第21節「一番大事なもの(第三章・了)」

 ここはいかなる場所なのか。


 復興部の部室ではない。


 暗い場所で、ノートパソコンの光だけが煌々こうこうと光っている。


 キーボードを叩いているのは灯理である。


「三パターンのプランをベイズ推定でバックアップ。原理を保持しつつ個体差による“ゆらぎ”を変項として再設定……じゃダメか! なら量子統計経由でブリッジとなる共同体がミクロ経済をサポートするモデルの閾値を算出! ユナイテッド・リンキング・ネットワーク再構築……テクノロジーによるメタ共同体経由のパラダイム・シフトの可能性をパラメータとして更新、伝達関数も考慮して、現実へのフィードバック可能時間を計算して……やっぱり、プランABCとも理論上は可能だね」


 高速で動く右手の指とリンクするように、右眼が淡く光っている。


「灯理がその右眼の申し出を受けた時、ちょっと意外だった」


 声の主は悠未である。悠未と灯理、二人だけがこの場所にはいるようである。


 焔がコンタクトレンズ型デバイスと推測した灯理の右眼だが、その正体はそんな現在の想像力の範疇にあるものではない。


 生態コンピュータ。眼球自体をデジタルデバイス化するという、市場にはまだ出回っていない、もう少し先のテクノロジーの産物である。


 震災で右眼の視力を失った時、灯理は縁があった先進的な企業から提示された、この開発中の技術の被験者にならないかという申し出を、引き受けたのだ。


「べつに。絵も描けなくなったって分かって。何か、別のことが必要だって思ってた頃だったしね」


 右眼は普段は使わないようにしている。


 自分がロボットになったみたいで、ちょっと嫌だから。


 一方で、『街アカリ』として動く時は、躊躇ちゅうちょなく使うとも決めている。


 悠未は、灯理の一番近くで、左手と右眼を失ってからの、それらの代替を探すような彼女の克己こっきを見てきた。


「尊敬してるよ」


 悠未は、背中合わせになる形で、灯理の後ろで椅子に座っている。手には納刀された日本刀を握っている。


 カツンと鞘を後ろの灯理の足元の床にあてる。間を置きながら、カツ、カツと、独特のリズムを叩く。


 その行為に込められているのは、親愛の情を超えた、深い何かだ。


「私は『スーパーヒーロー』が苦手」


 灯理は暗い天井を見上げるように上を向くと、そのまま後ろの悠未の肩に、後頭部を預けた。


「現実で、ソレを目指す人達の多くの気持ちは、単なる当人の自己表現欲求の裏返しだったりして。

 人助けがしたいなら、当たり前の研鑚けんさんを、地道に積み重ねるしかない。そうでしょ? 私、子供の頃には、それが分かってた」


 悠未は、個人的に自分たちの中で本当に世界中の沢山の人々を救うような「スーパーヒーロー」になる人間がいるとしたら、それは灯理だと思っていた。もちろんそれは、闘争の強さのような、単純な意味ではなく、だ。


 悠未は、これまでも何度も灯理に対して言葉で表明してきた、ある誓いをまた口にした。


「いずれにしろ、昔風に言うなら、俺の剣はとっくにお前に預けてるから」


 その後、しばらく続いた二人の言葉のキャッチボールは、暗闇の中でも繋いでいるお互いのたましいを、揺らめき合わせているようだった。


 ◇◇◇


 同人誌制作も終盤。


 入稿日も目前というある日。


 灯理は先に入稿した表紙に関して調整があると印刷所に、祈は原稿のコピーを取りにコンビニエンスストアに、奈由歌は近くにレアなVRのモンスターが出たので捕獲に行くと言って外に、ということで、部室は焔と悠未の二人きりになった。


 原稿もラスト数枚、焔は線を引き続け、悠未は焔から上がった線画に筆ペンでベタを黙々と塗る、そんな時間ではあったのだが。


 漫画制作の「修羅場」も終盤になってくると、脳と身体の残存エネルギーも残りわずかである。


 自然と、言葉の一つ一つ、動作の一つ一つから無駄がはぶかれていく。


 もう体面なんてどうでもイイし、会話に気遣いを上乗せしようとも思わない。


 ある意味、自分の全てが純化されている。あらゆる余剰がそぎ落とされている状態は、ある種の快感を伴っていたりもする。


 向こうの方もそんな状態なので、今までになく、お互いの心のガードは緩くなってる感じがする。ありていに言って、ぶっちゃけ話モード。


 焔は率直な所を悠未に聞いてみた。手は動かしながら。


「悠未って、灯理さんのこと、好きなのか?」


 悠未の返答も、実直なものだった。こちらも、手は動かしながら。


「好きというか、愛してる。世界で一番、な」

「ふぇぇ。あんた、愛が重いタイプだったんだな」


 ものはついでだ、もう一つ気になっていたことを聞いておこう。


「悠未。どうして同人誌なんか作ってるんだ? こう言っちゃなんだけど、けっこう大変だし。それを言うなら復興活動とかもだけど。あんたなら、スポーツの全国大会で上位を目指すとか、そういう生き方もできるはずじゃん。それこそオリンピックとか出られるようになったら、名声もお金も手に入って。利益率は、そっちの方が抜群じゃないか」

「そればかりは」


 何の逡巡しゅんじゅんもなく、悠未は答えた。


「俺の中で一番大事なものが、こっちなんだからしょうがない」

「悠未の一番大事なものって?」

「灯理の笑顔を、守ることだ」


 悠未の語る調子・リズムが、懐かしい、昔聴いた何か大事な鼓動のよう。


 その一連の言葉は子守唄のようだった。


 疲れもピークに達していた焔の精神を、何か綺麗な夢の中へと誘ってゆくかのよう。


「灯理の心の中にある、美しいものが好きだったんだ。それは一度あの日に壊れてしまったけれど、まだどこかで、現在まで途切れずに存在し続けていると信じているんだ。だとしたら、やっぱりちゃんとした形で。例えば本になるって形で、世界に出してやりたい。これからも生まれてゆくのなら、それもまた全部、ずっとずっと、守ってやりたい。そうすれば、灯理は『あえて』っていう前置き抜きで、笑っていられるだろう。たぶんソレが、『日常』ってことだ。俺にとって、一番大事なものだ」


 悠未の誠実な述懐を聞いて、焔は「負けた」と思った。


 不思議とそこに悔しさはなく、むしろより峻烈しゅんれつに、最後の創作意欲が魂の奥から湧き出してきた。


(ちょっと余裕ができたら色気づいて、ちょうど身近にいてくれた異性が気になり出したり。カッコ悪いなぁ。でも、俺にだって……)


 最後の線を引いている頃に、幾ばくかの忘我。


 あらゆる表層が剥ぎ取られて、久美焔に、最後に残った一番大事なもの。


  ///


――あ、またここ、「イメージの世界」だ。


 更地の上に立っている。かつてあった。でも今ではもう何もないその場所は、荒野を連想させる。


 目の前に、光がちらついた。


 蛍火かと思ったソレは、雪の結晶で、万華鏡のように、過去のある日の、焔と真雪の風景を映していた。


 焔は儚いゆらめきの中のそのありし日を、覗き込む。


  ◇◇◇


 その日も雪が降っていた。


「伝説の古本屋さん? なんか、うさんくさいなぁ」

「本当だって。ネットの噂」

「焔は、そういうの好きだよねぇ」


 姉が愛したとある漫画家の初期作が、世では絶版になっていた。


 ネットオークションのプレミア価格には、幼い姉弟には手が出ない。そんな時に、焔が見つけてきた、まぼろしめいた、都市伝説、あるいは、怪談のたぐいか。


「でも、S市には、そんな場所もある。ちょっと、そんな気もするよね」


 ある休日の昼下がり。そうして、焔と真雪は、その怪しいお店を探しに家を出た。


 海岸線から、S市の都市部へ続いて行く長い舗装路を、紅い傘と蒼い傘をさして、ならんで歩いて行く。


 途中、高架橋をくぐる。


 橋の向こう側は異界かもしれない。


 雪が舞うS市は、真夏の海の向こうに揺らぐ蜃気楼めいていて、限りなく原色に近い白の、『ここではない、どこか』の理想都市なのだ。少なくとも、焔と真雪にとっては。


 かくして、『伝説の古本屋さん』は見つかった。


 『イマ』では閉鎖された自動車練習場の近くに、平然とお店を開いていて、運営形態は別に普通。訪れる人から本を買い取って、立ち去る前に本を買っていってもらうっていう。それだけのお店。


 でもそこで、焔と真雪は、お目当てのその作品に出会った。お値段も、二人のおこずかいでちょうど買える頃合いで。


 二冊で完結する。心の均整をかいて社会セカイから追い出されかけた少女と、その少女に寄り添うもう一人の芯が強い少女。そんな二人の、友情と、愛の物語。


 焔と真雪は喜び合って、帰ってから暖の中でその漫画を読む時間を想像して心を躍らせながら、二人並んで、家路へとついた。


 紅い傘と、蒼い傘。どこまでも降り続ける白の中で、互いにゆらめき合っている。


 そんな、「日常」の灯。


 そんな、一番大事な風景。


 カコ、から、イマ、へ。


 ◇◇◇


 あの日。


 全てが失われた後の世界で。


 荒涼とした大地を両足でかんで。


 焔は消えかけの雪の結晶の前で佇んでいる。


 その銀色の中に、一番大事なものは映されていた。


「わかってる」


 喜び合った、その情動の記憶を忘れていない。


 焔は彼女マユキの。その笑顔だけは守らないといけないものだと思ったから。


 優しく掌をひらいて。


 消えてしまう前に。


 そっと。


――その瞳に映る、雪明りをすくいとった。


  ///


「むにゃむにゃ、また逢えたな」


 もう夜といっていい時間の、復興部の部室に、そんな寝言が木霊する。


 テーブルに寝落ちしている焔の肩に、灯理は、校内の備蓄倉庫から持ち出してきた毛布をそっとかけた。


「焔君。ありがとうね。私の代わりに描いてくれて」


 デスクトップPCには、完成した同人誌『落ち込み妹と全裸の兄』のデータが輝きと共に表示されている。


 PCの中にだけ存在しているというのは、まだこの世界には具体的なカタチがなかったりするわけで。さながら「たましい」だけが出来上がっているかのよう。


 入稿作業を終えたところである。


 彼は、やり切ったのだ。寝息を立てている焔の表情も、どこか満ち足りている。


「もし君が、本当に、一番大事なものを取り戻すと決めたなら」


 微睡まどろみの中の焔には聴こえていない。それでも、彼の「たましい」を慰撫いぶするように。灯理は優しく、力強く言葉をかけた。


「私達が絶対に、『助っ人』するから」



  /第三章「雪降る季節にまた逢えた」・了


   最終章へ続く

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