第24話 魔法

 礼隆と過ごした久しぶりの月曜日は、長いようで泡沫うたかたのように儚かった。

 そして、幸せなようでいて泡沫のように虚しいものでもあった。


「こうして会える日が、あと何回あるんだろう……」


 繋いだ手が離れた瞬間に瞳子の口から零れた言葉。

 それは今朝方ちらついていた雪のように頼りなげに舞い落ちて、二人の間に小さな染みをじわりと広げた。


 互いの温もりが残る手をポケットにしまい込みながら白い息を細く長く吐き出し、礼隆は俯く瞳子をじっと見つめた。


「瞳子さん、俺とこうなったこと後悔してるの?」


 その問いに瞳子がはっとして顔を上げる。

 彼女を見つめる礼隆の表情は、曇天の空を背に負い重苦しそうに歪んでいた。


「後悔はしていないわ……」

 そう返す瞳子の声が震える。




 手を繋ぎ自宅へと送り届けられるこの道すがら、瞳子はずっと考えていた。


 礼隆と歩む未来が存在しないことは承知の上で心も体も重ね合わせた。

 ただ、ようやく手に入れた彼との絆は、か細くともこの先しばらく切れることはないと思っていたのだ。

 けれども、礼隆の方はまるでギロチンの刃を落とす執行人のごとく自分との繋がりをすっぱり断とうとしている。

 ならばようやく心が繋がったことは、二人にとって何の意味を持つのだろうかと──




 ゆらゆらと揺れる瞳子の心を見透かすような眼差しで礼隆が言葉を繋げた。


「俺は瞳子さんに会ったことを後悔していない」


「礼隆君……」


「俺達は確かに魅かれ合って、お互いを求め合った。でも、強くきらめくその一瞬の幸福が永遠に続くことなんて有り得ない。輝きを失って色褪せて、やがてみすぼらしく朽ちていく感情なんて俺はいらない。今のこの感情を、鮮やかで美しいまま心に焼きつけておきたい」


 鋭利で純粋な彼の感情の結晶に瞳子の心は貫かれ、揺らぐことすらできなくなった。


 沖縄行きは決まっていたのだから仕方がないとか、初めから未来などなかったのだから受け入れるしかないとか、そういう諦めは筋違いだ。


 二人の出会いと再会。

 その意味は、彼の中ですでに明確に定義づけられていた。


 この別れは礼隆の強い意志なのだ。




 礼隆は柔らかな声音で「それじゃ、また来週」と告げ、踵を返して駅の方へと歩き出した。

 瞳子は離れゆく彼の背中を見つめたまま、ただそこに立ち尽くしていた。


 ***


 どのくらいそうしていたのだろう。


 ベッドでうつ伏せになっていた瞳子はゆるゆると体を起こした。


 考えても仕方のないことを、考えがまとまらないままただひたすらに考えていた。


 バッグに入れっぱなしの携帯が鳴らす音色に促され、立ち上がってそれを取り出す。


 ロック画面に浮かび上がったのは、越川からのメッセージを知らせる表示だった。

 アプリを開き、全文を確認する。


[今日の会議はスムーズに終わりました! 定時で上がれそうなので、予定どおりの時間に駅に向かいますね。素敵なお店を見つけたので楽しみにしててください。というか、僕が楽しみすぎて仕事が手につきません(笑)]


 平常で明るいメッセージに、瞳子の心は再び揺れ始めた。


 土曜日の夜の話は、越川の中でどう処理されているのだろう。

 なかったことにはできないほど心を深く抉られたはずなのに、古傷に切りつけた自分と顔を合わせることを彼は本当に望んでいるのだろうか。


 お互いが楽しめない会食はやはり断るべきではないかと思う。

 けれども一方で、簡単に諦めたくないという越川の言葉が瞳子の心にこびりついて引き剥がせない。

 気乗りしないからという理由で会食をキャンセルすることは、越川のあの真剣な眼差しと瞳子自身の心の傷から目を逸らすことになる。


 自分自身が変わることで過去の痛みと訣別し、幸せに繋がる恋を見つけたい。

 お互い同じ思いで向き合っていた越川に対し、こちらの心変わりでその努力を徒労と断ずることが彼への優しさだとは割り切れない。


 越川とは最後まで自分なりの誠意をもって向き合うべきだと己を諭すと、瞳子は鉛のごとき体を引きずり洗面所へと向かった。


 ***


 いつもと違う駅で落ち合い、越川の案内で向かった先は、繁華街から少し離れたビルに入る隠れ家風のバルだった。


 小洒落てはいるものの、ひびの入った二人の空気を修復するにはあまりにありふれた店構え。

 わざわざここを選んだ越川の意図を図りかね、奥まった入口へと進む瞳子の足取りは知らず知らずに重くなる。


「どうぞ中へ入って」


 隣を歩く越川は、アプローチをおどおどと見回す瞳子の視線を遮るように体を前に出しつつドアを開け、努めて明るく彼女を促した。


 店の中も果たしてありきたりの内装だったが、通常よりも大きなカウンターが存在を強調していることに目を引かれた。

 越川が店員に予約していた旨を伝えると、壁際にいくつか並ぶテーブルではなくそのカウンターに並ぶ二つの席へと案内される。


 今日は込み入った話を避けるために、敢えて広めのカウンターを指定したのだろうか。

 越川の駆け引きを推察しつつ椅子に腰掛け、無難なワインと料理をオーダーし食事が運ばれてくるのを待った。


「こうしてまた瞳子さんに会えることに感謝します。ありがとう」


 程なくして提供されたワインを二人のグラスに注ぐと、越川は自分のグラスを手にして瞳子のそれへカチンと合わせた。

 恨まれこそすれ感謝される心当たりのない瞳子は、返す言葉もなく俯くことしかできない。


 そんな彼女の視界に、カウンターの向かい側に来た店員の手元が映る。


「いらっしゃいませ。お料理が来るまでのお時間、どうぞマジックをお楽しみください」


 思わず顔を上げた瞳子に、トランプの束をシャッフルし始めた目の前の店員が柔らかに微笑んだ。


 越川の方を見ると、サプライズ成功とばかりに嬉しそうに微笑んでいる。

 緊張がほどけた無邪気なその表情とマジシャンの鮮やかな手さばきに、予期せぬ余興への興味が心に居座る戸惑いを片隅へと押しやった。


 至近距離でプロのマジックを見るのは、瞳子にとって生まれて初めてのことだった。

 どんなに目を凝らしてみてもマジシャンの洗練された所作の中に仕掛けがあるようには見えず、瞳子は目の前の魔法にあっという間に引き込まれた。


 一枚のカードを選んで目の前の封筒に入れたにもかかわらず、マジシャンはその封筒に一度も触れることなく彼のベストの内ポケットから瞳子の選んだカードを取り出す。

 目を疑う出来事に興奮冷めやらぬうちに前菜アンティパストが運ばれ、マジシャンは一礼すると別の客の元へと移っていった。


「いやあ、間近で見てても、どこをどうしてああなるのかわかんないもんですねえ」


 越川の率直な感想に、瞳子も素直に反応した。


「圭介さんの角度から見てもやっぱり仕掛けはわかりませんでした?」

「うん。意地悪く横から覗いたり、彼の手元から目を離さないようにしたりしてたんですけどね。マジシャンじゃなくて魔法使いじゃないかと思いましたよ」

「ふふっ、本当ですね」

「後でまたマジックを見せに来ると思うんですけど、今度は僕が相手になってもいいですか?」

「ええ、もちろん!」


 縮こまっていた肩から力が抜け、強ばっていた口元から笑みが零れる。


 たわいない会話を続けながらいくつかの料理を食べたところで、瞳子達の席をマジシャンが再訪した。

 今度はカクテルシェイカーを手にして。


 空っぽだったはずのシェイカーから鮮やかなブルーのカクテルがグラスに注がれ、狐につままれたような顔で越川がそれを飲む。

 その光景を見ていた瞳子は声を出して笑った。


 感嘆や笑い声が周囲の見物客からも上がり、この店にあるすべてのものに魔法の粉がキラキラと降りかかる。


 それはもちろん、瞳子の心にも。


 心の奥底に重く沈んでいた処し難い澱みは和やかな時間の中に溶けていき、越川と交わす会話もいつしか軽やかに弾むようになっていた。

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