第20章 猫帰る

定位置に 猫ありてこそ 我もあり


森村誠一



十月二十七日 午前七時五分


 私と理真りまは、大林美緒おおばやしみおの家にクイーンを引き取りにいくため、(私たちにしては)異例とも言える早い時間に起床して、しっかりと朝食も済ませ、車に乗り込んだ。

 美緒の家が近づくにつれ、登校中のみなみ中学生の姿が多く見られるようになったが、それは通常の登校風景とは少し違っていた。生徒らは常に数人から十数人で固まって歩き、保護者らしい大人が付き添っている。いわゆる集団登校というやつだ。通学路の道々にも、恐らく南中学の教諭が辻立ちし、警戒の目を光らせている。

 南中学校では昨日の朝に臨時朝礼が行われ、形塚かたづか教諭の奇禍に対する生徒への説明がされ、そのあとから授業が再開されたという。よって日常の学校生活が戻ってきたのは今日からということになる。集団登校する生徒らの顔に、一様に緊張した表情が見られるのは気のせいではないだろう。

 美緒の家の近くに車を駐め、私と理真は大林家の呼び鈴を押した。すぐに「はーい」という美緒の声が返ってきて、玄関扉が開けられる。


「おはようございます、安堂あんどうさん、江嶋えじまさん」


 制服姿の美緒が顔を見せた。そうと注視してみれば、確かに美緒の制服には汚れや傷み、皺が目立つ。私たちも、「おはよう」と挨拶を返すと、


「もう準備できてますから」


 と美緒は廊下を振り返った。そこには、バスケットと大きな紙袋が置いてある。バスケットの中からは、「にゃーん」と鳴き声が聞こえてきた。理真がクイーンの入れられたバスケットを、私がトイレキットなどが詰め込まれた紙袋を持って車に載せる。


「クイーン、いい子にしてた?」


 理真が訊くと、美緒は、


「はい。すごく大人しくていい子ですよね。私、昨日は一緒の布団で寝ました」


 と満面の笑みを浮かべてから、名残惜しそうに理真が積み込むバスケットを見つめた。

 学校まで乗せていく、と言ったが、近所に住む生徒やその親たちと一緒に集団登校することになってるから、と美緒は頭を下げて断りを入れた。その様子は、集団登校することを馬鹿馬鹿しく思っているように感じた。彼女が特別大人びているということではないだろう。美緒は、集団登校する必要性を感じていないためだろう。生徒に危害を加えるような危険人物など、いないと分かっているからだ。それはすなわち、形塚を殺した犯人が当の自分だから。考えすぎだろうか。だが、確かに昨日、美緒は告白したのだ、自分が形塚を殺した、と。もうひとつ気になったことがある。美緒は、自分を迎えに来る人を称して、「近所に住む生徒」と言った。彼女にとって、学校に「友達」と呼べる人物はやはりいないということなのだろうか。



 さっきから、クイーンの動きが活発化してきている。決して広くないバスケットの中で何度も向きを変え、爪で網目をかりかりと引っ掻き、「にゃー」と何度も鳴き声を上げている。その理由は明白だ。私たちは安堂家へと向かっている。久しぶりに我が家へ帰るということを、クイーンも察しているのだろう。

 私と理真は帰る前に、公園に貼り出したポスターを回収した。動物病院にも寄って、ポスターを貼らせてもらったお礼を述べる。看護師からは、クイーンが帰ってきたことへの喜びの言葉もいただいた。そのクイーンは、病院内では終始、まるで警戒するように異様に大人しくしていた。


 安堂家の駐車スペースは空だった。今日は理真のお母さんはパートに出ている日なのだ。玄関を抜け、廊下にバスケットを置いて蓋を開けると、クイーンは、ぴょんと中から飛び出して走り、廊下の角を曲がって見えなくなった。私と理真が追いつくと、クイーンは居間の真ん中に猫座りをして、部屋の四方八方をきょろきょろと見回している。「お母さんはいないの?」視線がそう訴えかけていた。理真のお母さんが帰宅するのは夕方になると聞いている。それまで、娘とその友人で我慢してくれ。

 私と理真はコーヒーを飲みながら座卓を囲んだ。クイーンも、とりあえず我が家に帰ってきて落ち着いたのだろう、いつもの猫ハウスに潜り込んで寝てしまった。やはりこうでなくては。空っぽの猫ハウスというのは、どうにも気になってしまう。猫ハウスにクイーンが収まっている風景は、すでに安堂家の一部だ。安心した私は、部屋の隅に置かれた大きな紙袋を見た。


「美緒ちゃんと明日奈あすなちゃん、クイーンのことをかわいがってくれてたんだね。ご飯はもとより、トイレや持ち運び用のバスケットまで買ってくれて」


 中学生には結構な出費になったに違いないのに。恐らく買いそろえたのは明日奈のほうだろう。自宅を見るにつけ、結構なお金持ちの家であることが窺える。理真も、紙袋に目をやって、


「うん。あとで明日奈ちゃんにも、何かお礼しないとね。……でも、そもそも、どうしてあの二人はクイーンを連れていったりしたんだろう」

「かわいかったから思わず、なんて言っていたけど」

「それも理解出来ないじゃないけど……どうもね」

「他に何か理由があるの?」

「うーん……」

「まあ、これで、理真のお母さんもひと安心だね」

「そうだね。今日は残業を頼まれても断って、すぐに帰ってくるって」

「今までは、仕事してても気が気じゃなかっただろうね。クイーンが家出しただけじゃなくてさ、小動物の殺傷事件もあったから。あの事件が起きた現場のひとつって、ここからそんなに遠くない場所だったもんね。そういえば、そっちの捜査のほうはどうなってるんだろうね。城島じょうしま警部は何とか人手を工面してくれるって言ってたけど、殺人事件が起きちゃってるからね。難しいかも。ね」


 私は理真を見た。理真は座卓に片肘をついた手にあごを乗せて、ぼんやりとクイーンを眺めていた。


「……理真?」

「ねえ、由宇ゆう、小動物の事件だけど、最近起きた?」

「え? 起きたっていうか、実際に起きてるじゃない」

「そうじゃなくって、ここ二、三日で、新しい事件の報道とか、あった?」

「……いや」私は新聞やテレビニュースを思い返して、「なかった。ここ数日は」

「だよね。前は、三日と置かず、その手のニュースが入ってきてたじゃない」


 確かにそうだった。公園の植え込みに、ビル同士の隙間に、明らかに人為的に殺された猫だとか、鳩だとか、そういった動物の死体が発見されたというニュースは、ほとんど一日か二日置きに聞かれていた。


「最後にその事件が起きたのは、いつ? ……新聞を」と理真は居間の片隅に積まれている古新聞に手を伸ばしかけたが、「いや、警察に聞いたほうが早いか」


 鞄から携帯電話を取りだしてダイヤルした。


「……もしもし、丸姉まるねえ、今、話せる? うん、ちょっと、調べて欲しいことが……」


 理真が電話をする間もクイーンは寝ていたが、耳だけがこちらを向いているような気がした。通話を終えた理真は、


「最後に確認されたのは二十日、先週の金曜日だわ。飲み屋街の路地裏に、そこら一帯をねぐらにしている猫の死体があるのを、飲み屋の店員が発見して通報してる。傷口の状態から、その日に殺されたものと見られたって」

「ということは、今日が二十七日の金曜日だから……丸一週間以上も、新たな被害は出ていないってこと?」

「そういうことになる」

「これだけニュースになって、まずいと思った犯人が、それ以上の犯行を思いとどまった? もしくは、死体が容易に発見されないように、巧妙に隠すようになった、とか?」

「……犯行が出来ないような状態になった、としたら?」

「犯行が出来なくなった? それって、どういうこと?」


 理真は、いつもの考え事をするときの癖である、人差し指で下唇に触れる動作をして俯くと、黙り込んだ。

 少しの沈黙のあと、がばりと顔を上げた理真は、再び携帯電話をダイヤルして、


「……丸姉、冬科ふゆしなさんが所持している衣服を調べて欲しいの。……ううん、全部じゃなくていい、一番上に着るものだけでいいわ、ブルゾンとか、コートとか、あとズボンもか。あ、それと靴も。……調べて欲しいのはね、血痕があるかどうかなの。……そう、もし血痕が見つかったら、科捜研で鑑定してもらって。あ、待って、それとね、今まで、小動物殺傷事件が起きた現場の住所一覧をメールで送ってほしいの。……あ、あともうひとつあるんだけど……いや、そっちは中野なかのさんに頼む。……うん、よろしく」


 理真は通話を終えた。


「理真、冬科さんの衣服に血痕があるかどうかを調べるって、今更じゃないの?」


 そもそも、彼の部屋前の廊下に血痕が付着していて、しかもそれが殺された形塚のものだと判明したことが、参考人として具体的に聴取するきっかけとなったのだ。だが、理真は私の質問に答えないまま、続けて携帯電話をダイヤルして、


「……もしもし、中野さん」


 先ほどの丸柴刑事との通話で宣言していた通り、今度は中野刑事に電話を掛けた。


「形塚さんがしていた腕時計のメーカーと型番を教えてくれますか? ……そうです、今は型番さえ分かれば、ネットで取扱説明書をダウンロード出来ますよね。……はい、それさえ教えてもらえば、あとはこちらで調べます。……はい、じゃあ、後ほどメールで。お願いします」


 通話を終えると理真は、


「さて、こっちの準備だ」


 と立ち上がって、居間の本棚から地図帳を取りだし、新潟市中央区周辺のページを広げた。


「由宇、そこの引き出しに付箋が入ってるから、出して」


 言われるがまま、私は戸棚の引き出しを開けて付箋を取り出す。


「これであとは連絡待ちだ」


 ふう、と息を吐いて、理真は腕を組んだ。いったい何が始まるというのか。


 まず来たメールは、中野刑事からのものだった。被害者の形塚教諭がしていた腕時計のメーカーと型番が記されていた。理真はさっそくそれをもとにメーカーのホームページに行き、当該腕時計の取扱説明書のページに飛んだ。私も理真の携帯電話の画面を横から覗き込む。


「……やっぱり。形塚さんの腕時計は、海外でも使用できるように、ボタンひとつで色々なタイムゾーンに切り替えることの出来る機能がついてたのね」


 理真が言った通り、画面に表示された取扱説明書によれば、形塚の腕時計は、側面のボタンを押すことで最大九箇所のタイムゾーンに設定が出来る。どうやら現在の時計電波を拾っている地域の時刻を基準にして、相対的に時差を自動で調整するシステムのようだ。日本が該当するタイムゾーンは、「日本標準時+0900」というやつだ。例えばこのとき、アメリカ西部のカリフォルニア州が何時に当たるのか。カリフォルニアは「米国太平洋標準時-0800」のタイムゾーンに属するので、両地域の間には、「(-8)-(+9)=-17」で、日本から見てマイナス十七時間の時差があるということだ。日本が午前十時だとすると、アメリカのカリフォルニアはまだ、前日の十七時、午後五時ということだ。日本が午前十時のときにこの機能を使ってカリフォルニアの時刻に設定すれば、時計の針は五時(アナログのため、午前、午後の判別はつかない)になる。同じようにグリニッジ標準時(西ヨーロッパ時間+0000)にしたら、日本に割り当てられた時差「+0900」がチャラになるので、マイナス九時間時計は戻り、同日の午前一時になる。といった具合だ。

 他に、中野刑事との話の中にも出たように、電波の受信機能を切ってフリーモードで自由に針を動かせる機能もあるが、それを行うには、いくつもボタンを操作する必要があり、やや煩雑な手続きを踏まねばならない。

 さらには、ソーラー充電機能まで付いているという。時刻は電波受信で勝手に合わせてくれて、電池交換もしなくてよいということか。至れり尽くせりではないか。最近の腕時計には凄い機能が付いているんだなぁ。でも、その分お高いんだろうなぁ。私には電波受信もソーラー充電もない安物で十分だ。時刻合わせのために竜頭を巻くのも、面倒だが愛着が沸いてくる。


 次いで来たメールは丸柴刑事から。小動物殺傷事件が発生した現場の住所一覧だ。私と理真は、画面を見ながら当該住所が示す地図帳の上に付箋を貼っていく。付箋の数は全部で七つにもなった。


「結構分散してるね」


 地図を俯瞰して私は言った。


「そうなんだよね。だから、警察も手を焼いていたみたい。ある程度まとまってれば、怪しい人物の聞き込みやパトロールもやりやすかったんだけどね」


 理真の口調が過去形になっている。やはり、理真の考えでは、もう小動物殺傷事件は起きない、ということなのだろうか。付箋が貼られた場所の周辺に目立つ施設といえば、西にし中学校がある。その近くに理真が付箋を貼って、


「ここが、明日奈ちゃんの家だよ」


 現場のひとつから近い。


「そして、ここ……」


 理真は、もう一枚付箋を取って、付近に貼り付けた。ここは……。


「冬科さんのアパート」

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