではないし、その後、徳とは一体何であるかということは多くの哲学者にとって一つの大きなテーマにもなっていくのよ。でも、議論する前に、問われるべき事柄の本質をしっかり探ろうとした点において、ソクラテスの功績はとても大きいの。要するに、徳が何であるかも分からないのに、徳が教えられるものであるかどうかをいくら話し合ったって無駄ってこと。これって、なにか話し合いをする上ではとっても重要なことよ」


 膨大な知識を淀みなく吐き出した先生は、満足げに息を吐いた。


 ややもして、夢から醒めたようにその大きな瞳をハッと見開くと、きまり悪そうに俺から視線を逸らした。


 さきほどまできらきらとした自信に充ち溢れていたその声は、まるで魔法が解けたかのように、所在なさげに震えていた。


「…………ゴメンなさい。私、また語りすぎちゃったわね」

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