第6話



 7月のある日、勲は気まぐれに電車に乗り、広島の見知らぬ郊外に来ていた。


 大学も三年目ともなると、この街の単調さに少し飽き飽きしてくる。

 改札からでると真正面に橋がかかり、堤防だけではなく、河川敷まで埋め尽くした目新しいコンクリートは、周囲の町並みに比べ異様に立派で迫力があった。

 橋を渡って左に折れ、堤防を歩いて遠くに見えるもうひとつ向こうの橋で、ぐるり四角に一回り、散策しようと勲は歩き出す。

 


 その頃、勲は地元出身の戸髙の紹介で、かなり割りの良いアルバイトをしていた。

 それは予備校のワンフロアに参考書がずらり並べてある一角にて図書館員よろしく単純な雑務をするだけの楽な仕事で、暇なときは自由に本を読み時たま書き物をするをすれば良いという簡単なものだった。

 しかし、そこでちょっとしたトラブルを抱えてしまう。


 ある日、あまりにも騒ぐ女子高生を、勲は少しきつめに叱責した。

 それから逆恨みと言おうか、別に何をするでもないのだが、女による、妙な威圧が始まった。それまでは必要以上に話しかけて来ただけに、勲は当惑し、内心困った。


「それは、その女がお前のことを好きなんじゃないかな」

 余り気にしない方がいいと戸髙は言ってくれたが、神経質な勲にとってそれは結構なストレスになっていた。最初、好意だったものが、妙に変質する方がやっかいで、それに元々、予備校の講師でもなければ職員でもない只のアルバイトはそれほど立場が強いわけではない。その女子高生の友達も加わっての、多勢に無勢。


 こんな見知らぬ郊外にふらりと来たのは、気持ちが腐っていたからだろう。

 後で思い返しても、それ以外の理由は……見つからない。


 堤防は、向こうの橋まで、中ほどの雑木林を抜け道幅もそのまま真っ直ぐに伸びていた。これほど大きい河川にお情け程度の水が流れ、周囲の家から5メートル以上、高いその作りは、田舎にしては珍しい景色だ。


 結構な距離を歩き、雑木林まで来ると道がコンクリートから土に変わった。

驚いたことに、まるで剣客がスパッと刀を振り下ろしたかのように目の前のそこからあるはずの堤防が忽然こつぜんと消えている。

 唖然として、つい笑ってしまった。(なんと無造作な作りなのだろう)


 雑木林に隠れ、道があるとばかり思っていたが、ここから堤防を降りる気にもならないので、引き返すより他に無い。


 くるりと引き返す瞬間、小さな瞳と目が合った。






 “見つかった”

 別に隠れてはいなかったが、草むらでうずくまっていた私は、目が合った瞬間、反射的にそう思った。子供だけでは決して行ってはいけない場所だったし、危険だと思ったのか、斜めになった堤防ていぼうの草むらの私に、お兄ちゃんがそっと白い手を伸ばす。


「行き止まりなんだね。ここ」

 笑いながら、周りに誰もいない事を怪訝そうに言う。


「お母さんは? おうちはどっち?」

 およそ高い堤防の断崖の下に、納屋が一軒あるだけで、幼い子供が1人でいるには隔離された空間だ。大きくてやわらかい風が、夏草をかすかに揺らす。


「ビビビビビッー」

「うう、やられた」

 突然の私の遊びに付き合って、お兄ちゃんは胸を押さえる。


「お名前は?」

 雑木林の中にある丸太の上に腰かけながら、お兄ちゃんは重ねて聞く。

 私は首にかけられたリンゴのメモ帳に、名前を書いて見せた。


「へ~偉いね。名前書けるんだ」

 なんだか嬉しくて、小さな体でしがみつくように丸太を這い上がり、お兄ちゃんの横にちょこんと座った。


 何度かお家に一緒に行こうと言うお兄ちゃんに、何故だか激しく首を振る。

 埒があかないと考えたのか、手を繋ぎ、二人は堤防の行き止まりを逆方向に歩いて行く。


 堤防の突き当たりを右に橋を渡れば駅、左に行けば家並みがある。橋の袂につくと私はお兄ちゃんの手を引っ張って、橋を渡ることを主張した。

 お兄ちゃんは困ったように、しかし仕方がなさそうに、並んで橋を渡る。


 それから、電車に乗る場面が続き、座席の上に膝立ちしながら海を見ている、私。


 小さな漁師町の古ぼけた駅で降り、そこからの道を私が手を引き何度か行ったことのある祖母の家まで辿り着いた。お兄ちゃんが何度も間違いないかと尋ね私は自慢げに間違いないとうなずく。

 独りになり、玄関の前で大声を上げると祖母が転がるように飛び出して来た。


 その後、小さなちゃぶ台で祖母と赤ら顔の祖父が晩酌ばんしゃくする横で夕飯を食べ、祖父と一緒にお風呂に入った。暖かいお湯が流れ、湯気の中に祖父の刺青いれずみが鮮やかに目に映る。







 直子はそこで目を覚ました。過去の記憶は、夢の中の方が鮮明で、殆ど記憶の無い祖父の面影まではっきりと映し出す。


 実際、祖父はかなりの極道者ごくどうもので、背中に刺青があるような人だったらしい。若い頃は暴力もひどく、祖父が亡くなって祖母と同居するまで、母は、卒業後、直ぐ一人暮らしをしたほどだった。


 だから直子には、祖父との思い出がほとんどない。

 なのに……夢の中では刺青の細部まで鮮明に蘇る。

 記憶とは、不思議なものだ。


 時間は、朝方の4時。

 現実逃避からか激しいストレスからか、嫌な思い出ではないはずの昔の夢で、ぐったりと寝汗を掻いている。昼夜逆転が一周回り、もはやその区別はなくなっている。


 身に覚えのないレイプ事件の被害者にされてから既に一週間が経とうとしていた。ここまで来ると、母も祖母も異変に気づき始め、何かと気を使っているのが分かる。

 ただその理由が大人とは隔絶されたごく限られた子供達だけの単なる噂話であり、家族にそれを知るすべはなかった。


 絶対に知られたくない……その事だけを願う。


 だが「広場」の中は相変わらずだった。

 直子を含め、何人かを傷つける文面が続く。

 もちろん多くは、犯罪者への非難、被害者への同情、憶測への批判。

 でも、彼らが本当は何を求めているのかは、一目瞭然だ。普通の顔をした悪魔が、人を傷つける為の言葉を、人を傷つける為だけに発している。


 恵と真央から何回かメールと電話があったが、その度に直子は理由をつけた。

 ごく限られた人間の噂話は、二人には関係のない世界。


 感情と脳に薄い膜でも張られたような不思議な感覚で……ドアさえ開けられない。

 人の目が怖くて外に出られない日々が、永遠に感じられた。




 だが、状況は一変する。



 ある事件をきっかけに。
















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