29話 尊敬


 体中がズキズキと悲鳴を上げる。

 昨日の夜中に眠りに付いた瞬間に、ふと気が付けば朝。それ程までに体が疲労していたらしい。


 昨日の土曜日に蛍光院学院の体育祭が遂に行われ、選手としても、スタッフとしても一日中走り回った結果、体中から電撃が迸ほとばしる様な筋肉痛が全身を襲った。俺自身、そこまで競技に対して思い入れがある訳でも無し、頑張るつもりも毛頭無かったのだが、可愛らしい笑顔の妹に水筒片手に「頑張ってね。応援してるよ。」なんて言われた日には、娘の運動会に出場するお父さんバリに頑張ってしまっても、誰にも文句は言えないだろう。


 とは言っても、いくら可愛い妹が応援してくれているとはいえ、綱引き、組体操、棒倒し、騎馬戦、障害物競争のフルコースはこの運動不足の体には少し効き過ぎたようだ。挙句の果てには部活対抗リレーに生徒会として出る始末。

 栞先輩の驚愕の運動神経を以ってしてもチーム戦である以上、常日頃から運動クラブで精を出しているチームには流石に勝てず、4位という結果に終わった。


 ちなみにトップに輝いたのは結城向日葵ゆうきひまわり率いる女子テニス部であり、中でも向日葵の瞬足は正に雷神が如し。2年生でエース部長は伊達では無かった。あんなの勝てる訳も無い。反則レベルだ。


 ズキズキと痛む体をテコの要領で起こしながら、外出の準備に取り掛かる。


 今日は栞先輩とデートもとい、お出掛けする約束の日。最初に重々注意しておくが、これは断じてデートなんて生易しい物では無い。どちらかといえば、荷物持ちや付き添いに近い。彼女の家柄宜しく、買い物の量も物凄い量で殆どが配達にしてもらっているのにも関わらず、手に残る荷物の量は想像を絶する。この筋肉痛で乗り越えられるか不安が少々残るが、かの蛍光院栞先輩と並んで歩くと言うのはそれなりの気合いも必要になり、俺にとっては楽な休日という扱いにはならない。


 そうは言っても、栞先輩との時間は基本的に有意義な物であり、嫌々行く訳では無い事は間違いない。厳しくも優しい栞先輩からは俺自身得るものは大きい。


 クリーニングに出されたカジュアルなシャツに腕を通す。黒のストレートパンツを履き、襟を整えた。


 栞先輩の私服は、イメージそのままに大人向けの物が多く、別にそれに合わせる訳では無いが中学生の様な服装で行けば、二人の間に物凄い落差が生まれる可能性があるのでそれなりの恰好で行くのは自身の保身の為にも必要事項だろう。



 手短な身支度を済ませ、一階のリビングに入ると唯がテレビの前に陣取っているのが視界に入った。その裏を通り、冷蔵庫から牛乳を取り出しいつもの様に煽る。




「涼。」


 すぐ背後から声が聞こえ、背筋からゾクリとした感覚に見舞われ少し噎むせた。

 振り返れば、唯の大きな目が真っ直ぐ此方を見つめている。


「コホコホッ! うお、びっくりした。音立てずに後ろに立つとびっくりするだろ?」


「どっかいくの?」


「ああ、今日は栞先輩と出掛けて来る。」


「……ふーん。今日は一緒に出掛けようと思ったのに。」


 少しの間を置いて、視線を足元に向ける唯。

 その視線には少し寂し気な色が見え隠れしている。


「そうだったのか……。どっか行きたいとこでもあったのか?」


「別に……。そういう訳じゃないけど。」


 その姿を見て、一緒に行ってやりたい気持ちが滲み出てくる。

 この前、俺が怒った事を今でも気にしているのかも知れない。俺は、唯のそんな態度を少しでも解消しようと優しく頭を撫でた。

 俺に頭を撫でられて猫の様に気持ち良さそうにな目付きをしている妹の姿は、何とも言えなくなる程に可愛らしい。


「じゃあ来週遊びに行かないか?」


「ほんと?」


「ああ。唯の行きたい所、どこでも連れて行くからさ。」


 唯は途端に笑顔を走らせた。


「分かった。じゃあ、約束だよ?」


「ああ。じゃあそろそろ行って来る。」


「うん。」


 その言葉を発して玄関に向かう。

 後ろから聞こえてくる足音を察するに、出掛ける俺を送り出してくれようとしているようだ。

 玄関の靴箱から、いつも使っている革靴を取り出す。

 いつも通り手入れは行き届いている。勿論、俺は靴を磨かない訳では無いが、そこまで頻繁には手入れはしていない。

 靴紐を丁寧に結びながら、心の中で細やかに感謝の念を浮かべながら立ち上がった。


「じゃあ行ってくるよ。」


「うん。気を付けてね。晩御飯までには帰って来るんでしょ?」


「ああ。それまでには帰るよ。」



 妹の笑顔に別れを告げて玄関のドアを開いた。




 ―――――




 約束の時間10分前。今日は予定通り、男の矜持を守れた様でいつもの様に沢山の人が大来する中、この品川駅前で待ち人を待つ。それにしても休日だけに物凄い人口過多。

 圷家から品川駅まではバスで15分程度の距離。渋谷よりも余程近い。この見慣れた街の風景が思い出を無駄に掘り起こす。ここには昔から家族で出向いて来る事が多い場所だ。もう何度足を運んだか分からない。

 それにしても未だに不思議なのは、品川駅というのだから品川区に存在していると思いきや、実の所、港区に実在している。つまり港区品川駅という訳だ。これと同様に目黒駅は品川区に存在しており、目黒区には目黒駅には存在していない。ややこしい。


 暇つぶしに脳内で下らない事を考えていると、横から聞き慣れた声が聞こえる。時間は図った様にぴったり。



「待たせたかな?」


「いえついさっき来たとこですよ。」


 途端に栞先輩は笑みを作り出した。


「ふふっ。狙ったかのような台詞だね。」


「狙ったのは来る時間の方です。今さっき着いたのは本当ですよ。」


「はははっ。どちらにせよ、狙っているじゃないかっ。」


 彼女は楽し気に笑う。学校では固いイメージの栞先輩もオフの時間は、驚くほど砕けている。口を開けて笑い、身振り手降りを巧みに動かし会話する。

 いつもそうしていればいいのにと、いつも思う。


 薄手のカットソーにロングスカートという別段派手でもない出で立ちなのに、自然と周囲の視線を引き寄せる。勿論その美貌のおかげが大きいが、やはり出ている所が出ていると纏うオーラが違う。誠に目の保養になる。



「それで栞先輩、今日も買い物に付き合えばいいんすか?」


「む。今日はデートだと言っただろう? 買い物はいつも君に付き合わせてしまっているから今日は君のしたい事をしよう。」


「あーあれ本気だったんですね……じゃあ折角の品川ですし、映画でも見ますか?」


「そういえば涼君はよく映画を見るんだったね。よし、ではそうしよう。」



 栞先輩の笑顔と共に、俺達はようやっと会話に区切りを付けて歩き出した。どうやら栞先輩は今日は普通に遊びたいらしい。

 それならそれで俺も一向に構わないし、休日に映画館で映画なんて最高じゃないか。俺は意気揚々と品川に存在する映画館に続く坂を登っていく。

 沢山の人々とすれ違う。皆、それぞれの目的の為に歩みを進めて行く。俺達も勿論そうだが、もしかしたら傍から見れば仲の良い友達以上の関係に見えるのかも知れない。


 ふと栞先輩と出会った頃を思い出す。

 彼女とは、実際そこまで長い時間を共にしている訳では無い。存在は一方的に知ってはいたが、キチンと話す様になったのはこの1年程度。

 当初はその切れ長の目も相まって、目付きの鋭い人という印象が強かった。勿論、その美貌に対して率直に綺麗だと思ったのは事実だが、その鋭い目付きの所為か、近寄り難い雰囲気を纏って居た様に思える。


 それでもそんなものは想像と反して最初だけであり、気軽に悪乗りをしてくる程には取っ付きやすい性格の持ち主だった。

 それと同時に、この人の良さも最近はよく見えてくる。彼女は強い信念と理想を掲げている人物だ。その理由は俺には分からないが、友達とはこう在るべきだ、恋人とは、金持ちなら、権力の使い方とは、目標の掲げ方、嘘の吐き方。そういった理想を自分の中に強く定義している。


 俺は上下関係があまり得意では無い。仲の良い先輩なんて出来た事が無く、見知った先輩に絡まれても基本的に苦笑い。



 そんな俺にとって初めて目上の存在として「尊敬」という感情を与えてくれたのが彼女だ。



 何故、上下関係が存在するのか、敬語の必要性、組織の正しいあり方。俺はこの一年彼女と関わり合って大きく成長出来たと思う。それは一概に彼女が正しいからではない。勿論、様々な人に意見を聞けば違った意見も出てくるかも知れないし、それによって結果的に彼女が間違っていると分かるのかも知れない。


 それでも彼女は自分の価値観に対して一貫している。


 それは俺にとってとても重要な事だった。だからこそ嫌々だったとしても生徒会に加入し彼女の元で働く事を許諾した。ただそれだけの事だ。



 映画の予定表を二人で眺める。



「涼君どれにしようか?」


「そうですね。では今一番人気のものにしましょう。」


「意外だね。もっとコアなものにするのかと思ったよ。」


「そうですか? じゃあタイトルが内容のになっているのにします?」


「それは大体想像が付くから辞めておこう。」


 栞先輩は可愛らしく苦笑いを浮かべた。


「じゃあ勇者と魔王のやつとか。」


「いや、一番かっこいい名前のやつにしよう。」


「それって人によって変わる気がすると思うんですけど……。」


「なんだっていいんだよ。自分が納得さえ出来ればね。」



 そう言って、チケットを2枚購入した。

 映画の名はまあ確かにかっこいいかも知れない。人によってはそうじゃないかも知れないが。上映は12番ホール。

 映画は開演まで5分を切っており、少し早歩きでホールに向かう。

 既に館内は暗くなっている。

 CMが流れている中を二人で屈みながら進み、ようやっと席に付いた。飲み物もポップコーンも買う時間は無い。


 画面が暗くなり、本編が始まった。


 ふと栞先輩の表情を伺えば、少し物憂げな雰囲気を醸し出していた。

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