第6節「年上の女子」

 お弁当の配達が終わる頃には日が暮れていた。


 夕飯はどうするの? と灯理に尋ねられた焔だったが、心配させるのも違う、なんて思っていたら、曖昧な態度になった。すると、


「一緒に食べていこうか」


 と灯理に誘われた。


 灯理は少し離れて電話をかけている。


 家族に今日は外で食べて帰るということを伝えているらしい。


 灯理の詳しい家庭の事情は知らないけれど、家で待ってくれている人が健在なんだ。


 そんなことを、冬と呼ばれる季節が近づいてきた寒空の下で思う。


「お待たせ」


 灯理に連れてこられたのは、再開発地区の駅に併設する形で最近オープンした商業施設だった。


 大資本のショッピングモールほど大きくなく、伝統的な商店街の雰囲気よりは新しい。


 そこそこ賑わっている。


 施設の入口の自動ドアが開いて中に入ると、温かさと、電気の明りが中にはあった。


 灯理いわく「美味しいよ」と勧められるままに一緒に入ったのは菓子パンのお店で、シチューが食べ放題なのが若者に人気らしい。


 各々にパンを選んでレジを済ませ、シチューとドリンクもトレイに乗せて向かい合って座ると、店内のオレンジ色の電灯の加減か、焔の瞳に映る灯理はいつもより大人っぽかった。


 物知りな灯理に、芸術のこと、政治・経済のこと、地元のプロ野球球団の今後の見通しについてまで聞いてみると、灯理はめまぐるしく表情を変えながら、面白おかしく、それでいてためにもなる話をしてくれた。


「焔君の子供の頃の話とか聴きたいな」


 今度は灯理の方から話題を振ってきた。


「そんなの、面白いような事、何もないですよ」

「気になる。小さい男の子の話とか、好きだから」


 自分でも話下手だと自覚しているから、年上の女の人を楽しませる自信はまったくないのだけれど、そう求められるなら自分の話くらいはしてみようか。


 他に何を返せるでもなし。


「ホンっと子供の頃。震災で家流されるまでは、よく海で遊んでましたよ。家から近かったんで」


 昔の家があった場所を伝えると、灯理は頷いた。


「私も子供の頃、海水浴行ったことある」


 震災の前まではS市近辺の住人には馴染み深い海水浴場もあった地区だ。


 灯理が訪れていても不思議はない。


 現在は、地区の大部分が更地になっている。活気があった漁港。潮の香り。砂の感触。焔にとって、今では遠い昔の記憶である。


「絵を描き始めたのは?」

「それはもう、物心ものごころついた時から。漫画の模写とか。小学校低学年の時にはケント紙にオリジナルとか描いてました」

「おお。アートっぽいのより、漫画が先だったんだ」

「アートっぽいのは震災後です。なんか、ちゃんとしたの描かなきゃと思って」


 当時の混乱した心情を思い出す。


 今でも、どうだった、ああだったと整理しては語れない。


 ただそんな中で、何かもう漫画とか言っていられない。そんな気持ちがあったのは覚えている。


「シチューついてるよ」


 灯理がそう言って人差し指で焔の頬に触れたので、焔は顔を赤らめた。


「灯理さんは? その、あの時までは絵描いてたんだろ」

「私もね。漫画が先だったなぁ」


 そう言って灯理が、当時流行っていた有名所の少女漫画のタイトルをいくつかあげた。


「それ、俺も読んだことあります」

「本当に? 男の子だと珍しいかも」

「姉ちゃんの本棚にあって。何か自然と読んでた感じで」


 漫画の内容よりも、姉の温もり、紙の匂い、ゆっくりと流れる時間、そんな感覚を思い出した。


「あの頃は良かった」


 姉の少女漫画の蔵書も、今では全て流されてしまった。


「焔君」


 灯理は自分の身の上話を切り上げると、穏やかな眼差しを焔に向けながら。


「がんばろうね」


 ゆるく、両の拳を握ったポーズをとってみせる。


 灯理の「がんばろう」は、ふんわりと焔を包んでくれるような感じ。なので自然と、

「俺、がんばりますよ」


 と、肩の力を抜いて返せた。


 何だろう、焔は、灯理といると胸がポカポカするのだ。


 灯理との会食を終えて、星空の下をトボトボと待つ人のいない「みなし仮設」に向かって帰っていく途中のことだった。


 久方ぶりに、焔に忘我が訪れた。


  ///


――あ、ここ、「イメージの世界」だ。


 波打ち際。海と大地が、どちらともつかずに揺れている境界線上に焔は立っている。


 しんしんと雪が降っている。


 焔は幼い頃から、時々この「イメージの世界」に迷い込むことがあった。


 その不思議な世界で出会うのは、人、動物、植物などなどと様々で、時には空想上の生物と対面することもあった。


 友達に学校の先生。普通の人達は、この「イメージの世界」に迷い込むことはないのだと気づいたのは、小学校の低学年の頃。


 ちょっとだけ寂しくて、でも自分が選ばれた者のようで嬉しくもあって。


 今回、目の前に佇んでいたのは、綺麗な女のヒトだった。


 艶のある長い黒髪が、暮れなずむ空色のリボンでサイドテールにまとめられている。


 纏っているのは和装で、燃え盛る炎のような赤色から、若草の色までグラデーションになるように、何枚も重ね着している。


 萌黄色の帯を締めて、胸元につけられた花飾りがアクセントになっている。


 黎明から黄昏まで、移りゆく世界の全ての色を宿しているような深淵な双眸そうぼうをした、この世ならざる領域の美を備えた人物。


 その瞳に見つめられると、深い井戸に潜っていくような感覚に陥るのだけれど、不思議とその智覚は忌むべきものではなく、むしろ懐かしい感じがするのだ。


 この女性は、あまねく生命が芽吹いていた中に、優しく収まっていたヒトだったのに。


 今では彼女を取り囲んでいた、色も光も命も、全て消えてしまっていて、波の音と砂の感触以外何も無い世界に一人、その存在を留めている。


 そう、この「イメージの世界」は、「描く」ことによって、焔が現実世界へと救い出さなくてはならない類のものだったんだ。


 そう直覚したのが、絵を描き始めた最初の動機だった。あの大震災の日以降、忘れかけていた気持ちだけれど。


(このヒトを)


 女性は、全てが止まってしまった世界で、微笑みだけは崩さないでいた。


 知ってる。バラバラになりかけの心で、仮面だとしても陽気さを貼りつけて、せめて周囲だけは温かくあったらと願っている人達。


 あの日から、沢山出会ってきたから。


――守っていけるように、生きていけたらイイのに。


  ///


 ここで、忘我からの帰還。


 雪が降り始めていた。


 瞳に映る雪明り、街灯り。


 澄んだ空気に、チクチクと肌を刺す寒さに。焔が知っている、現実世界の冬のS市の風景だった。


 再び歩き始めた、焔の気持ちを少し。


 顔が淡く紅潮して、熱を帯びたりしている。


 ちなみに焔の初恋は小学校低学年の時の学芸会で色々とストーリーを調整した日本神話をやった時の、ヒロイン、「コノハナサクヤヒメ」役の女の子。


 この整理がつかない胸の高鳴りはその時以来だったりするのだけど。


 そんな気持ちを素直に自分のものとして受け取るには、齢十四にして、この世界の苦さを経験し過ぎていた。


 久美くみホムラは、そんな男の子だ。

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