第2夜 名前


――ガタン、ゴトン。



 しばらくの間、二人は特に会話することなく、ただ寡黙に座っていた。

 列車の振動音と、空気を切る音だけが聞こえる。


「貴方の名前、聞かせてもらえないかしら?」


 顔だけを動かし、彼女は男を直視しながら唐突に質問した。


「え? あ、えっと……?」


 男は酷く困惑した。

 何の脈絡もなく質問されたというのもあるが、初対面の、しかも相席しているだけの少女から名前を聞かれる事など、予想もしていなかったからだ。


 聞かれた以上、無視する訳にもいかない。何の為にと疑問に思いつつも、動揺している所為か少し上擦った声で男は質問に答える。


「す、鈴木鳥壱(すずきとりいち)ですよ。あ、貴女は?」


 どもりながらも鳥壱が返すように質問すると、彼女は微笑を浮かべながら言う。


「さぁ……何て名前だと思う?」


 名前を聞き返したら、さぁ私の名前は何でしょうなんて答えは、今まで体験したことも聞いたこともなかった。


――からかわれている?


 だが、彼女の微笑はとても素敵で、酷く蠱惑的な魅力があった。

 これがもし生意気な子供や禿げたオッサンからの質問だったら、無視するか怒鳴るかすると思うが、このままからかわれ続けるのも悪くないと鳥壱は思った。


「名前……ねぇ?」


 鳥壱は眉間に皺を寄せ、目頭を押さえながらそれを考える。

 ポンと、何の前触れもなしに思い浮かぶアイディアのように、鳥壱の記憶からその名前が浮かんできた。


「美奈(みな)……かな? なんとなくだけれどね」


 鳥壱は少し朱に染まった頬をぽりぽりと掻きながら、「小学校の頃に好きだった女の子の名前なんだ」と付け足した。

 しかし、そう言ってから、鳥壱は急に後悔した。

 初対面の人に、いったい何を言っているのだろうかと。


 朱に染まった頬は、先程とは違う理由で急速に赤くなっていった。

 さながら、リンゴのように。


 彼女はそんな鳥壱の様子など気にもせず、眼を細め、今度は意地悪そうに笑みを浮かべた。


「当たりよ。私の名前は美奈。よろしくね」

「……へ?」


 思わず、男は素っ頓狂な声を上げた。

 彼女が何を言ったのか、理解出来なかった。

 だが、自分が言った答えが正解だった、ということに気が付き慌てて返事をする。


「あ、あぁ……よろしく」


 生返事を返しながらも、やっぱりからかわれているんだろうな、と男はそう思った。


 何となく、それでこそ記憶の底からぽっと出て来たような名前が彼女の名前だったとは、にわか信じがたいことだったからだ。

 小学校の頃に好きだった女の子と同じ名前だなんて、偶然にしては出来過ぎている。


「……本当に美奈って名前なの?」


 鳥壱が疑心に満ちた声で恐る恐る聞いた。


「ええ、本当よ。もう本当に驚き。何か豪華賞品でもあげたくなりそうだわ」


 そう言っている割には差して驚いた様子もなく、彼女なりのシャレを淡々と語った。


「……そいつはどうも」


 鳥壱は眉間に皺を寄せ、目頭を押さえながら、ため息混じりに礼を言った。


「ところで……」


 鳥壱は、ここに来てからずっと疑問に思っていた事を切り出した。


「この列車は、いったい何処へ向かって進んでいるんだ? 気づいたら僕は、この列車に乗っていたんだけれど……」


 そう言ってから、鳥壱は何故自分がこの列車に乗っているのかを疑問に思い始めた。


 確かに、通勤の時には電車に乗る。

 しかし、こんなボックス席なんて無いし、ましてやこんなに空いていない。

 座れる余裕どころか、箱寿司のように隙間なくみっちりと詰められる有様だ。


 今日は何曜日だっただろうか。

 平日なら、会社に行かなくてはならない。

 この列車は、朝礼時間に間に合ってくれるのだろうか。

 けれど、この列車は会社にはたどり着かないだろう。

 何となく、そんな気がした。


 そんなことをぼんやりと考えていると、鳥壱はこの列車に乗る前の事をようやく思い出せた。

 しかし不思議な事に、自分はいつこの列車に乗ったのか、自分はなぜこの列車に乗ったのか、という記憶がすっぽりと抜け落ちていた。


――どういう事だ?


 飲み過ぎて記憶を失った時ように、鳥壱は酷く混乱した。


 何とか自分の平常心を保つために、今の事態を整理するために、そして自分が自分であるためを確認するために、鳥壱は押入に仕舞った冬物を探すときのように、記憶を乱雑に掘り返し始めた。


――僕は鈴木鳥壱、二十三歳の筈だ。

――私立大学を出たけど、希望した会社ことごとく落ちて、何となく応募した会社に受かってしまった。


――勉強したのは文学だったのに、就いた仕事はIT関係。

――経験は何よりも財産だとか言うけれど、それが役に立たない今の仕事では、逆に僕を苦しめる。


――今、僕は家賃三万円という安くてボロいアパートに住んでいる。

――思いの外広いけど、田舎。でも、嫌いじゃない。


――職場は結構遠く、電車でも一時間半も掛かる。

――近くに引っ越したいけど、それもこれもお金が貯まってからだろう。


 鳥壱は満足げに頷く。


――そうだ、ここまでは良い。


 問題は、ここからだった。


――今朝もいつも通りに、掃除しても掃除してもいつも散らかっている部屋で起きた。

――UFOキャッチャーで取ったトースターで、特売で買ったパンを焼いた。

――早朝並んで買った卵と、賞味期限が近く半額で売っていたトマトを乗せて食べた。


――それから、安売りしていた洗顔で顔を洗い、貰った歯磨き粉で歯を磨き、就職祝いで貰ったヨレヨレスーツに着替えた。

――駅内で二本千円で売っていたしなびたネクタイを締め、さあ会社に向かおうと玄関を開けると……。


 鳥壱がそこから先を思い出そうとしても、やはり思い出せなかった。

 いや、思い出せないのも当然なのだろう。

 その記憶自体が、初めから頭の中に存在していないのだから。


「答えてくれ。ここは何処で、何処へ向かっているんだ? 僕は……どこへ行くんだ?」



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