21話 反響


 あれから3日か4日。もしくは5日かも知れない。暗闇の中で一人只、蹲うずくまる。強烈な空腹感がお腹をキリキリと締め上げる。それでもこの数日はロクに食事が喉を通らなかった。

 あれから鞄すら置きっぱなしにして学校を飛び出した。早退も告げずに。

 家に着くなり、電気すら付けず自分の部屋の一人では大きすぎるベッドに倒れ込み、気が付けば数日が経過。多分5日は経っていないと思う。


 別にその間、家に誰か来ることなんか無くて。と言うか、誰かなんて抽象的な表現は間違っている。もっと具体的に、圷涼あくつりょうが来てくれるんじゃないかと少し前まで思っていたりした。


 圷唯あくつゆいは基本的に嘘つきだ。

 特に圷涼の事になれば尚更。唯が涼ちゃんに私と絶交する事を認めさせたなんて、最初はどうせ嘘だと思っていた。

 それがこれだけ時間が経つと、何でそんな事をわざわざ信じていたのかと、自分の事ながら笑えて来る。今回の事は涼ちゃんからしてみれば、あり得ない事。わざわざ向こうから訪ねて来る訳も無い。


 唯の差し金とはいえ、あんな場面を見られたら絶交されても何ら可笑しくは無い事は、よくよく考えなくとも分かる話だった。



 唯の言った言葉が頭の中で繰り返される。



 ――向日葵には他に学校に来る理由なんて、なんにも無いんだから



 確かにその通りだ。今まで築いて来た人間関係も、勉強も、スポーツも全ては彼のためだった。毎朝起きるのも、勿論学校に行く事も。何もかも。

 今まで何年も大切に守って来たものをたったの一瞬で壊されてしまった。次に会ったら全て崩れてしまうかも知れない。


 彼に嫌われたと思っただけで、こうしてベッドの上から一歩も動けない。


 別に唯に言われたから学校に行かないんじゃない。学校に行ったっていつもと何も変わらない日々が待っている事は分かっている。

 でもそこに彼の姿はもう無い。


 今思えば、それは当たり前の事だったのかも知れない。今までが、特別だったのかも知れない。こんな最低の人間に彼みたいな人が隣に居てくれた事の方が異常だったのかも知れない。

 私自身、きっとそれに気が付いていた。だから偽った。


 立ち振る舞いも、性格も。学校での立ち位置も全部嘘で固めて。


 すべての始まりはあの約束からだった。けど、その約束ももう彼の中には存在しない。


 それなら私の隣にはもう誰も居ない。



 そう思うとここ何年も張っていた体の力が少しずつ抜けていくのを感じる。少しでも良く見せようと張っていた背筋も少しずつ丸まって行く。



「そうか……もう頑張る必要は無くなったのか……」



 心が諦める事を許容していく感覚に比例して、体もそれに適応していく。

 目付きも、言葉使いも、もう偽る必要は無い。背筋を張る事もしなくていい。毎朝、重たい体を持ち上げなくても、化粧で素顔を隠す必要も無い。


 暗闇の中で想いだけが抜けていく。


 私の意志とは無関係に、私の体はもう飽きて、諦めてしまっているようだった。


 もう既に枯れてしまったと思っていた涙はまだ一筋だけ残っていたようで、もう何日も変えられていないベッドのシーツに、また一つ新しい染みを作る。




―――――





 あれから3日が経った。俺はこの蛍光院学院で彼女を待ち続けている。彼女はあの後、鞄すら置きっぱなしにして帰宅してしまったらしい。

 毎朝の一緒の登校もこの3日は行われていない。まあ学校を休んでいるのだから当然といえば当然か。


 食後の体のダルさを感じながら、図書室の机に向かい合う。ノートの上で繰り広げられている数式の攻防は、残念ながら俺の頭の中にはちっとも入って来そうに無かった。


 この昼休みで何度目かという深い溜息が再度、俺を襲った。



「こら。また集中していないな?」



 今日も俺の隣でメガネ姿を披露している、蛍光院栞《けいこういんしおり

》先輩は、またしても俺を優しく叱りつける。



「あー、すいません。」



 彼女は俺の返事を聞くなり溜息を漏らした。メガネを外し、会話の用意をする。どうやら、メガネをかけるのは勉強中だけらしい。



「また何か、一人で考え事をしているようだね?」


「ははは、分かります?」


 相変わらず、栞しおり先輩は人の機微に敏感なようだ。


「君の事をいつも見ているからね。」


「友達と喧嘩……というのか微妙ですけど、しちゃって……。」


「ほう。それで?」


 栞先輩はいつもの様に、脚を組みながら頬杖を付く。此方の話をきちんと聞いてくれている。


「それから話せて無くて……。」


「ふむ。では、それなら話は簡単だろう? 話し合えばいい。」


「い、いや、そいつそっから学校来てないんすよ。話そうにも話せないっていうか。」


「別にそれは理由にならんだろう? それならその友達の家に行けばいいだけの話だ。話したいなら話せばいい。出来ないなんて事は無いよ。君が悩んでいる理由は本当はそこじゃないんだろう?」



 栞先輩は正論を容赦なく突き付ける。俺は心臓を掴まれている気分だ。



「……そいつがそういう奴だって本当は知ってたんです。でも許せない事があって俺そいつを思い切り怒鳴っちゃって。」


「大分、抽象的な話だね。まあどんな問題が起こったとしても、問題は涼君がその子の事をどう思っているか、だと思うよ。」


「どう思っているか……」


「そうだね。人間、喧嘩するのは当たり前だ。辺り触り無く日々が過ぎるなんて事はあり得ない。だが喧嘩した後にその人が涼君にとって大切な人なら自分がその事を、その人をどう思っているか、きちんと伝えるべきじゃないかな? それが喧嘩のルールだよ。どうでもいい人間なら捨て置けばいい。」



 栞先輩の言葉が俺の中に反響していく。

 その通りだ。栞先輩は正しい。きっと俺は、向日葵と話すと妹に偉そうに宣言しておいて、心のどこかで恐れていたのかも知れない。向日葵が昔みたいに戻ってしまったら、向日葵との関係がもう終わってしまうんじゃないかと。 



 今の向日葵になる前から、俺と向日葵が友達だったのにも関わらず。



 ガタンッ!

 俺は大きな音を立てて静かな図書室で立ち上がった。


 栞先輩はその様子を驚きもせず、いつもの切れ長な綺麗な目で眺めている。



「すいません。俺、大事な用事出来たんで帰ります。」


「君もバカだな。早退するなら、せめて嘘くらい吐きたまえ。」


「すいません。だから……今日の生徒会は出れません。」



 栞先輩は此方を怖いくらいに睨み付ける。

 俺も一切目を逸らさずに彼女を見つめる。



 一瞬の静寂。



 栞先輩は深い溜息を付き、目頭を押さえた。



「あー、分かった分った。勝手にしたまえ。」



 犬を遠ざけるかのような仕草。そんな他人に行使しては無礼になる行為も今は優しさを感じる。

 俺は深く生徒会長であり、この学院の理事も務める彼女に対して深く頭を下げた。



 俺は図書室から飛び出すように走り出した。

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